白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kの隣人女性ビュルストナーとは誰か/グルーバッハ夫人発言の両義性

2022年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
その夜の十一時半ごろ、隣人のビュルストナーが帰宅した。Kは今朝起ったことをビュルストナーに説明しなくてはと思い、ビュルストナーの了解を得た上で今朝の状況を再演して見せた。途中、Kは、監督官がKの名を呼ぶ声を真似て思いがけず大きな声を出してしまった。すると誰もいないはずの隣室のドアを二、三度、規則正しくノックする音が聞こえた。ビュルストナーの顔色は蒼(あお)くなり胸に手をあてた。Kは心配ないというがビュルストナーはKが思いも寄らなかったことを告げる。

「『怖がることはありません』、と彼はささやいた、『ぼくが万事かたをつけます。しかしだれだろう?このとなりは居間なんだから、だれも寝てるはずはないんだが』。『いるのよ』、とビュルストナーはKの耳にささやいた、『きのうからここにグルーバッハさんの甥(おい)が寝てるのよ、大尉(たいい)が。ほかにあいてる部屋がないのよ、ちょうど。わたしも忘れてたわ。あんなに大声で叫ばなくてもよかったのに!ああ困ったことになったわ』」(カフカ「審判・グルーバッハ夫人との対話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと・P.52~53」新潮文庫 一九九二年)

とすれば下宿の管理人グルーバッハ夫人もKを逮捕した仲間の一人だというのか。しかし事情はそう単純ではないらしい。ビュルストナーはいう。隣室に大尉がいることとKの逮捕とはまるで関係ないか少なくとも重要ではない。そうではなくKの声に対する反応がほかでもない「ノックの音」だったことがビュルストナーを恐怖させたのだと。

「『ごめんなさい、あの突然のノックの音にあんまりびっくりさせられてしまったものだから。でも大尉がいることで起るかもしれない結果がこわかったわけじゃない。あなたが叫んだあと急に静かになった、そこにノックの音がした、それであんなにびくっとしてしまったんです、わたしはドアのすぐそばに坐っていた、だから音が耳のすぐわきできこえたのよ』」(カフカ「審判・グルーバッハ夫人との対話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと・P.54」新潮文庫 一九九二年)

ビュルストナーを怯えさせた「ノックの音」。ナチス・ドイツとその暴力団員たちによるファシズムを予告するシーン。短編「田舎医者」でカフカはこう書いた。

「たとえ偽りにせよ夜に呼鈴が鳴ったが最後ーーーもう取り返しがつかないのだ」(カフカ「田舎医者」『カフカ短編集・P.45』岩波文庫 一九八七年)

ただしKにはまだ正当性がある。不当逮捕だと主張することはできるし審理が始まるのもまだこれからだからだ。そんなKのためを思ってかそうでないかはわからないが、ともかくビュルストナーは隣室がすでに大尉の部屋になっている光景を見せておくことにする。

「彼はふたたび彼女の手首を掴んだ、彼女は今度はされるままにしていて、ドアまで彼をひっぱっていった。彼は出ていこうと固く決心していたのだった。しかしドアの前までくると、こんなところにドアがあるなんて思いもかけなかったというような顔で、立止まってしまった、この瞬間をビュルストナーは利用して、身をもぎ離し、ドアを開け、控室にすべりこんで、そこから小声でKに言った。『来てごらんなさい、ほら。見えるでしょ』ーーー彼女は下から小さな明りが洩(も)れている大尉の部屋のドアを指さしたーーー『明りをつけて、わたしたちの話を聞いているんです』。『すぐいく』、とKは言って、走りより、彼女をとらえ、彼女の口にキスをした、それから喉(のど)が渇(かわ)いた獣がとうとう見つけた泉に舌をつけるように、顔じゅういたるところいキスをした。最後に彼は彼女の喉のあたりにキスをして、そこにながいこと唇を押しあてていた。大尉の部屋で物音がしたときやっと彼は目をあけた」(カフカ「審判・グルーバッハ夫人との対話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと・P.55~56」新潮文庫 一九九二年)

ところでしかしビュルストナーとはどんな女性なのか。読者がごく平凡に考えればKの将来の妻になるはず女性だと考えられるだろう。だが妻になる前に予測不可能な事態が生じたためビュルストナーは延々とどこまでも遠くへ喪失してしまう。相変わらず隣人であるにせよ。また実際に妻になるのがビュルストナーだとしてもなお、Kの性欲処理はKと旧知の間柄である娼婦エルザが引き受けている。だからといって嫉妬まみれの厄介な三角関係が生じたりはしない。むしろ役割分担ゆえに愚劣な三角関係が生じる余地はあらかじめ排除されている。ホルクハイマー=アドルノのいうように。

「娼婦と妻とは互いに家父長制の世界における女性の自己疎外の両極をなし合うものである。妻には、生活と所有との確固たる秩序に対する喜びが窺われ、他方、娼婦は、妻の所有権から取りのこされたものを妻の隠れた同盟者として改めて所有関係に取り込み、快楽を売る」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・2・オデュッセウスあるいは神話と啓蒙・P.150」岩波文庫 二〇〇七年)

一方、ビュルストナーについてグルーバッハ夫人はどう思っているのだろうか。

「『なにもわたしはビュルストナーさんを悪く言うつもりはありませんよ、彼女はかわいい、いい娘さんですからね、親切で、きちんとしていて、時間も正確だし、仕事好きです、そういったこと全部をわたし非常に高く買ってるんですよ、しかしもっとプライドを持って、控え目にしたほうがいいことだけはたしかですね。今月になってわたしはもう二度も、ずっと離れた通りで、そのたんびに彼女が違う男と一緒にいるのを見かけましたよ。こんなことを言うのとてもいやなんですけどね、神かけて、あなたにだけお話するんです』」(カフカ「審判・グルーバッハ夫人との対話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと・P.42」新潮文庫 一九九二年)

悪く思っていないどころか「親切で、きちんとしていて、時間も正確だし、仕事好き」という点で高く買っている。ところが次の言葉はどうか。「今月になってわたしはもう二度も、ずっと離れた通りで、そのたんびに彼女が違う男と一緒にいるのを見かけましたよ」。この台詞(せりふ)は二つに分裂した両義性を持つ。(1)ビュルストナーは<男遊びが大好きなとんでもない尻軽女だ>という意味。(2)ビュルストナーは<いつどこでどんな組織の人間と接触しているのかてんでわかったものではない警戒すべき女だ>という意味。

話は当然そうなるしそうならざるを得ないわけだが、とするとビュルストナーの実像とはなんなのか、それはそもそも掴めることができるものなのか、急速に不透明化してくるほかない。短編「走り過ぎる者たち」で描かれたとおり、第一の男、第二の男、第三の男ーーー、と諸商品の無限の系列のように変容する。

「夜、狭い通りを散歩中に、遠くに見えていた男がーーーというのは前が坂道で、明るい満月ときているーーーまっしぐらに走っているとしよう。たとえそれが弱々しげな、身なりのひどい男であっても、またそのうしろから何やらわめきながら走ってくる男がいたとしても、われわれはとどめたりはしない。走り過ぎるがままにさせるだろう。なぜなら、いまは夜なのだから。前方が上り坂で、そこに明るい月光がさしおちているのは、われわれのせいではない。それにその両名は、ふざけ半分に追いかけ合っているだけなのかもしれないのだから。ことによると二人して第三の男を追いかけているのかもしれないのだから。先の男は罪もないのに追われていて、背後の男が殺したがっているのかもしれず、とすると、こちらが巻き添えをくいかねないのだから。もしかすると双方ともまったく相手のことを知らず、それぞれがベッドへ急いでいるだけなのかもしれないのだから。もしかすると夢遊病者かもしれないのだから。もしかすると先の男が武器を持っているかもしれないのだから。それにそもそも、われわれは綿のように疲れていないだろうか」(カフカ「走り過ぎる者たち」『カフカ寓話集・P.79~80』岩波文庫 一九九八年)

しかし注意すべきは、カフカの場合、長編と短編とが似ているからといって両方とも同一性の枠組に収めてしまってはならない点である。短編は長編読解の補助にはなり得ても、だからといって両者は決して同じではない。ニーチェはいう。

「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

同一性を前提として考えるのではなく逆に差異性の側から考えるのが重要だろう。例えば、百万円の投資が百一万円になって環流してくるのはなぜか。同一性を前提にすると何一つわからない。逆に差異性を前提として考えなければ理解できないしできるはずもない。

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