白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・商人ブロックがKに語る<ひとりでに増殖する>諸問題

2022年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
Kはフルト弁護士への弁護依頼を解約するため、通い始めてもう半年ほどになる裁判所事務局のある貧民街の建物へ向かった。叔父に紹介された弁護士だ。玄関ドアのベルを鳴らしたが反応がない。普段ならレーニが出てくるはずなのだが。Kは二度目のベルを押しながら別のドアを見たが閉じたままのようだ。しばらくするとドアの外にKが来ているのを確認する目が「覗(のぞ)き穴」に現れた。レーニの目ではない。すぐにドアは開かず、Kが来たので誰かに逃げるのを促す大声が警告音のように響いた。そしてようやくドアが開いた。Kはもうドアに体当たりしていた。Kは「まっすぐ控えの間にとびこみ、部屋と部屋のあいだの廊下をレーニが下着姿で逃げてゆくのを見た」。ドアは開けたのは商人をやっているブロックという名の小柄な男だった。

「Kはからだごとドアにぶつかっていった。というのは、もう彼のうしろで別の家のドアに急いで鍵(かぎ)をまわす音がきこえたからだ。そこで、目の前のドアがやっと開いたとき彼はまっすぐ控えの間にとびこみ、部屋と部屋のあいだの廊下をレーニが下着姿で逃げてゆくのを見た。ドアを開けた男の警告の叫びは彼女にむけて発せられたものだった、彼はしばらく彼女を見送り、それからドアを開けた男のほうに向き直った。総(そう)ひげをはやした、小柄(こがら)な痩(や)せた男で、手にロウソクを持っていた」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.232」新潮文庫)

なぜレーニは「下着姿」なのか。弁護士事務所である。法に深く関係する。前に廷吏の妻である洗濯女がKに教えてくれたように<法のあるところにはいつも欲望がある>のだ。Kはその場の状況を察し、実のところはまだ思案していたた弁護士解約についての迷いなど一度に吹っ飛んでしまい、解約にまとわりついていたいろいろな迷いをかなぐり捨てて決心へと変えた。次にレーニの姿が見えた時、彼女はもういつものエプロン姿に戻っていて台所で病気を患っている弁護士のためにスープを作っていた。レーニはいう。商人ブロックを「少し面倒見たのはね、彼が弁護士の大顧客(おおとくい)だからなのよ、それ以外に理由なんてないわ」。

「『わたしが彼のこと少し面倒見たのはね、彼が弁護士の大顧客(おおとくい)だからなのよ、それ以外に理由なんてないわ。で、あんたは?今日どうしても弁護士と話さなくちゃならないの?今日は非常に具合が悪いのよ、でも、どうしてもっていうんならともかく取りつぐわ。しかし今夜はずうっとわたしとしいてね、きっとよ。ずいぶん長いことここに来なかったじゃない、弁護士まであんたのこときいていたわ。訴訟をいいかげんにしちゃだめよ!わたしもあれからいろんなことを聞いたから、いろいろ話すことがあるの。でもそれよりまず外套を脱ぎなさいよ』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.237」新潮文庫)

弁護士の部屋へスープを持っていくので待っていてほしいとレーニは言ってその場をすっと立ち去った。そこでKは商人ブロックから訴訟に関する個人的な事情を聞かされる。Kは被告になる以前からずっと顧客を大切にする銀行員であるため聞き上手でもある。少なくとも聞き手の側が取るべき態度は十分心得ている。ブロックはKにこれまで続けてきた裁判について話す。また、ブロックが依頼している弁護士はフルト一人だけでないという。しかし重要な裁判であれば同時に複数の弁護士を雇っても別に構わないのではとKは尋ねる。ブロックはいう。

「『それがここでは』、と商人は言った。彼は告白し始めて以来重い吐息をついていたが、Kの言質(げんち)を得てからは前より信頼しているようだった、『許されないことなんですよ。いわゆる弁護士のなかにさらにほかにもぐりの弁護士を頼むのは、なかでも一番禁物とされているんです。ところがわたしがしたのはまさにそれで、彼のほかに五人ももぐりの弁護士を傭(やと)っているんですからね』。『五人も!』、とKは叫んだ。なによりも彼を驚かしたのはその数だった、『この弁護士のほかに五人もですか?』。商人はうなずいてみせた。『しかも目下さらに六人目と交渉中です』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.242」新潮文庫)

この箇所で重要なのは弁護士が「もぐり」であろうとなかろうと複数雇うのが良いか良くないかという問いではまるでない。依頼する弁護士の数はだんだん<増殖していく>傾向を持ち、この傾向は避けられないと言っていることである。<欲望>は<増殖する>。ブロックにはそれが自明の<掟>になっていてもはや疑われてさえいない。さらにブロックの打ち明け話を聞くと、訴訟に勝利するためにつぎ込んだ代償に驚かされる。商人であることは確かなのだが訴訟以前は建物の一階部分丸ごと所有していたけれども今や「裏側の小部屋一つ」しか残されていないさびれようだという。Kは自分で訴訟に打ち込み懸命に取り組んできたからこそ大変な代償を払うことになったのだろうと考えて訊ねてみる。ところがブロックのいうことは違っている。なるほど最初は自分で取り組んだわけだがとにかく一方的に疲労が蓄積していくばかりで肝心の有効性は一つも感じられない。むしろ「裁判所ではただ坐(すわ)って待ってるだけでもおそろしくくたぶれますからね」。また裁判所事務局の「あの重苦しい空気」についてKもすでに知っている通りだと。Kはブロックのことを知らない。だがブロックはKを知っている。というのも初めて裁判所事務局の「長い廊下」を訪れた時、ブロックはKが廷吏とともに廊下を歩く姿を目撃していたからである。

「『そのことではあまり話すことはありませんよ』、と商人は言った、『初めはわたしもなるほどやってみましたが、すぐやめてしまったんです。疲ればかりひどくてあまり効果がないんでね。自分で取組んで交渉するなんて、少なくともわたしには不可能だとわかりましたよ。裁判所ではただ坐(すわ)って待ってるだけでもおそろしくくたぶれますからね。もっともあなたは事務局のあの重苦しい空気はご存じなわけだが』。『どうしてぼくがあそこに行ったなんて知ってるんです?』、とKは訊ねた。『あなたが通っていったときちょうど待合室にいましたからね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.243」新潮文庫)

Kは関心を掻き立てられてもっといろいろと聞かせてほしいと思う。だがほんの僅か何か問うただけでそんなことはまるで「つまらない」と一蹴されてしまう。ブロックにすればKがあまりにも無知に見えたため逆に訴訟とは何たるかをこんこんと説明し出す。いつまで経っても抜けない疲労の蓄積に責め苛まれ、あれこれ「いろんなことに気がとられてるものだから、その埋合わせに迷信に耽(ふけ)りだす」被告が続出するという。とはいえ、「まったくばかげた迷信で、多くの場合事実によって完全にくつがえされてしまいます」。しかし「ああいう連中の中にいると、そんな考え方からなかなか抜(ぬ)けだせな」くなる。わからない話ではない。苦労続きで精神的にまいっている人々を狙ってカルト団体の人間が声をかけてくることはどこの社会でもしばしばある。日本でも一九八〇年代の大学キャンパスは幾つかのカルト教団の「草刈り場」と化していた。二〇〇〇年代初頭にはもう二世問題、三世問題が発生しており、その問題解消の取り組みは今なお続けられている。しかし例えば、一人の学生がカルト教団に入信したあとは次に他人を入信させることになるわけだが、彼らすべてをひとまとめにして一方的に加害者だと決めつけるわけにはいかない。加害者になる前には被害者だったのであり、マインド・コントロールが解けて脱会してからも被害者かつ加害者だったという過去を消すことはできない。彼らは脱会した後、かつてカルト信者の一人だったという<とりかえしのつかない過去を-もっている>という複合過去を生きていかなければならない。すでに二重化された苦悩を背負っている。そしてその重さに耐えきれず再びカルトに再入会するといった事例も稀ではない。さらに今やネットを通して勧誘する側に引き込まれているといった事例が続出してきた。当事者は誰もが「立派に社会貢献している」と本気で信じ込んでいる。良いか悪いかどちらかしかないという信じ難い二者択一の世界の中で生きている。しかしなぜそうも簡単に入信してしまうのか。人間存在の根底には宗教的信仰心をよりどころにしなくては不安でいっぱいになり、いてもたってもいられないという極めてリアルな事情が根を張っている。どのような形態を取るにせよ、ひとかけらも信仰的色合いのない思想・宗教なしに生きていくことはできないようにできている。

「『こういう訴訟手続のあいだは、それはもう常識では間に合わないようなことが次から次へ話題になるものなんですよ。みんなただもう疲れはて、いろんなことに気がとられてるものだから、その埋合わせに迷信に耽(ふけ)りだすんです。なんて他人事(ひとごと)みたいな言い方をしてますが、その点はわたしだってちっとも変らないんでして。そういう迷信の一例として、たとえばかなり多くの者が、被告の顔、とくにその唇(くちびる)の格好(かっこう)から訴訟の成行きを読みとろうとしています。で、この連中に言わせると、あなたの唇から推しはかるに、あなたは必ず近いうちに有罪判決されるだろうっていうんですね。繰返し言っときますが、これはまったくばかげた迷信で、多くの場合事実によって完全にくつがえされてしまいますよ、でもああいう連中の中にいると、そんな考え方からなかなか抜(ぬ)けだせないものなんですね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.244~245」新潮文庫)

ニーチェに言わせれば「ニヒリズム」でさえも一つの<道徳>か<道徳の解釈>である。信じる価値のあるものは何一つないという或る種の「絶望」にも似た「ニヒリズム」的な態度は熱烈には見えないけれどもそれはそれでまた一つの<道徳>か<道徳の解釈>にほかならないというわけだ。なるほどニヒリストはそれと意識することなく「世の中で信じるに値するものは何一つない」という<信仰>に取り憑かれている。ニーチェはいう。差し当たり二点。(1)は一般的なニヒリストについて。(2)は<道徳の解釈>が<道徳>とすり換えられてしまう場合。

(1)「《完全なニヒリスト》。ーーーニヒリストの眼は、《醜いものへと理想化し》、おのれの追憶に背信をおこなうーーー。すなわち、追憶が転落し凋落するにまかせ、遠いもの過ぎ去ったもののうえへと弱さのそそぐ屍色(かばねいろ)に追憶が色あせてゆくのをふせごうとはしない。そしてニヒリストは、おのれに対してなさぬこと、そのことを人間の全過去に対してもなすことはない、ーーー彼はそれを転落するにまかせる」(ニーチェ「権力への意志・上・二一・P.37」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「現今の道徳的判断は、頽落の、《生》への不信の徴候であり、ペシミズムを用意するものである。私の主要命題。すなわち、《道徳的現象なるものはなく、あるのはただこの現象の道徳的解釈にすぎない。この解釈自身は道徳とはかかわりあいのない起源のものである》」(ニーチェ「権力への意志・上・二五八・P.261」ちくま学芸文庫 一九九三年)

<法の解釈>の側が<法>として優位に立つケースについてはカフカも短編の中で述べている。<掟>というものの逆説性について。

「掟自体がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.70』岩波文庫 一九九八年)

続けてKはブロックに聞く。裁判所事務局の「長い廊下」で疲弊しきって何かの到来を待ち続けている人々は互いに情報交換し合ったり共通の利害関係で結びつき合ったりしているのかと。ブロックの返事はまたしてもKの論理とはすれ違いを起こす。

「『一般にかれらはおたがいどうし行き来はしません』、と商人は言った、『そんなことできっこありませんしね、なにしろ大変な数だから。それに共通の利害もないし。ときおりあるグループの中に共通する利害があるという信念が頭をもたげることがあっても、すぐ間違いだとわかってしまうんです。裁判所にたいしては協同ではなに一つできやしません。どんな事件でも独自に調査する、あれはまさに慎重この上ない裁判所なんです。だから協同でも何一つ仕遂げられないんですが、個々人がこっそりと何かをやりとげることはよくあるんです。ただし、やりとげたあとで初めて他人の耳に入るんですから、それがどうやって成功したのかだれにもわからない。そんなわけで協同ということはありえませんし、待合室のそこここに寄り集ることはあっても、そこで相談するわけじゃありません。迷信がかった考えはすでに古い昔からあって、まさにひとりでに増えてゆくわけです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.246」新潮文庫)

個々人が身を置いている社会的立場が異なる場合、このような論理的すれ違いはいつも発生してくる。だがこの場合、Kとブロックの間には埋めても埋めても埋めきれない深淵がぱっくり口を開けたまま横たわっている。世界に対する認識がまるで異なる。同一社会の内部でいつも生じている固定的な社会的立場の違いではなく、互いが生きている社会の中にまるで違う価値体系が幾つもあり、互いに違う価値体系に属する者同士が言葉を交わし合うような場合に忽然と可視化される違いである。その場合、両者は衝突するわけではなく、両者が共に協力し合ったとしてもなお、どこまで行っても話が噛み合わないという永遠回帰的すれ違いが生じる。衝突した場合のほうが両者とも互いの違いに気づき合えるケースは多い。けれどもKが陥っている罠は正面衝突できない形態を取っている。ヘーゲル「精神現象学」に描かれた自己意識の運動としての<主と僕>の関係では解決不可能な関係であり、つかみどころのない状況が延々と続いていくばかりだ。

そしてブロックの説明の中に何気なく混じり込んでいるのが「まさにひとりでに増えてゆく」というただならぬフレーズである。「ひとりでに」<増殖>する。諸機械の各部分(戦争機械、国家装置、技術機械など)が自動的に<増殖>を<欲望する>加速的傾向。資本主義独特の特徴の本格的到来を物語っていると言わねばならない。

なお、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について。差し当たり引用しておこう。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

だがしかしこれは大きな事件であって、貨幣がその排除過程を覆い隠すように他の無数の諸問題を覆い隠してしまう効果を持つ。「原発問題・日米地位協定・議員汚職問題・五輪誘致問題・差別問題・労働問題・移民問題、DV・消費税・格差拡大問題ーーーなど」。上げていけばきりがないほどだが、これら諸問題がきれいさっぱり覆い隠され消え失せてしまう危険もまた同等に存在する。またアメリカのバイデン大統領は「責任はロシアにのみある」という声明を出したが余りにも馬鹿げていて呆れるほかない。諸大国の首脳陣がああでもないこうでもないと既得権益をめぐって争っているうちに寄ってたかって「作り上げてしまった」必然的産物であって「責任はロシアを含むすべての諸大国にある」と訂正されるべきが妥当だろう。ゆえに注意深く、それこそ「測量師の方法で」観察していく必要性がある。

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