白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kが見た<規則正しさ>とK自身の両義性

2022年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
一度始まった笞刑は笞刑吏に与えられた義務である。だから容赦がない、というべきだろうか。監視人の一人フランツはすでに「痙攣(けいれん)しながら床を両手でかきむしっ」ている。この様子ではいずれ死ぬことになるだろう。笞刑に処するという判断が出されたとしても、その判断の中に二人の監視人は「死んでもかまわない」という意味があらかじめ含まれているのだろうか。含まれていないとしても笞刑吏が粛々と義務を果たしている理由は監視人が監視するのと同様「家族を養わなきゃならない」からなのか。フランツは今にも息絶えそうだ。床をころげまわって苦悶している。しかしこの箇所の特徴は監視人が死んでしまうかどうかではなく笞刑の遂行形式にある。「ころげまわるあいだも苔の尖端(せんたん)が規則正しく振りあげられ振りおろされた」と。<規則正しさ>。この自動機械性に注目しよう。笞刑吏はもはや笞刑吏という名の自動機械としてしか取り扱われていない。

「『わめくな』、とKは自分を抑えきれずに声をあげ、小使がやってきそうな方角を緊張して見守りながらフランツをついた。強くではないが正気を失った男を倒すには充分だったらしく、フランツは倒れ痙攣(けいれん)しながら床を両手でかきむしった。だがそれでも打擲(ちょうちゃく)を免れるわけにはいかないで笞は倒れた男を狙(ねら)い、ころげまわるあいだも苔の尖端(せんたん)が規則正しく振りあげられ振りおろされた」(カフカ「審判・笞刑吏・P.121~122」新潮文庫 一九九二年)

その時はまだ夜遅くまで雑務の整理のために残っている「小使」がいた。そこでKは「小使がやってきそうな方角を緊張して見守」っていた。もし見つかったりしたらKが何らかの訴訟を抱えていてそのために監視人を派遣され笞刑吏と金銭取引している場を目撃されたかもしれなかったからである。大銀行の主任の地位にあるKが訴訟に巻き込まれているばかりか金銭取引にまで手を染めている。そんな場面を他人に知られるわけにはいかない。だが見つかるのを恐れて「物置小屋」から離れたKはたちまち「良心の疚(やま)しさ」に襲われる。ニーチェはいう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

「笞打ちをやめさせられなかったことが彼を苦しめたが、成功しなかったのは彼の責任ではなかった。もしフランツが悲鳴をあげさえしなかったらーーーなるほどたしかに痛くはあったろう、しかしひとには我慢しなければならぬ決定的瞬間というものがあるのだーーーやつが悲鳴をあげさえしなければおれにはまだ笞刑吏を説得する手段が見つけだせていたはずだ。少くともその可能性は大いにあった」(カフカ「審判・笞刑吏・P.122」新潮文庫 一九九二年)

Kは「良心の疚(やま)しさ」に苛まれながらこう考える。「紙幣を見せたとき彼の目が輝いたのは充分に見てとれた。彼が笞打ちに精出し始めたのは明らかに賄賂(わいろ)の額を少しでもつりあげるためだったのだ」。そしてこうも考える。「すでにこの裁判組織の腐敗との戦いを始めてしまった以上、こういったことにも手を染めるのは当り前」。

「下級役人階級全体が雲助だとしたら、なかで最も非人間的な役目を持った笞刑吏だけがなぜその例外であるはずがあろう。紙幣を見せたとき彼の目が輝いたのは充分に見てとれた。彼が笞打ちに精出し始めたのは明らかに賄賂(わいろ)の額を少しでもつりあげるためだったのだ。おれは本気で監視人たちを逃がしてやろうと思っていたのだから、金惜みするはずはなかった。すでにこの裁判組織の腐敗との戦いを始めてしまった以上、こういったことにも手を染めるのは当り前なのだ。が、フランツが悲鳴をあげ始めたあの瞬間に、当然ながらすべて終ってしまった。小使やひょっとしてそのほかの連中までがやってきて、おれが物置部屋の連中とかけあっているところをのぞかせるわけにはいかないではないか。それほどの犠牲をだれだっておれに要求する権利はない」(カフカ「審判・笞刑吏・P.122~123」新潮文庫 一九九二年)

他人に目撃されたら元も子もなくなると思い、その場を立ち去ったK。しかしKは賄賂の多寡次第で状況を変えることができると信じている。果たしてそうか。短編「掟の門」にこうある。

「たずさえてきたいろいろな品を、男は門番につぎつぎと贈り物にした。そのつど門番は平然と受けとって、こう言った。『おまえの気がすむようにもらっておく。何かしのこしたことがあるなどと思わないようにだな。しかし、ただそれだけのことだ』」(カフカ「掟の門」『カフカ短編集・P.10』岩波文庫 一九八七年)

賄賂をもらってはおくけれどもそれは男に後悔させないための収賄に過ぎない。贈収賄の多寡と「門」を通過させることとはまったく切り離された全然別々の問題である。またKはこうも思う。「監視人の身替りになると笞刑吏に申し出たほうが事はもっと簡単だった」。しかしそれはできない。笞刑が行われているのはあくまでも二人の監視人に対してであり、Kはまだ訴訟中の身柄である。逮捕された身ではあるもののどんな刑罰を受けるのか受けないのか何一つ決まってなどいはしないからである。<法の欲望>が狙いをつけているのはKの身体であって、その身体を逮捕された状態から解放することも死刑宣告することも全然決まっていないにもかかわらず、<法>はKに対して「監視人の身替り」を<欲望>しているかしていないのか、誰にわかるというのか。その意味で笞刑吏は「掟の門」の門番のように振る舞うことしか知らない。

「おれだってもしそれまでにするつもりがあったら、自分から裸になって監視人の身替りになると笞刑吏に申し出たほうが事はもっと簡単だったのだ。とはいえ、この身替りを笞刑吏はきっと受入れなかったに違いない。そんなことをしても何の利得にもならないばかりか、彼の義務をひどく損う、そう、たぶん二重に損う結果になっただろうからだ。なぜといっておれが訴訟中であるかぎり、裁判所のすべての吏員にとっておれは損ってはならぬ者だからだ。むろんこの場合には特別の規定が適用されたかもしれなかったが。いずれにしろおれにはドアを閉める以外には手がなかったのだ、むろんそうしたからといって今だって自分が危険を完全に免れたわけではないのだが」(カフカ「審判・笞刑吏・P.123」新潮文庫 一九九二年)

だからといって「身替り」が不可能だということにはならない。そうではなくもし「身替り」になった場合、今度は笞刑吏が被害者になってしまうに過ぎないだろうと懸念されるわけだ。「身替り」を許したこととまだ何一つ判決の出ていないKの身体を損ねたことで「二重」の痛手を笞刑吏に負わせることになるに違いないからである。「二重に損う結果」が予測可能なのはそれこそ「身替り」が可能だからにほかならない。ニーチェはなぜ「置き換え」が可能なのかについていう。二人に分割されてはいてもなお同等な人間として「算定しうべきものに《された》」からだと。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

さて翌日。「物置部屋」はしんと静まり返っている。そこでKはドアを開けてみた。内部の様相は少しも変わっていない。

「翌日になっても監視人のことはKの念頭を去らなかった。仕事中も気が散っていたので、それを片付けるために前の日よりも遅くまで事務室に残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかったとき、習慣になったように彼はそこを開けた。真暗なはずと思いこんでいたから、そこに現れた光景には我を失った。何一つ変っていなかったのだ。すべてが前の晩彼がドアをあけて見たときのままだった、入口のすぐうしろには印刷物とインク瓶、笞を持った笞刑吏、完全にひん剥(む)かれたままの監視人、棚の上のロウソク。そして監視人たちはすぐさま訴え叫び始めた、『よう、頼むよ!』。Kはあわててドアをしめ、そうすればもっとよく締まるというようにさらに拳(こぶし)でその上を叩(たた)いた」(カフカ「審判・笞刑吏・P.124~125」新潮文庫 一九九二年)

賄賂が多いとか少ないとかにはまるで関係がない。一旦決定された処罰を取り消すことはもはや決して<ない>のである。むしろ逆に<法の欲望>はもっと多く増殖することをめざしている。増殖させるために<法の欲望>はどうすればよいのか、実によく心得ている。このままKの思う方向へ歩いて行かせること。そうすればKの行先に沿ってどんどん<法の欲望>は延長されていく。

Kは巻き込まれた側だが同時に巻き込む側でもある。Kは両方なのだ。例えば原発立地自治体に莫大な交付金が与えられる。第一世代はそれでなんとか満足するほかなかったかもしれない。第二世代になるとそれで当然という空気が充満してくる。ところが第三世代にもなると様子が変わってきた。首都圏の大学へ進学した学生の中から「良心の疚(やま)しさ」に苛まれる人々がちらほら出てきた。他の自治体出身の学生たちはみんなとんでもない苦労を重ねて必死の思いで競争し、借金し、進学し、学歴の高低にかかわらず就職するにも余りにも苦労が多い。多すぎるほどだ。それに比べて交付金で育ってきた自分というものは一体なんなのか。原発は危険だという理由で交付金を受け取ってぬくぬくと育ってきた。だがもはや貰い過ぎてはいないだろうか。逆に本当に原発が危険だというのなら廃止すれば済むことではないのかと。他の人々は過労死に追い込まれたり一家離散で悲惨な状況をかいくぐりながら生活している。

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