白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kを過労させる「長い廊下」

2022年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
《裁判所事務局上り口》とある札を見つけたKに下級廷吏が声をかけてきた。大学生に担がれたままあれよという間にどこかへ連れ去られてしまった女の夫である。もし事務局の中に関心があるなら見学できますよと廷吏はいう。Kは話に乗った。そして「廷吏より早足に階段をのぼっていったが、入口であやうくつんのめりそうになった」。なぜなら「ドアのかげにさらにもう一段あったからだ」。Kは思う。「一般人のことなぞあんまり気にかけていないんだな」。廷吏は返事ともつかない言葉を返す。「ぜんぜん気にしちゃいないさ」。しかし階段が「ドアのかげにさらにもう一段」あるのに気づかなかったのはKただ一人である。<法の欲望>がその後ろ暗さゆえわざと見えにくいところに階段を「もう一段」設置したわけではない。知らなかったのはKばかりであって、廷吏だけでなくすべての訴訟関係者はそれを知っている。「ドアのかげにさらにもう一段」ある階段は一つも隠されていない。階段は深層にあるのではない。むしろ逆に深層などない。表層にあるばかりか、「ドアのかげにさらにもう一段」あるという形でむき出しになっている。Kは注意深く見ていればはっきり見えていたはずの階段を見逃した。Kは表層を見ないという横着な態度を自分で自分自身の身をもって露呈してしまったに過ぎない。その意味で<法>の側はまるで子どもに教えるようにわざわざKに向かって<法>にはくれぐれも気をつけろと教え込んだと言える。Kは学んだ。新しい被告に学ばせる機会を与えることもまた<法の欲望>の部分なのだ。ここでKは<法>の一つ(ドアのかげにさらにもう一段)を自分の中に内在化させたことになる。以後、Kがこの階段でつまずくことはない。フーコーが論じたように<法>はすでに内在化されたからである。このようにKはたびたび<法の欲望>とまったく同一化してしまいそうな危険に陥る。

廷吏はKに「待合室を見てごらんなさい」と言って「長い廊下」を指し示す。廊下は「屋根裏の各部屋に通じている」。しかし「屋根裏の各部屋」といっても密室ではまるでなく「各部屋」の中にいる役人たちの仕事姿は格子越しに見える。そして役人は人間である。生身の人間としての役人の仕事姿が見える。ところがそのことが一方で同じようにはっきり目に見えている次の事実を覆い隠してしまう。「直接光の入りこむ口はないけれどもそこはまっくらではなかった。というのはいくつかの部屋が、廊下に面して、均一の板壁のかわりにむきだしのしかも天井までとどく格子(こうし)になっていて、そこからいくらか光が洩(も)れてきた」。なるほど役人の仕事部屋はそこそこ明るい。だが「廊下」は「いつも薄暗い」。そして被告人たちはKの指摘する「卑屈さ」でいっぱいになり「たがいにほとんど規則正しい間隔をおきあって、廊下の両側に置かれた二列の長い木のベンチに腰かけている」。表層は「いつも明るい」などといつ誰が言っただろうか。たった今、問題は深層と呼ばれている次元にはないとわかったばかりである。深層ではなく表層が問題なのだと。だからといって表層は明るいだろうか。むしろ問題が起こるのは明るいとも暗いともどちらとも言い切れない、ぼんやり薄暗い「長い廊下・満員のホールの片隅・隣室」、ではないか。

「『よし』、とKのほうが廷吏より早足に階段をのぼっていったが、入口であやうくつんのめりそうになった。というのはドアのかげにさらにもう一段あったからだ。『一般人のことなぞあんまり気にかけていないんだな』、と彼は言った。『ぜんぜん気にしちゃいないさ』、と廷吏は言った、『まあこの待合室を見てごらんなさい』。それは長い廊下なのだった、そこに荒っぽいつくりのドアがいくつもついていて、屋根裏の各部屋に通じているのだ。直接光の入りこむ口はないけれどもそこはまっくらではなかった。というのはいくつかの部屋が、廊下に面して、均一の板壁のかわりにむきだしのしかも天井までとどく格子(こうし)になっていて、そこからいくらか光が洩(も)れてきたからだ。そこからはまた中の役人を見ることもできた。机にむかって物を書いたり、ぴったり格子にへばりついて、隙間から廊下の人びとをじろじろ眺めたりしている。日曜日だったせいか、廊下には少数の人がいるだけだった。かれらはみな非常に慎しみ深い人びとという印象を与えた。たがいにほとんど規則正しい間隔をおきあって、廊下の両側に置かれた二列の長い木のベンチに腰かけている。かれらはみなだらしのない服装をしていたけれども、そのくせほとんどの者は、顔の表情とか、態度、ひげの恰好(かっこう)、その他しかと言うことのできぬ多くのこまかな点から、上流階級の連中だとわかった。帽子掛けがなかったのでかれらは帽子を、たぶんだれかがだれかの真似(まね)をして、みなベンチの下においていた。ドアのそばにいた者たちがKと廷吏の姿を認めて挨拶(あいさつ)のために立上ると、それを見て次の者たちは自分らも挨拶しなければならぬと思いこみ、全員が二人の通りすぎるときに立上った。かれらは決して完全に直立したわけではなくて、背中はかがみ、膝(ひざ)は折れ、まるで往来の乞食のようだった。Kは少しうしろを歩いている廷吏が追いつくのを待って、言った。『こうまでも卑屈にしてなけりゃならないのかね』。『ええ』、と廷吏は言った、『被告ですからね、ここにいる人たちはみんな被告なんですよ』。『本当か!』、とKは言った、『じゃみなさんお仲間ってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.101」新潮文庫 一九九二年)

Kは試しに廊下のベンチに腰かけている大柄で白髪の男性に声をかけてみる。男性の姿が「明らかに世慣れた人物の一人」に見えたので、この人物なら卑屈になって応答することもなく自制心も十分あるだろうと思ったからである。ところがKに声をかけられた大柄の男性は痛く狼狽してしまい、Kが弁明しようと男性の腕をほんのちょっとつかんだだけでけたたましい悲鳴を上げた。それを見た廷吏は慌てる様子もなく「被告人はたいていあんなふうに神経質になってるんです」と言ったに過ぎない。Kはまたしても得体の知れない不安に襲われる。一刻も早くここを立ち去ったほうがいいと思う。Kは廊下の中程で見た光景から廷吏に問いただし、建物から外へ出る通路を案内するよう声を荒げる。

「Kはいつまでも監視人や廊下のお仲間にかまけていられなかった、廊下の中程で、ドアのない開口部から右へ曲れる可能性を見てからはとくにそうだった。これが正しい道であるかどうかについて廷吏に訊ねると、廷吏はうなずき、そこでKは本当にそこを曲った。たえず廷吏の一歩か二歩さきを歩かなければならぬことが彼にはわずらわしかった、それは少くともこんな場所では、彼が逮捕され連行されていくような外見を呈しかねなかった。それでなんども廷吏が追いつくのを待つのだが、こっちはすぐまたおくれてしまうのだ。ついにKはこんな不愉快に決着をつけようとして言った。『ここがどんな具合かもうわかったから、帰ろうと思うんだが』。『まだ全部は見ていませんよ』、と廷吏は完全に悪気なしに答えた。『全部を見たいと思わない』、とKは言った、じっさいいくらか疲れも感じていたのだ、『もう帰りたいんだ、出口へはどういったらいいんです』。『まさかもう迷ってしまったんじゃないでしょうね』、と廷吏は呆れてきいた、『ここを角までいって、右へ廊下をまっすぐいけばドアがありますよ』。『一緒に来てくれませんか』、とKは言った、『道を教えてほしい、ひとりじゃ道に迷いそうだ、まったくここにはたくさん道があるからな』。『道は一つしかありゃしませんぜ』、と廷吏はすでに咎(とが)める口調で言った、『もういちどあなたとひっ返すわけにゃいきませんよ、報告しにいかなくちゃならんし、それにいいかげんもうあなたのことで時間潰しをしてしまったからね』。『一緒にくるんだ』、とKはくり返した、これでやっと廷吏の嘘をつきとめたぞというように、前より鋭い口調で。『そんな大声を出さんでください』、と廷吏はささやいた、『ここはどこもかしこも事務所なんだから。一人で帰りたくないんだったら、もうちょっとわたしと一緒に来るか、ここで待っててください、わたしが報告をすませてくるまで。そうすりゃよろこんでまた一緒に戻ってあげますよ』。『いや、だめだ』、とKは言った、『ぼくは待ってられない、いますぐ一緒に来てくれ』。Kはそれまで自分のいる辺をまだよく見回したことがなく、まわりにぐるっとある木製ドアの一つが開いたいまになってやっと、彼はそっちに目をやったのだった。ひとりの娘がどうやらKの大声をききつけてきたらしく、近づいて訊ねた。『なにかご用でしょうか』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.104~105」新潮文庫 一九九二年)

この箇所でまたカフカ的問題提起が見られる。「たえず廷吏の一歩か二歩さきを歩かなければならぬことが彼にはわずらわしかった、それは少くともこんな場所では、彼が逮捕され連行されていくような外見を呈しかねなかった。それでなんども廷吏が追いつくのを待つのだが、こっちはすぐまたおくれてしまう」と。短編「走り過ぎる者たち」から。

「夜、狭い通りを散歩中に、遠くに見えていた男がーーーというのは前が坂道で、明るい満月ときているーーーまっしぐらに走っているとしよう。たとえそれが弱々しげな、身なりのひどい男であっても、またそのうしろから何やらわめきながら走ってくる男がいたとしても、われわれはとどめたりはしない。走り過ぎるがままにさせるだろう。なぜなら、いまは夜なのだから。前方が上り坂で、そこに明るい月光がさしおちているのは、われわれのせいではない。それにその両名は、ふざけ半分に追いかけ合っているだけなのかもしれないのだから。ことによると二人して第三の男を追いかけているのかもしれないのだから。先の男は罪もないのに追われていて、背後の男が殺したがっているのかもしれず、とすると、こちらが巻き添えをくいかねないのだから。もしかすると双方ともまったく相手のことを知らず、それぞれがベッドへ急いでいるだけなのかもしれないのだから。もしかすると夢遊病者かもしれないのだから。もしかすると先の男が武器を持っているかもしれないのだから。それにそもそも、われわれは綿のように疲れていないだろうか」(カフカ「走り過ぎる者たち」『カフカ寓話集・P.79~80』岩波文庫 一九九八年)

その場だけを見ていては何がなんだかさっぱりわからない。<事件>なのだろうか。とすればどこがどのように?ドゥルーズはいう。

「一般にメディアが最初と最後を見せるのにたいして、<事件>のほうは、たとえ短時間のものでも、あるいは瞬間的なものでも、かならず持続を示すという違いがあります。そしてメディアが派手なスペクタクルをもとめるのにたいして、<事件>のほうは動きのない時間と不可分の関係にある。しかもそれは<事件>の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は<事件>そのものに含まれているのです。たとえば不意の事故がおこる瞬間は、いまだ現実には存在しない何かを見る目撃者の目に、あまりにも長い宙づりの状態でその事故がせまってくるときの、がらんとした無辺の時間と一体になっているのです。どんなありふれた<事件>でも、それが<事件>であるかぎり、かならず私たちを見者にしてくれるのにたいして、メディアのほうは私たちを受動的なただの見物人に、そして、最悪の場合は覗き魔に変えてしまいます」(ドゥルーズ「記号と事件・4・政治・P.323~324」河出文庫 二〇〇七年)

数日前に触れたがもう一度述べておこう。

ドゥルーズがいうような「派手なスペクタクル」を求めている「受動的なただの見物人」。その点で時期的に(1)「北京五輪」開催を上げておこう。ただし(2)「覗き魔」については少し混み入った事情に触れておかねば説明がつかない。ラカンから三箇所。

(a)「欲動がそこで機能するかぎりでの視るという水準には、他のすべての次元において認められるのと同じ対象『a』の機能が見られます。対象『a』とは、主体が自らを構成するために手放した器官としてのなにものかです」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.136」岩波書店 二〇〇〇年)

(b)「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店 二〇〇〇年)

(c)「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)

さらに「対象『a』」を探求していけばもっとたくさん見つかるだろうと思う。性別に関わらず「脚」、「制服」、「眼鏡」、「出身大学名」、「風音」など、どこにでも転がっていそうだ。また「主体の無意識において生起している弁証法」という言葉は難解かもしれない。差し当たり映画「ブレード・ランナー」で描かれている世界のようなものだと考えておけばほぼ間違いない。そして重要なのは「眼差し」。ラカンのいう「眼差し」は数値化され得る「視力-視覚器官」とは一つも関係がない。そうではなくて、サルトルがこう述べているような「眼差し」である。三箇所引こう。

(1)「他者のまなざしは、他者の眼をおおいかくしている。他者のまなざしは、あたかも他者の《眼の前方を》行くように思われる。この錯覚はどこから来るかというに、私の知覚対象としての相手の眼は、私からその眼にまでくりひろげられている一定の距離のところにとどまっているーーー要するに、私の方では、距離なしに相手の眼に現前しているのであるが、相手の眼は、私の《居る》場所から隔たっているーーーのに反して、相手のまなざしは、距離なしに私のうえにあると同時に、距離をおいて私を保っているからである」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.456」人文書院 一九五六年)

(2)「私の背後で枝のざわめきが聞えるとき、私が直接的にとらえるのは、『《そこに誰かがいる》』ということではなくて、『私は傷つきやすい者である』ということ、『私は傷つけられるおそれのある一つの身体をもっている』ということ、『私は或る場所を占めている』ということ、『そこでは私は無防備であって、私は何としてもその場所から逃げだすことができない』ということ、要するに、『私は《見られている》』ということである。それゆえ、まなざしは、まず、私から私自身へ指し向ける一つの仲介者である。この仲介者はいかなる本性をもつものであろうか?『見られている』ということは、私にとって、何を意味するであろうか?」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.456~457」人文書院 一九五六年)

(3)「われわれが対自をその孤独において考察したかぎりにおいて、われわれは、『非反省的な意識のうちに一つの《私》が住むことはありえない。《私》は、対象としては、反省的な意識にとってしか、与えられない』と、主張することができた。けれども、いまの場合には、『私』がやってきて非反省的な意識につきまとう。ところで、非反省的な意識は、世界《についての》意識である。それゆえ、『私』は、非反省的な意識にとっては、世界の諸対象の次元にしか存在しない。しかるに、『私』の現前化という、反省的な意識にのみ帰せられていたこの役割が、いまここでは、非反省的な意識に属する。ただし、反省的な意識は、『私』を、直接、対象とする。非反省的な意識は、《人格》を、直接、自分の対象として、とらえるのではない。つまり、人格は、《それが他者にとっての対象であるかぎりにおいて》、意識に現前的である。いいかえれば、私が私から逃れ出るかぎりにおいて、私は、一挙に、『私』を意識する。しかもそれは、私が私自身の無の根拠であるかぎりにおいてではなく、私が私のそとに私の根拠をもつかぎりにおいてである。私は、まったく他者への差し向けとしてしか、私にとって存在しない。しかしながら、この場合、『対象は、他者であって、私の意識に現前的な《自我》は、対象-他者の一つの副次的な構造もしくは一つの意味である』などと解してはならない。他者は、この場合、対象ではないし、対象ではありえないであろう。われわれがさきに示したように、他者が対象になるならば、それと同時に、『私』は、『他者にとっての対象』であることをやめて、消失してしまう。それゆえ、私は、他者を対象としてめざすのでもなく、私の《自我》を私自身にとっての対象としてめざすのでもない。私は、現在、私の手のとどかないところにある一つの対象へ向かってと同様、かかる《自我》へ向かって、一つの空虚な志向を向けることもできない。事実、かかる自我は、《それが私にとって存在するのでなく》して、原理的に《他人》にとって存在する《かぎりにおいて》、とらえるからである。それゆえ、私は、かかる自我がいつか私に与えられうるであろうかぎりにおいてそれをめざすのではなく、むしろ反対に、かかる自我が、原理的に私から逃げ去り、決して私に属しないであろうかぎりにおいて、それをめざすのである。しかしそれにしても、私はかかる自我《である》。私はかかる自我を一つの無縁な像としてしりぞけはしない。むしろ、かかる自我は、私がそれ《であり》ながらそれを《認識》しない一つの『私』として現前的である。なぜなら、私がかかる自我を発見するのは、羞恥において(他の場合には、傲慢において)であるからである。他者のまなざしを私に顕示し、このまなざしの末端において私自身を顕示するのは、羞恥もしくは自負である。また、私をして、『まなざしを向けられている者』の状況を、《認識》させるのでなく、《生き》させるのは、羞恥もしくは自負である。ところで、羞恥は、この章のはじめに指摘したように、《自己》についての羞恥である。羞恥は、『私に、まさに、他者がまなざしを向けて判断しているこの対象《である》』ということの《承認》である。私は、私の自由が私から逃れ出て、《与えられた》対象になるかぎりでの、この私の自由についてしか、羞恥をもつことができない。それゆえ、もともと、私の『まなざしを向けられている《自我》』と私の非反省的な意識とのきずなは、認識のきずなではなくして、存在のきずなである。私は、私がもちうるあらゆる認識のかなたにおいて、或る他人が認識しているところの『この私』である。しかも、私は、他者が私から奪って他有化した一つの世界のうちにおいて、私がそれであるところの『この私』である。なぜなら、他者のまなざしは、私の存在ばかりでなく、これと相関的に、壁、扉、鍵孔などをも、抱擁するからである。私はそれらの道具-事物のただなかに存在しているのであるが、それらすべての道具-事物は、原理的に私から逃れ出る一つの顔を、他人の方へ向ける。それゆえ、私は、他人の方へ向かって流出する一つの世界のただなかにおいて、他人にとって、私の《自我》である。けれども、さきに、われわれは、対象-他者へ向かっての《私の》世界の流出を、『内出血』と呼ぶことができた。というのも、事実、私のこの世界が他者の方へ向かって出血するときにも、私の方ではこの他者を私の世界の対象として凝固させるという事実そのものによって、その出血はくいとめられ、局所化されていたからである。かくして、一滴の血も失なわれずに、すべては、私の入りこむことのできない一つの存在のうちにおいてではあるにせよ、回復され、隈(くま)どられ、局所化されていた。ところが、ここでは、反対に、この逃亡ははてしがない。この逃亡は外部に自己を失なう。世界は世界のそとに流出し、私は私のそとに流出する。他者のまなざしは、この世界における私の存在のかなたに、《この世界》でありながら同時にこの世界のかなたにあるような一つの世界のただなかに、私を存在させる」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.459~461」人文書院 一九五六年)

だから例えば、ネットの世界化によって実現されたように、他者の《まなざし》へ簒奪され他有化された自分の(幻想的であれ実際の光景であれ)《性行為》が自分自身の《人格として》世界中のどこかに、クラウドのどこかへいつもすでに流出していてもはや回収しきれない、という事態は《まなざし》というもののこのようなあり方から導き出される必然的な事態の一つである。しかも区別としてはたった一つのカテゴリーに入るに過ぎない。「人物Aの(幻想的であれ実際の光景であれ)《性行為》=人物Aの《人格そのもの》」という定式の樹立。にもかかわらずもっと遥かにおぞましいのは、このような世界が常に管理社会としてすでに成立してしまっているという事態であるに違いない。

Kの言動を追いかける読者は、二十一世紀になって登場したまったく新しい監視管理社会のもとで、Kの破滅的な歩みとともにKを完全な破滅から救い取って別の線へ逃げ去らせる<娼婦・女中・姉妹>そして<子ども>の系列がしばしば出現する過程を見ていくことになる。

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