白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・男性たちの<あいだ>を取り継ぐ<貨幣=言語>としてのレーニ

2022年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
フルト弁護士はKに誤解されがちなレーニの態度について説明する。

「『実はそれがレーニの変ったところで。わたしは前に大目に見てやることにしているし、だからいまあなたがドアに鍵をかけなかったら話す気もならなかったが。その変ったところというのはーーーあなたにはわざわざ説明するにも及ばんでしょうが、そんなびっくりした目でわたしを見るから、それで言うんだがーーーその変ったところというのは、レーニが大抵の被告を美しいと思うことです。彼女はだれにでも惚(ほ)れこみ、だれでも愛してしまう、だからまただれにでも愛されるようですがね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.259」新潮文庫 一九九二年)

奇妙なことだ。「被告を美しいと思う」と。どういう意味だろうか。

「『経験を積んだ者なら、大勢の群衆の中からでも被告を一人ひとり見分けることができるのです。どこで、とあなたは聞くでしょうね。わたしの答はあなたを満足させないかもしれない。それはまさに被告が一番美しい人間だからですよ。かれらを美しくするのが罪であるはずはない、なぜといってーーーと、少なくとも弁護士としてわたしは言わなければならないでしょうーーーすべての被告に罪があるとは限らないからです。いまたかれらをいまの段階ですでに美しくしているのが、正しい罰であるわけもない、なぜといってみながみな罰を受けるとは限らないのですから。従ってそれはかれらにたいしてなされた訴訟手続のためというしかないのです。かれらのなんらかの形でつきまとっている訴訟手続ですな。言うまでもなく美しい者の中にも特に美しい者もいます。美しいといえばしかし全員が、あのみじめな虫けらブロックでさえ美しいのです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.260」新潮文庫 一九九二年)

被告にもかかわらずではなく被告ゆえにますます「美」であり得る。有罪か無罪かは問題外であり、訴訟の中へ放り込まれ危険極まりない過程をあくなき信念の<力>を奮い立たせつつなお幼児のようにさまよっている、<逮捕された人間>という立場のまま宙吊りにされている<被告という名の身体>。それがなぜ「崇拝対象」になるのか。ニーチェはいう。

「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年) 

それにしてもなぜ「解約」なのか。訴訟について現状のままでは「危険」が差し迫っていることに気づいたからである。そこで次のKの言葉はこう続く。二箇所ばかり立て続けにこういう。

(1)「『ぼくの考えではこれまでなされたよりもっと強力に訴訟に取組むことが必要になってきたのです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.263」新潮文庫 一九九二年)

(2)「『なるほどあなたから裁判所についての情報はいろいろもらいました、あれはほかのだれからでも得られなかったでしょう。しかしいまとなってはそれでは足りないのです、いまや訴訟が文字どおり忍び足で、ますます身近に迫りつつあるんですから』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.263」新潮文庫 一九九二年)

欲望する機械と化したK。それこそ資本主義を生きる人間の本来的な姿だ。ところが事実上の本来性にまで行き着くことは決してできない。資本主義独特の<公理系>が絶対的決済をどんどん延長させ、いつまでも<未決状態>に置くからである。しかしなぜ<欲望>にほかならないと言えるのか。言葉を置き換えてみよう。「<もっと金を貸してほしい>、そうでなければ、<解約>して新しい融資機関を探すつもりだ」。というKの焦りが言語化されているとしか見えない光景が出現する。少なくとも読者の目には。

一方、レーニは何をしているのか。弁護士とブロックとのパイプ役を果たしている。弁護士から「派遣」される<娼婦・女中・姉妹>の系列の人格化として。レーニはブロックに声をかけて厳しく呼びつけただけですぐKに接近し、Kの背後から全身で「覆(おお)いかぶさったり、両手を、むろん非常に優しくかつ用心してだが、彼の髪にさしこんだり、頬(ほお)をなぜたりして、さんざんにKを悩ませた。ついにKがそれをやめさせるために彼女の手をつかむと、しばらく逆らったのちに彼女は手をかれにまかせきった」。

「『ブロックを連れといで』、と弁護士は言った。が、彼女は呼びにいくかわりにドアの外に出て、『ブロック!弁護士さんのとこへ!』、と叫んだだけで、それから、ふだん弁護士が壁に向いたきりで何も気にかけていないようだったからだろう、こっそりKの椅子のうしろに忍びよった。そうして、椅子の背に覆(おお)いかぶさったり、両手を、むろん非常に優しくかつ用心してだが、彼の髪にさしこんだり、頬(ほお)をなぜたりして、さんざんにKを悩ませた。ついにKがそれをやめさせるために彼女の手をつかむと、しばらく逆らったのちに彼女は手をかれにまかせきった」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.268」新潮文庫 一九九二年)

レーニは<愛することしか知らないを-生きている>。そして少し後で描かれるがレーニの愛の形は諸商品の無限の系列のように延々と形態変化しつつ展開されなおかつ底知れぬキャパシティを持つ。第一に「弁護士の上に覆いかぶさり、そうやってからだを伸ばすと、彼女の肉体の美しい線がくっきりと現れた。彼女は弁護士の顔の上に深くかがみこんで、その長い白い髪の毛をなぜていた」。第二にレーニの肉体言語の動きが「彼に答を余儀なくさせた」。

「するとレーニが弁護士の上に覆いかぶさり、そうやってからだを伸ばすと、彼女の肉体の美しい線がくっきりと現れた。彼女は弁護士の顔の上に深くかがみこんで、その長い白い髪の毛をなぜていた。それが彼に答を余儀なくさせた。『どうもこの男に教えてやる気にはなれん』、と弁護士は言って、頭を少し振るのが見えたが、これはもしかするとレーニの感触をもっと味わいたかったからかもしれない。ブロックは、まるでこんなふうに聞くのが命令を犯すことででもあるように、首をうなだれて聞き耳を立てていた。『なぜその気になれないの?』、とレーニが訊(たず)ねた。Kはすでに何度も繰返されるのだろうが、それでもブロックにとってだけはいつまでも新鮮味を失わないのかもしれなかった。『やつは今日はどうしていたかね?』、と弁護士は答えるかわりに訊ねた。レーニはその話を始める前にブロックを見おろして、彼が自分にむかって両手をさしあげ、懇願するように手をすり合わせているのをしばらく眺(なが)めていた。それからまじめくさってうなずくと、弁護士のほうに向き直って言った。『落着いてよく勉強してました』。一人の老商人、長いひげを生やした男が、年端(としは)もゆかぬ小娘に有利な証言をと懇願したのだ」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.273~274」新潮文庫 一九九二年)

重要な箇所だ。レーニの手に「水掻き」がついていることはすでに述べた。ゆえに<動物>でもある。「城」に出てきたオルガの場合、しばしば村にやって来る役人の性奴隷として取り扱われるとき、「馬小屋」へ入る。オルガはバルナバスの姉だが「馬小屋」では<動物>になる。レーニと似ている。似てはいるがレーニはさらに<子供>の系列へ編入可能である。後で述べよう。ここで見ておくべきはレーニは弁護士とブロックとの<あいだ>を往復する<貨幣=言語>になるという点。

レーニはレーニ自身の身体のままで<貨幣=言語>にのみ許された特権的<第三項>として機能する。弁護士の問いをレーニはブロックへ伝達し、ブロックの返答はレーニを通して伝達し返される。「『やつは今日はどうしていたかね?』、と弁護士は答えるかわりに訊ねた。レーニはその話を始める前にブロックを見おろして、彼が自分にむかって両手をさしあげ、懇願するように手をすり合わせているのをしばらく眺(なが)めていた。それからまじめくさってうなずくと、弁護士のほうに向き直って言った。『落着いてよく勉強してました』」と。この種の言語変換はなぜ可能なのか。(1)ニーチェから。(2)マルクスから。

(1)「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

(2)「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第四節・P.138」国民文庫 一九七二年)

三十歳にもなり実務に長けたエリート銀行員のKから見れば、なるほどレーニは「年端(としは)もゆかぬ小娘」に過ぎない。だが今の日本でいえば高卒程度の女性である。例えば日本各地には商業高校が何個もあるわけだが、通例、卒業した女子生徒は就職するやすぐどこかの勤め先で事務員として労働に従事する。正社員でなくてもアルバイト・パート労働者としてどんな仕事でも引き受けなくてはならない。非正規雇用の場合、昼間はどこかの事務所で働かせてもらい、夜間は専門学校で法律・医療事務、等々を学んでいるという女性はごまんといる。しかしそのような個別的事情より重要なのは、レーニの場合、<娼婦・女中・姉妹>、<動物>、そして<貨幣=言語>と、それぞれの系列を思うがまま変化するく<しなやかさ>を持っていることだ。ただ単なる金属よりも遥かに<貨幣>に近い。その<価値>という点でいついかなる時も<加工=変造>され得るし自分で自分自身を<加工=変造>し得る状態にある。<引き延ばし>「自由」だ。レーニは<子供>にも見え<大人>にも見える。二人の大人から「派遣」され両者の<あいだ>を取り継ぐ<非定住民>として<位置決定不可能性>を生きている。「変身」の場合、グレーゴルの妹グレーテがこの立場にあるけれども、グレーゴルとグレーテとの<あいだ>には近親相姦のテーマ系が見られたのに対し「審判」のKとレーニとの<あいだ>に近親相姦のテーマ系はひとかけらの匂いすらまるでない。レーニはオルガがそうであるように遥かに<動物>に近い。最初に登場した際、「胡椒(こしょう)の匂い」をさせていた。グレーテとは異種なのだ。

なお、さらにロシアについて。ウクライナ侵攻でロシアはアメリカに恩を売る形になった。日本のマスコミ発表では「日米同盟のさらなる強化を確認した」と発表された。視聴者は覚えているだろう。数年前、世界はロシアを含め「グローバリゼーション」構想を発表したがなかなか上手くいかない膠着状態が続いていた。政治学者の中にはこう思っている人々がいた。最終的にロシアからの一撃が必要になるだろうと。本当にそうなった。「日本防衛」を名目に米軍はさらなる自由を得た。ウクライナに供給されている高性能な武器はどれも基本的にアメリカの同盟諸国から供給されたもの。アメリカはよりいっそう日本各地を自由に動き回る権利を手に入れた。少なくともロシアはその「時間をーーー与えた」。デリダはいう。「この<贈与>」と。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟を必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。

こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局 一九八九年)

あからさまな、破廉恥この上ない「贈与」。軍事に置き換えられた「三文ポルノ・ショー」を見るために、経済的にも政治的にも権利上も、このような犠牲が本当に必要なのだろうか。そうでなければ実現不可能な「グローバリゼーション」なのだろうか。一方で「チェルノブイリ《原発》」の危険性をアピールし、もう一方で本当にできるかどうかまだわからない《新型原発》開発のための「時間を<贈与>として与える」。いつまで演じれば気が済むのか。大国同士でいちゃつきたい気持ちは山々なのだろうが、それに付き合わされるばかりか「永世敗戦国」の末路をまざまざと見せつけられる側(日本国民)としてはなぜそれに「税金」が充当されるのかますますわからなくなる。

ロシアは以前クリミア半島を実行支配するため軍事行動を展開した。それは局地戦の様相を呈していた。また一九九〇年代末、NATOによるバルカン空爆があった。名目は「民族自立」支援。これもまた局地戦。しかしその後バルカンはどうなったか。諸大国の多国籍企業の主に自動車メーカー部門が寄ってたかって入り込み事務所を構えた。市場が飽和状態になり自動車も一渡り売れきってしまった頃、EU内の地域内経済格差が先鋭化し、イギリスが離脱するという事態にまで発展した。多国籍自動車メーカーのほとんどはどんどん事務所を撤収して本国へ帰った。空爆で出来た廃墟は新しい建物と置き換えられて多国籍建築メーカーも随分儲けたはず。しかし肝心の「民族自立」はどうなっているか。それぞれの主張する地域で小規模の国家を手に入れはしたものの、地域住民たちはまるで明治時代の近代日本でぞろぞろ出てきた「捨て子」のようにナショナリズムで凝り固まった小さなグループに分かれて覇権闘争を戦い合っている。民族紛争は終わってなどいない。誹謗中傷の嵐は止んでいない。むしろ闘争に疲れ切って今や不穏で虚無的な空気が漂っているばかり。旧西側か旧東側かという選択などもうこりごりだと言わねばならない。

また、まさかとは思うけれども「原発問題・日米地位協定・議員汚職問題・五輪誘致問題・差別問題・労働問題・移民問題、ーーーなど」。上げていけばきりがないほどだが、これら諸問題がきれいさっぱり覆い隠され消え失せてしまう危険への配慮を忘れるわけにはいかない。

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