二人の監視人がKを呼んで言った。監督官がやって来たのでKは監督官に会わねばならない。しかし寝巻姿のまま監督官に会うというのはまるで考えられもしない愚行である。だから着替えたほうがいい。と監視人たちは執拗にそう言う。しぶしぶだがKは衣服を着替えて監督官の前に出る。監督官はいう。「われわれも規則どおりの制服を着たってかまわないでしょうが、着たところであなたの事件がどう変るってわけのものでもない。わたしはあなたが告発されている、とさえ絶対に言うことができない、それどころか、あなたが告発されているかどうかさえわたしは知らない。あなたが逮捕されている、それだけは確かだが、それ以上はわたしにはわからない。ひょっとしたら監視人たちがなにか違うことをしゃべったかもしれないが、だったらそれはまさにおしゃべりにすぎなかったんだ」と。
「監督官はマッチ箱を机の上に放(ほう)りだした。『あなたは非常な過ちを犯している』、と彼は言った、『ここにいる諸君とわたしは、あなたの一件にとっては完全にとるに足らぬ存在なんだ、じっさいわれわれは、この件についてほとんどなにも知らぬといっていいくらいのものだ。なんならわれわれも規則どおりの制服を着たってかまわないでしょうが、着たところであなたの事件がどう変るってわけのものでもない。わたしはあなたが告発されている、とさえ絶対に言うことができない、それどころか、あなたが告発されているかどうかさえわたしは知らない。あなたが逮捕されている、それだけは確かだが、それ以上はわたしにはわからない。ひょっとしたら監視人たちがなにか違うことをしゃべったかもしれないが、だったらそれはまさにおしゃべりにすぎなかったんだ。されしかし、あなたの質問にお答えするわけにはいかないとしても、わたしには忠告することはできる。で、忠告しますが、どうかわれわれのことだのあなたの身の上に起ることだろうことに、そう頭を悩ませないでほしい、それよりもっと自分自身のことを考えなさい。そして自分は無実だという感情でこんなさわぎをひき起さないでほしい、そんなことをしても、ほかの点ではそう悪くもない印象を与えているあなたのためになりませんよ。それから一般にしゃべるさいにはもっと控え目にすることですね、あなたがさっき言われたことは、ほとんど全部、かりにほんの二言三言しか言わなかったとしても、あなたの態度から推測できたことばかりだし、そのうえあれはあなたにとって決してひどく好都合なことではなかったんです』。Kは監督官の顔をみつめた。自分より若そうな男からここできまりきったお説教をくらったというわけか?あけっぴろげな物言いにたいしては戒告で罰せられたというわけか?しかも逮捕の理由や令状の出所については何ひとつききだせずに?」(カフカ「審判・逮捕・P.26~27」新潮文庫 一九九二年)
監督官の応答は二人の監視人が言っていたことの繰り返しに等しい。一刻も早く無実を証明したいKにすれば逆にゴールが遠のいた感さえある。あまりの肩透かしにKは苛立ちを感じる。そしてまさしく今この時に不当逮捕が行われていると告げ知らせるため、知り合いの検事にこの状況を連絡したいと申し出る。「構わない」と監督官は答える。しかし監督官はこうも言う。「しかしそれにどんな意味があるのか、わたしにはわかりかねますがね。なにか個人的な事柄で彼と話さなければならぬということですか?」。監督官の答えはまるで人を食っている。しかもその馬鹿馬鹿しさに監督官自身が全然気づいていないらしい。これでは幾ら問答しても無駄だと感じたKは途方もない無力感に襲われたかのように検事への電話連絡をやめてしまう。この状況ではまともな意思疎通ができないと考えたようだ。一方、逮捕された時にKの部屋の窓の周囲に集まっていた町の人々はまるで見物人と化しているのだが、彼らを追い払おうとしてもまた集まってきてKを悩ませる。あたかもマスコミのようだ。殺されるかもしれないKの逮捕は決して「見せ物」では《ない》というのに。
「『検事のハスラーはぼくの友人です』、と彼は言った、『彼に電話してもいいでしょうかね?』。『むろん』、と監督官は言った、『しかしそれにどんな意味があるのか、わたしにはわかりかねますがね。なにか個人的な事柄で彼と話さなければならぬということですか?』。『どんな意味が、だって?』、とKは、腹が立つ以上に狼狽(ろうばい)して言った、『一体あなたはだれなんです?あなたは意味を欲しながら、およそありうるかぎり最も無意味なことを演じてるってわけですか?それじゃあまりにもあわれな話じゃないかな。この人たちがまずぼくに襲いかかってきた、そしていまはここで坐(すわ)ったり立ったりうろうろしながら、あなたの前でぼくに高等馬術をやらせてるってわけですか?ぼくが逮捕されたと言ってるくせに、検事に電話しようとすれば、それになんの意味があるかってんですか?よろしい、ぼくは電話はしますまい』。『いや、どうぞ』、と監督官は言って、電話のある控室のほうに手をのばした、『どうぞ電話をしてください』。『いや、もうその気はなくなりましたよ』、とKは言って、窓ぎわに歩いていった。向うではまだお仲間たちが窓ぎわにいて、いまKが窓に歩みよったことで、はじめていささか落着いた観照を邪魔されたというふうであった。老人たちはからだを起そうとしたが、かれらのうしろの男がそれをなだめた。『あそこにだってあんなに見物人どもがいるんだ』、とKは監督官にむかって大声で叫び、人差指でそとを指さした。それからむこう側にむけて、『そこをどけ!』と叫んだ。三人のほうもすぐ二、三歩ひきさがって、そのうえ二人の老人はさらに男のうしろに姿をかくした。男はその二人を幅のひろいからだでかばいながら、彼の口の動きから察するところ、速いために聞えないながら何事かを言っているらしかった。かれらはしかし完全に消えさったわけではなくて、どうやら気づかれずにまた窓に近づくチャンスを狙(ねら)っているようであった。『図々(ずうずう)しい、遠慮知らずなやつらめ!』、と部屋のなかに向きかえってKは言った。監督官は、Kは横目でそれを見たと思ったが、彼の言葉に同意しているようでもあった。しかしそれとまったく同じように、彼はぜんぜん聞いてなぞいなかったのかもしれなかった、というのは、彼は手を机にぴったり押しつけて、それぞれに指の長さを見較(みくら)べているふうにも見えたからだ。二人の監視人は飾り布で覆(おお)われたトランクに腰かけて、膝小僧(ひざこぞう)をこすっていた。三人の若い男たちは手を腰にあてて、あてもなくあたりを見回していた。どこかの忘れられた事務室のなかのように静かだった」(カフカ「審判・逮捕・P.28~29」新潮文庫 一九九二年)
この箇所ではカフカ小説に特有の場所が早くも見られる。「どこかの忘れられた事務室のなかのように静かだった」。一方にごった返した忙しさを呈するどんちゃん騒ぎに等しい部屋があり、もう一方にしんと静まり返り何のために用意してあるのかさっぱりわからない部屋がある。そこで静まり返った部屋には誰一人いないのかと思って中を覗き込んでみると部屋の奥から人間が出てきたり、そうでなければ部屋とも思われない廊下の隅のような物置小屋で拷問が行われていたりする。しかしそれのどこがおかしいのだろう。拷問を役所の正門前で行うような行政組織はどこにもない。役所は部署によりけりでたまらなく忙しい時間帯があるのは当り前。「城」で顕著だったように行政手続が<伸び縮み>するという描写などは極めて今日的かつリアルな実状を先取りして余すところがない。しかしカフカにそれができたのはなぜか。<諸断片>の無制限なモザイクという新しい<文体>の発明を見逃すわけにはいかない。ニーチェはいう。
「私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.44』ちくま学芸文庫 一九九四年)
だが長編「アメリカ」はどうだろう。しかしこれまた絶望的過程が無制限に連続していくばかり。重要なことはすべて下層階級に属する乗組員の部屋や調理場、野外劇場の採用事務所という<ミクロな次元>で起っている。大舞台に思える「アメリカ」というタイトルにもかかわらず、すでに「アメリカ」は全土が舞台裏と化している。舞台裏でしかないにもかかわらず、多くの読者の目は、なぜか舞台上だと思い込もうとしているふしのある「アメリカ」。実際のところカフカ「アメリカ」には壮大な展開が一つも見られない。カフカは読者を欺いたのか。まったくそうではない。カフカはその種の遠近法的錯覚に陥らなかったというに過ぎない。
「掟自体がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.70』岩波文庫 一九九八年)
<掟への欲望>から<欲望する掟>への転化。カフカが見逃さなかったのはこのような断層と連続性とである。<欲望する掟>=<欲望する諸機械を構成する部分としての法>を利用して政治家が笑う。その結果、過労死したり自殺へ追い込まれたりする人々が後を絶たないのは昨今の日本ではもはや見慣れた光景と化した。法はいかなる隠喩でもない。その装置を動かす様々な人物を始め、実在し実行する技術機械である。そして犯行現場は政治家という名の後ろ暗い「廊下・物置小屋・舞台裏」だというのに。
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「監督官はマッチ箱を机の上に放(ほう)りだした。『あなたは非常な過ちを犯している』、と彼は言った、『ここにいる諸君とわたしは、あなたの一件にとっては完全にとるに足らぬ存在なんだ、じっさいわれわれは、この件についてほとんどなにも知らぬといっていいくらいのものだ。なんならわれわれも規則どおりの制服を着たってかまわないでしょうが、着たところであなたの事件がどう変るってわけのものでもない。わたしはあなたが告発されている、とさえ絶対に言うことができない、それどころか、あなたが告発されているかどうかさえわたしは知らない。あなたが逮捕されている、それだけは確かだが、それ以上はわたしにはわからない。ひょっとしたら監視人たちがなにか違うことをしゃべったかもしれないが、だったらそれはまさにおしゃべりにすぎなかったんだ。されしかし、あなたの質問にお答えするわけにはいかないとしても、わたしには忠告することはできる。で、忠告しますが、どうかわれわれのことだのあなたの身の上に起ることだろうことに、そう頭を悩ませないでほしい、それよりもっと自分自身のことを考えなさい。そして自分は無実だという感情でこんなさわぎをひき起さないでほしい、そんなことをしても、ほかの点ではそう悪くもない印象を与えているあなたのためになりませんよ。それから一般にしゃべるさいにはもっと控え目にすることですね、あなたがさっき言われたことは、ほとんど全部、かりにほんの二言三言しか言わなかったとしても、あなたの態度から推測できたことばかりだし、そのうえあれはあなたにとって決してひどく好都合なことではなかったんです』。Kは監督官の顔をみつめた。自分より若そうな男からここできまりきったお説教をくらったというわけか?あけっぴろげな物言いにたいしては戒告で罰せられたというわけか?しかも逮捕の理由や令状の出所については何ひとつききだせずに?」(カフカ「審判・逮捕・P.26~27」新潮文庫 一九九二年)
監督官の応答は二人の監視人が言っていたことの繰り返しに等しい。一刻も早く無実を証明したいKにすれば逆にゴールが遠のいた感さえある。あまりの肩透かしにKは苛立ちを感じる。そしてまさしく今この時に不当逮捕が行われていると告げ知らせるため、知り合いの検事にこの状況を連絡したいと申し出る。「構わない」と監督官は答える。しかし監督官はこうも言う。「しかしそれにどんな意味があるのか、わたしにはわかりかねますがね。なにか個人的な事柄で彼と話さなければならぬということですか?」。監督官の答えはまるで人を食っている。しかもその馬鹿馬鹿しさに監督官自身が全然気づいていないらしい。これでは幾ら問答しても無駄だと感じたKは途方もない無力感に襲われたかのように検事への電話連絡をやめてしまう。この状況ではまともな意思疎通ができないと考えたようだ。一方、逮捕された時にKの部屋の窓の周囲に集まっていた町の人々はまるで見物人と化しているのだが、彼らを追い払おうとしてもまた集まってきてKを悩ませる。あたかもマスコミのようだ。殺されるかもしれないKの逮捕は決して「見せ物」では《ない》というのに。
「『検事のハスラーはぼくの友人です』、と彼は言った、『彼に電話してもいいでしょうかね?』。『むろん』、と監督官は言った、『しかしそれにどんな意味があるのか、わたしにはわかりかねますがね。なにか個人的な事柄で彼と話さなければならぬということですか?』。『どんな意味が、だって?』、とKは、腹が立つ以上に狼狽(ろうばい)して言った、『一体あなたはだれなんです?あなたは意味を欲しながら、およそありうるかぎり最も無意味なことを演じてるってわけですか?それじゃあまりにもあわれな話じゃないかな。この人たちがまずぼくに襲いかかってきた、そしていまはここで坐(すわ)ったり立ったりうろうろしながら、あなたの前でぼくに高等馬術をやらせてるってわけですか?ぼくが逮捕されたと言ってるくせに、検事に電話しようとすれば、それになんの意味があるかってんですか?よろしい、ぼくは電話はしますまい』。『いや、どうぞ』、と監督官は言って、電話のある控室のほうに手をのばした、『どうぞ電話をしてください』。『いや、もうその気はなくなりましたよ』、とKは言って、窓ぎわに歩いていった。向うではまだお仲間たちが窓ぎわにいて、いまKが窓に歩みよったことで、はじめていささか落着いた観照を邪魔されたというふうであった。老人たちはからだを起そうとしたが、かれらのうしろの男がそれをなだめた。『あそこにだってあんなに見物人どもがいるんだ』、とKは監督官にむかって大声で叫び、人差指でそとを指さした。それからむこう側にむけて、『そこをどけ!』と叫んだ。三人のほうもすぐ二、三歩ひきさがって、そのうえ二人の老人はさらに男のうしろに姿をかくした。男はその二人を幅のひろいからだでかばいながら、彼の口の動きから察するところ、速いために聞えないながら何事かを言っているらしかった。かれらはしかし完全に消えさったわけではなくて、どうやら気づかれずにまた窓に近づくチャンスを狙(ねら)っているようであった。『図々(ずうずう)しい、遠慮知らずなやつらめ!』、と部屋のなかに向きかえってKは言った。監督官は、Kは横目でそれを見たと思ったが、彼の言葉に同意しているようでもあった。しかしそれとまったく同じように、彼はぜんぜん聞いてなぞいなかったのかもしれなかった、というのは、彼は手を机にぴったり押しつけて、それぞれに指の長さを見較(みくら)べているふうにも見えたからだ。二人の監視人は飾り布で覆(おお)われたトランクに腰かけて、膝小僧(ひざこぞう)をこすっていた。三人の若い男たちは手を腰にあてて、あてもなくあたりを見回していた。どこかの忘れられた事務室のなかのように静かだった」(カフカ「審判・逮捕・P.28~29」新潮文庫 一九九二年)
この箇所ではカフカ小説に特有の場所が早くも見られる。「どこかの忘れられた事務室のなかのように静かだった」。一方にごった返した忙しさを呈するどんちゃん騒ぎに等しい部屋があり、もう一方にしんと静まり返り何のために用意してあるのかさっぱりわからない部屋がある。そこで静まり返った部屋には誰一人いないのかと思って中を覗き込んでみると部屋の奥から人間が出てきたり、そうでなければ部屋とも思われない廊下の隅のような物置小屋で拷問が行われていたりする。しかしそれのどこがおかしいのだろう。拷問を役所の正門前で行うような行政組織はどこにもない。役所は部署によりけりでたまらなく忙しい時間帯があるのは当り前。「城」で顕著だったように行政手続が<伸び縮み>するという描写などは極めて今日的かつリアルな実状を先取りして余すところがない。しかしカフカにそれができたのはなぜか。<諸断片>の無制限なモザイクという新しい<文体>の発明を見逃すわけにはいかない。ニーチェはいう。
「私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.44』ちくま学芸文庫 一九九四年)
だが長編「アメリカ」はどうだろう。しかしこれまた絶望的過程が無制限に連続していくばかり。重要なことはすべて下層階級に属する乗組員の部屋や調理場、野外劇場の採用事務所という<ミクロな次元>で起っている。大舞台に思える「アメリカ」というタイトルにもかかわらず、すでに「アメリカ」は全土が舞台裏と化している。舞台裏でしかないにもかかわらず、多くの読者の目は、なぜか舞台上だと思い込もうとしているふしのある「アメリカ」。実際のところカフカ「アメリカ」には壮大な展開が一つも見られない。カフカは読者を欺いたのか。まったくそうではない。カフカはその種の遠近法的錯覚に陥らなかったというに過ぎない。
「掟自体がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.70』岩波文庫 一九九八年)
<掟への欲望>から<欲望する掟>への転化。カフカが見逃さなかったのはこのような断層と連続性とである。<欲望する掟>=<欲望する諸機械を構成する部分としての法>を利用して政治家が笑う。その結果、過労死したり自殺へ追い込まれたりする人々が後を絶たないのは昨今の日本ではもはや見慣れた光景と化した。法はいかなる隠喩でもない。その装置を動かす様々な人物を始め、実在し実行する技術機械である。そして犯行現場は政治家という名の後ろ暗い「廊下・物置小屋・舞台裏」だというのに。
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