白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスの言説を追って1

2022年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスの言説は主に三箇所に分けて述べられている。一箇所ごとがとても長い。けれども言説には一貫性があり、ゆえに訴えていることは徐々に明らかになってくる。気になる点を少しずつ追っていこう。

「『労力を費やすに値する人のために骨を折ることほど楽しいことはないんだ。もっとも優れた人にとっては、芸術の研究も、骨董の趣味も、さまざまな蒐集も、庭いじりも、所詮は代用品、代替の品、アリバイにすぎぬ。結局われわれは、自分の暮らす樽の底で、ディオゲネスよろしく人間を求めているのだ。われわれがベゴニアを育てたりイチイを剪定したりするのも次善の楽しみというべきで、イチイやベゴニアがされるがままになるからそうしているにすぎない。だがわれわれは、その労に見合うなら、むしろ人間という灌木に時間を割きたいと思う。問題のすべてはそこにある。あなたも少しは自分を知るべきでしょう。あなたはその労に値するのか、しないのか?』」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.252」岩波文庫 二〇一三年)

シャルリュスの堂々とした態度(身振り)から発せられる言説は<私>を常に面食らわせるとともに読者をも面食らわせる。効果は抜群。しかしシャルリュスの言葉は始めから奇妙な歪みを前提に進められる。作庭において「イチイやベゴニアがされるがままになる」ことと「その労に見合うなら、むしろ人間という灌木に時間を割きたい」という人間改造とを同等の課題上に置くという傲慢さを漂わせている。

ただここではまだ、排他主義的人間改造というイデオロギー面はあからさまに出てきてはいない。それよりシャルリュスは男性同性愛者の一人として慎重かつさりげなく振る舞う。<私>はそれほど暴力的に取り扱われるわけではない。むしろ大切にされる。だが<私>を大切にするに際し、周囲には暴力的な威嚇行為を見せつける。シャルリュスにとって守るべきもののためには周囲の人々がどんな暴力的振る舞いを受けても仕方がないというより、そうされて当然だという不遜ぶりが際立つ。

「シャルリュス氏は、そんなふうに私と腕を組んで歩き、侮辱が混じりはするものの大そう愛情のこもるそんなことばを私にかけながら、かつてバルベックに着いた日の翌朝カジノの前で氏を見かけたときに、さらにその何年も前タンソンヴィルの庭園のバラ色のサンザシのそばで当時は氏の愛人だと想いこんだスワン婦人の横にいる氏を見かけたときに気づいたのと同様の、あの強力に貼りついて動かず厳しく射抜くようなまなざしで、あるときはじっと私を見つめたかと思うと、またあるときはそのまなざしを周囲にめぐらせて、折から交替の時刻でかなり頻繁に通りかかる辻馬車を探るように執拗に見つめるので、御者はてっきり氏が乗るものと想いこんで、何台も停車した。ところがシャルリュス氏はただちにそれをすべて追い払った」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.253~254」岩波文庫 二〇一三年)

シャルリュスは作品の中を舞台に言説を拡大させていく装置として動くのだが、ただそれだけでなく言語そのものとしても活動する。その場の礼節などまるで無視した毒舌を立て続けに述べる。「モリエール流の下品な隠語」を幾つも連発したりする。そこで<私>はシャルリュスの身体を一つのものとして見ながらも「同一の心のなかに共存する善意と悪意との関係は、その関係がいかに多様であろうとも、それを明確にできれば興味ぶかいだろうと考え」る。

「こんな身の毛もよだつ、まるで気が狂ったかと思えることばを吐きながら、シャルリュス氏は組んだ私の腕を痛くなるほど締めつけた。シャルリュス氏は今しがた老女中の使うモリエール流の下品な隠語を引き合いに出したが、私は、その女中の数々の親切な行いを男爵があれこれ褒めたたえていたのをシャルリュス氏の家族から聞いたことを想い出し、これまでほとんど検討されていないと思われる、同一の心のなかに共存する善意と悪意との関係は、その関係がいかに多様であろうとも、それを明確にできれば興味ぶかいだろうと考えていた」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.260」岩波文庫 二〇一三年)

一人の人間には一つの人格しかないと考えることは不謹慎だろうか。そうではなく<私>はむしろ無数の人間が同居している様を想像する。ニーチェによれば一個の自己愛の中にも「混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」という指摘。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ところがなぜ、一人の人間には一つの実体しかないという、余りにも人間的な、余りにも乏しい思想が世界中を覆うようになったのか。今でいうLGBTという類別はそれこそ紀元前から存在しておりなおかつ古代ローマのヘリオガバルスのように皇帝にもなっている。にもかかわらずなぜなのか。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

プルーストはシャルリュスを通して何を描き出そうとしているのだろう。まずシャルリュスの言説と行動から漏れ出てくる二重性が炙り出されることになる。

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