白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kの業務放棄と国家権力の脱中心性

2022年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
フルト弁護士に失望したKは自分だけでよりいっそう繊細に注意深く訴訟を押し進めていく必要性を痛感する。もっとも、そういう考えに立ち至ったのは銀行にある自分の事務室の中。思い出せば思い出すほど訴訟の弁護をフルト弁護士任せにしていることがたまらなく時間の無駄に思われ、いてもたってもいられなくなってくる。何度も繰り返し同じ話をしつこく聞かされるばかりで訴訟の進展具合は何一つはっきりしない。弁護を弁護士任せにしているということは訴訟の現場にKが直接自分の身を置いているわけではないことを意味している。それがよくない態度なのに違いないとKは考える。しかしそもそも<この訴訟>の「現場」とはどこか。それについてはまるで明らかにされないまま、ともかくフルト弁護士との解約が先決だとKは決心する。とすれば訴訟全般に渡って自分で何もかも遂行していかねばならなくなる。Kの場合ならたちまち銀行業務を犠牲にしなければならなくなるのは必至だ。Kの生活を経済的に支えているのは銀行の正社員だからなのだが、しかしこのままでは訴訟に専念することはできない。今度は銀行業務への専念が邪魔に思えてきて仕方がない。訴訟と銀行業務とを同時に行うことはもはや「拷問」に等しいとKは考える。

「それなのにいまでも銀行のために働けというのか?ーーー彼は事務机の上に目をやった。ーーーいまも顧客を通してかれらと商談しなければならないのか。自分の訴訟がころがりつつけているのに、そしてあの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の書類に目を走らせているというのに、おれはいまも銀行の業務に気を使わなければならぬのか。これではまるで拷問(ごうもん)ではないか。裁判所で承認され、訴訟と抱きあわせになってどこまでもついてまわる拷問。なのにたとえば銀合でおれの仕事を評価するさいに、こんな特別の事情を顧慮してくれる者があるだろうか?そんなやつは一人もいない」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.184」新潮文庫 一九九二年)

銀行の業務主任ともなればいつも何人かの大切な顧客を持っているわけだが、その中に或る工場主がいた。工場主はすでにKが難儀な訴訟を抱え込んでいることを知っていた。工場主の事務所に出入りしている画家がいて、その雅号はティトレリというのだが、主な収入源は肖像画制作で裁判所の仕事らしい。そこで工場主はティトレリのことを余り信用していないとは言いながらも事情通なので、一度ティトレリに会ってみてはと勧める。紹介状と住所を記した書状をKに渡してくれた。

「『ひょっとしたらあのティトレリがーーーとわたしはいま思ったんですがーーーいくらかあなたのお役に立つんじゃないか、彼ならたくさんの裁判官を知っているし、彼自身はそう大した影響力は持たないとしても、どうやったらさまざまの影響力ある人たちに近づけるか、助言をすることぐらいはできるでしょうからね。そしてそういった助言はそれ自体としては決定的なものでないとしても、わたしの考えでは、あなたの手に入れば大きな意味を持つだろうと思うんです。あなたはなにしろ弁護士みたいな方ですからね。わたしはいつも言ってるんですよ、業務主任のKさんはほとんど弁護士だって。いや、なにもあなたの訴訟のことで心配してるわけではありませんよ。しかし、どうです、ティトレリのところへいってごらんになりませんか?わたしが紹介すればあの男ならなんでもできるだけのことはするでしょう。いらっしゃったほうがいいと思いますがね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.188~189」新潮文庫 一九九二年)

とはいえKは、工場主に紹介されたティトレリのことをいきなり重要人物だと受け取ったわけではない。顧客である工場主にしてからがティトレリについてほとんど信頼を置いていないというのに。この時、Kは銀行内で頭取代理と出世を争っていた。頭取代理の立場を脅かすほどになっていた。Kが訴訟を行なっていることも知らない。一方、さしあたりKはティトレリに会うとしても銀行へ呼んで来てもらえばいいくらいに考えていた。しかしティトレリが銀行へやって来ることで頭取代理に訴訟のことを知られたりすれば恐らく頭取代理は、Kの社会的立場の危うさを見て取り出世競争に有利になると自信をつけるかもしれない。ティトレリを銀行に呼んでライバルの頭取代理にKの弱みを知られるのは大変まずい。そう思い至るやKはいてもたってもおれなくなり今すぐにでもティトレリに会うべきだと頭の中ががらりと切り換わった。一刻も早く訴訟を終わらせるには銀行業務の幾分かを犠牲にしなければならない。とはいうものの銀行業務をそっちのけにして訴訟だけに集中することは余りにも危険すぎる。危険すぎるけれどもそうしなければ訴訟をできるだけ速やかに終わらせることはできない。ましてや頭取代理に負けることなどKのプライドが許さない。容易に全体像を見せない訴訟にはあらゆるところにKの気づかない罠がまだまだ仕掛けられているかのように思われる。そう考えるとティトレリとの面会が唐突に重要性を帯びて見えてきた。Kが抱えている顧客はまだ三人ばかり待っていたのだがKは待たせてしまっている顧客たちに今日はもう会えないと説明する。

「『ご免なさい、みなさん。残念ながらいまお会いする時間がないのです。非常に申しわけないのですが、さし迫った用事があって、、すぐ出かけなければならないのです。みなさんもごらんの通りわたしは長いことすっかり引きとめられてしまいました。明日か、またいつでも、あらためてお出(いで)くださいませんでしょうか。それともなんなら電話で用件をうかがいましょうか?それともいま簡単にご用件をうかがってのちほど文書でくらしいお返事をさしあげましょうか?もちろん近々またお出くださるのが一番よろしいのですが』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.191~192」新潮文庫 一九九二年)

長時間待たされていたKの顧客たちは当惑を隠せない。その様子を目の前にしながらKはもう外出のための外套を着込みつつある。そこへ頭取代理がやって来ていう。

「『みなさん、大変簡単な方法がありますよ。もしわたしでよろしかったら、業務主任のかわりにわたしがよろこんでお話をうけたまわりましょう。みなさんのご用件はもちろんただちに相談しなければならぬことでしょうからね。わたしどももみなさんと同じ実業家ですから、実業家の時間が大切なことはよくわかっています。こちらにお入りになりませんか?』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.193」新潮文庫 一九九二年)

Kは大切な顧客を奪われた形になる。にもかかわらずKはティトレリのところへ駆けつけずにはいられない。業務主任としての重要な仕事を頭取代理に譲り渡してしまうK。頭取代理の顔色には<力の充実>が浮き上がって見える。職場でKが持っていた<任務への力>が頭取代理の側へ移動したことをKは見てとる。

「『いまはあの男にかなわないが』、とKは自分に言った、『おれの個人的な厄介事(やっかいごと)がすっかり方がついたらあの男にはまっ先に痛い目に会わしてやろう。それもできるだけこっぴどく』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.194」新潮文庫 一九九二年)

だが訴訟が済めばいつでも挽回できる自信のあるK。むしろ銀行業務へ向いていた強度を一時的に頭取代理へ移動させておくだけのことで、訴訟が済み次第いつでも強度を自分の側へ再移動させて名誉回復できるはずだと思う。それよりもその間に訴訟に没頭できる時間ができたことでKは逆に心浮き立ってくるのだった。ますますKは<訴訟への意志>を打ち固めたことになる。むしろそうするのがうれしくてたまらないかのようだ。Kの欲望はいよいよ訴訟自身と同一化していく。

画家ティトレリ。工場主から紹介されたわけだがその名は工場主の案件でもなければKの銀行業務に関わる名でもない。事務室でのただ単なる「噂話」の中をひょいと横切った名である。裁判所事務局で整然と二列に並べられたベンチの間を横切る薄暗く長い廊下で、時々囁かれる「ひそひそ話」のように。工場主が探していたわけではなくKが探していたわけでもない。訴訟へのKの欲望ゆえに工場主にこの「噂話」を出現させ、またそこに出現した名がさらなる欲望を増殖させていく。Kの欲望が次々に関係者を接続させ増殖させていくのである。そしてそうすればするほどKの訴訟は限度を忘れ、結審は無限に先送りされていく。なぜそうなるのか。Kは訴訟というものを一つの国家の中だけで完結できるもののように考えているからである。しかしヘーゲルはいう。或る国家があるのは他の国家があり、それらすべては有機的繋がりを持つ限りで始めて成立すると。「《対内》主権」と「《対外》主権」とを区別している箇所にこうある。

「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)

全体は有機的組織性として存在する。今の世界がそうであるように<流動する力のネットワーク>として見なければならない。ゆえにフーコーがいうように権力の遍在性について語ることができる。

「権力は至るところにある。すべてを統轄するからではない、至るところから生じるからである。そして通常言われる権力とは、その恒常的かつ反覆的な、無気力かつ自己生産的な側面において、これらすべての可動性から描き出される全体的作用にすぎず、これら可動性の一つ一つに支えを見いだし、そこから翻ってそれらを固定しようとはかる連鎖にすぎないのだ。おそらく名目論の立場を取らねばなるまい。権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.120~121」新潮社 一九八六年)

アルトーが逃れ出ようとした「有機体」とはこのように、絶対的中心を持たず、むしろ逆に至るところに充満する権力機構のことだ。だから二十一世紀の世界的ネットワークからの逃走は絶望的であると同時に数値化されない部分をいつも増殖させていく以上、いついかなる時でも可能である。Kに見えていないのは<娼婦・女中・姉妹>そして<子供>の系列として実在する<他者>の<他者性>にほかならない。例えば「手の指に水掻きのある」レーニ。彼女はただ単にお茶を運んでくるだけでフルト弁護士の退屈な演説からいったんKを解放してやるのではない。Kだけでなくフルト弁護士もお茶を飲んで力を回復する。そしてまた退屈極まりない演説で訴訟を有利にさせる条件を手に入れる見込みが果てしなく遠いことをKに理解させる。レーニはKを力づけようとしてお茶を入れるわけでは全然ない。逆にフルト弁護士に再び力を回復させ無意味に等しい力説を反復させ、そのためうんざりしきったKがとうとうフルト弁護士を手放す方向へ扉を開くのだ。

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