白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kを嗤うブロックの生活様式と二十一世紀的生活スタイルの類似性および<狂気>

2022年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
Kとブロックが話し合っている様子を見たレーニは挑発的な嘲りを込めた調子でいう。同性愛的態度を嫉妬深げに皮肉っているわけだが実際二人は「ちょっと向きをかえても頭がぶつかるくらいぴったりくっついて坐(すわ)っていた」。

「『まあ二人して仲良くくっついていること!』、と盆を持って戻ってきたレーニがドアのところに立止って叫んだ。事実ふたりは、ちょっと向きをかえても頭がぶつかるくらいぴったりくっついて坐(すわ)っていたのだ。商人のほうはもともと背が低い上にさらに背中を曲げていたので、Kのほうも、何も聞きもらすまいとすれば身を低くかがめないわけにはいかなかった」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.252」新潮文庫)

Kは画家ティトレリの部屋でもそうだったが男性同士二人きりで訴訟関連の話題に及ぶや、極めて同性愛的態度に引きずり込まれてしまう傾向が強いようだ。この時はブロックの話に耳を傾けているうちに興味深いエピソードが語られる。Kはそれに熱中するあまり接近し過ぎてしまっていた。レーニがいうにはフルト弁護士がKを呼んでいるから「いらっしゃい」ということらしい。またそれほどブロックの話が聞きたいのならいつでも聞けるという。なぜならブロックは毎日のようにここへやって来るしそもそもブロックは「しょっちゅうここに泊るのよ」という。

「『もうブロックは放してやりなさい、ブロックとならあとでだって話せるじゃないの、ずっとここにいるんだもの』。『ずっとここにいるんですって?』、と彼は商人にきいた。彼は商人自身の答がほしかった、彼はレーニが商人についてまるでこの場にいない者のような話し方をするのが気に入らなかった、彼は今日はレーニにたいする腹立ちで胸がにえくりかえっていた。だのに答えたのはまたしてもレーニであった。『彼はしょっちゅうここに泊るのよ』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.253~254」新潮文庫)

ブロックがKと二人だけの時にはおそらく口に出さなかっただろうし、ようやく口に出したとしてもずいぶん後になったに違いないブロックの秘密をレーニはあっけなく暴き立てる。そしてブロックの嘆きは「見せかけ」に過ぎないともいう。

「『この人が嘆くのは見せかけだけなのよ』、とレーニが言った、『ここで寝るのはとても好きだって、もう何度もわたしに白状したもの』。彼女は小さなドアのところにいってそれを押しあけ、Kにきいた。『彼の寝室を見てみる?』。Kはそっちへ行って、敷居からその天井の低い窓のない部屋を見た。幅の狭いベッド一つで部屋いっぱいだった。ベッドに入るにはベッドの枠柱(わくばしら)をのりこえていかねばならなかった。ベッドの枕許(まくらもと)の壁に凹(くぼ)みがあって、そこにロウソク、インク瓶、ペン、それにどうやら訴訟書類らしい一束の書類がきちんと並べて置かれていた。『あなたは女中部屋で寝るんですか?』、とKは聞いて商人のほうにふり返った。『レーニがあけてくれたんですよ』、と商人は答えた、『たいへん好都合です』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.256」新潮文庫)

ブロックは自分の訴訟の件で大変苦労している。だが延々と続く自分の悲惨な苦労話に他人が真剣に耳を傾けてくれる時、ブロックの悲惨な境遇はブロック自身にとって快楽を催す重要な素材へ変換されなおかつ一種の<権力意志>を実現させる道具へ変換されている。ニーチェはいう。

「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ブロックの長々しい説明とはまた別に、特に注目しておきたい先駆的描写がある。

「幅の狭いベッド一つで部屋いっぱい」であり「ベッドの枕許(まくらもと)の壁に凹(くぼ)みがあって、そこにロウソク、インク瓶、ペン、それにどうやら訴訟書類らしい一束の書類がきちんと並べて置かれてい」るばかり。なのだがブロックは「たいへん好都合です」と十分満足している。

極めて今日的な生活スタイルの予告になっている。実際、現代社会の日常生活で最低限必要なのはスマートフォン一つであり、ベッドの枕許にほとんどすべての必要書類を置いておくスペースさえあればそれで事足りる。むしろ昨今の若年層の多くはそうした傾向へ急傾斜している。

ところでKがフルト弁護士と解約したいのだがと切り出すやブロックが調子っぱずれの大騒ぎを始めた。

「『弁護士をくびにするって!』、と商人は叫んで椅子(いす)からとび上り、腕をあげたまま台所の中を走りまわった。走りながら何度も何度も叫んだ、『彼は弁護士をくびにするんだとさ!』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.257」新潮文庫)

ブロックの言動はまるで息を吹き返したかのように生き生きしていないだろうか。それも「調子が狂えば狂うほど」。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「いまだかつて、軋轢も機能障害も、社会機械の死を告知するものであったことは決してない。それどころか、逆に、社会機械は、みずからが巻き起こす矛盾、みずからが招く危機、みずからが《発生させる》不安、この社会機械自身を再生させる地獄の試練、こうしたものをもって身を養うことを常としているのである。資本主義はこのことを学び知って、自分自身の将来を疑うことをやめてしまったのだ。同時に、社会主義者たちでさえ、摩滅によって資本主義が自然死する可能性を信ずることをやめてしまっている。いまだかつて、なんぴとも矛盾が原因で死んだことはない。資本主義は、調子が狂えば狂うほど、それはますます分裂症化して、アメリカ風にいよいよ調子がよくなるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.185~186」河出書房新社 一九八六年)

なお、ウクライナ情勢について。情報過多のため、よくわからないというしかない。しかし人間誰しも多少なりとも夢に見た記憶のある光景には違いない。ニーチェはいう。

「われわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

また「ウクライナ情勢」とはよく言われるが、一方、「ロシア情勢」と言われることがほとんどないのはなぜだろう。ロシアの南下意志についてニーチェはロマノフ王朝時代からすでにこういっている。

「《最も危険な国外移住》。ーーーロシアには知識階級の国外移住というものがある。つまり彼らは、良書を読むため、また書くために国境を越える。けれども彼らはこうすることによってますます、精神によって見捨てられたその祖国を、小さなヨーロッパを呑みこまんとするアジアが前方にあんぐりと突き出す大きな口にかえてしまうよう働くことになるのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二三一・P.440」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ロシアによる今度の「ウクライナ急襲」は、次のような意味でなら、<国家の起源>を思わせないでもない。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)

しかしそれが可能だったのは帝国主義時代のエピソードである。「皇帝」が実在した専制君主時代のエピソードであり、当時は途方もない過酷な帝国が君臨できたわけだが、その条件についてカフカは次のように短編小説の中に溶かし込んで描いている。

「ひとつ伝説(たとえばなし)があって、この間の事情を実に見事にもの語っている。それによれば皇帝があなたにーーー一介の平民、名もない臣民、輝かしい太陽を逃れて世のはてに息を殺してひそんでいるあなたにーーー死の床から使者を送った。寝台のそばにひざまずかせて、その耳に用件をささやき、念のため自分の耳もとで復誦させてから皇帝は大きくうなずいた。まわりにはこれを見守っている無数の目があった。壁という壁はとり払われ、階段をもうめて高官たちが十重二十重(とえはたえ)に居並んでいた。その只中で皇帝は出立を命じた。使者は走り出た。強壮そのもの、疲れを知らぬ男だった。たくましく腕を打ち振り、群衆をかき分けていく。立ちふさがる者がいると太陽を描きとめた胸もとを指さした。使者はひたすら群衆を分けてすすんだ。だが人波は尽きない。家並みがとだえることはない。ともかくも野に出れば彼はとぶがごとくに走り、やがてあなたの戸口に剛毅な拳の音をひびかせるかもしれない。だが、それは先の話である。使者はいま苦闘をつづけている。宮殿の部屋を抜け出してさえもいないのだ。決してそこを抜け出せまいし、たとえ抜け出したとしてもどれほど前進したわけでもない。階段を降りるのに難儀しなくてはならず、たとえようよう階段を降りきったからといって何ほどのことがあろう。無数の内庭に分け入らねばならず、内庭を抜けても第二の宮殿が立ちはだかっており、ふたたび階段を上下して内庭に駆け出ても第三の宮殿がひかえている。悪戦苦闘のあげく決してありえないことながら、ようやく大門を出たとしよう。だが前には途方もない帝都が待ち受けている。世界の中心はまた、ありとあらゆるものどもがひしめいている坩堝(るつぼ)であり、死者の伝言をたずさえなどして、どうしてここをこえたりできるだろうーーー一方、あなたは窓辺にすわって、夕べともなると使者の到来を夢みている。つまりがこのように民衆は絶望と希望のいりまじったまなざしでもって皇帝を見つめている。今がどの皇帝の御世か知らず、名前すら怪しい。歴代の皇帝の名前は学校で習ったが、制度そのものがいたって曖昧であるからには優等生でもあやふやにならずにはいないのである。村ではいまだ、とっくの昔に死んだはずの皇帝が健在であり、歌に伝わっているだけの皇帝が、つい先だって詔勅を発して神官が祭壇の前で朗読したばかりである」(カフカ「万里の長城」『カフカ短編集・P.247~249』岩波文庫 一九八七年)

帝国は起源のわからない古い時代にあった無数の土着の共同体を統一することで誕生した、比較的最近の政治的軍事的建造物である。幾つもの小さな「塔」がまとめて<超コード化>された形態にあたる。ところがどんどん脱コード化を推し進める資本主義の<流れ>はそのような国家のあり方をもう二度と許さないようにしてしまった。

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