白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「制度としての顔」/「暴力としての愛」序論3

2022年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは「写真という最新の技術」を利用してアルベルチーヌを固定しようとする<私>の思いに注釈を与えている。

「写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法である」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.61」岩波文庫 二〇一四年)

しかし写真による固定化の効果は一つでない。プルーストでは<私>によるアルベルチーヌの<幽閉・監視・監禁>へと進んでいく。一方、写真が瞬間の「顔」を切り取ることで世界を揺るがした歴史的大事件もあった。ベトナム戦争がそうだ。戦地のあちこちに広がる悲惨な現実を様々な「裸顔」として世界中に送り届ける極めて重要な役割を果たした。あの戦争を終結に追い込んだ条件のうち、最も有力な手段として機能したのは「写真」だったとも言えるだろう。そして無数ともいえる惨劇を目にした「顔」の読者たちはベトナム戦争に何を見ただろうか?少なくとも日本人は?様々な工夫をこらした数々の殺戮機械が在日米軍基地を出発していく光景を見なかった人々がいただろうか?

さらに現地ベトナムで撮られた写真。子どもたちの表情は多彩だがどれも一様に未来におののく不安の影に侵食されている。女性たちはどうにかしようと必死の形相ばかり。また火炎放射器で焼き払われ黒焦げになった集落や村民たちの死骸の山。しかしそれら「顔」が流通させたのは戦争の悲惨さばかりではなく、むしろ「顔による問いかけ」だった。レヴィナスは「顔」を<他者>と捉えてこう述べる。十箇所引こう。(1)〜(5)は「他者の<顔>と責任性」について。(6)〜(10)は「<エロス>における官能と非人称性」について。

(1)「レトリックがともなう洗脳を、煽動を、教育を放棄することは、他者の正面から、真の語りをかいして近づこうとすることである。他者の存在はその場合、いかなる度合いでも対象ではなく、その存在はいっさいの支配の外部にある」(レヴィナス「全体性と無限・上・第1部・P.127」岩波文庫 二〇〇五年)

(2)「絶対的に異邦的なものだけが、私たちを教えることができる。そして、私にとって絶対的に異邦的でありうるのは人間にほかならない。人間だけがいっさいの類型学に、すべての類に抵抗し、性格学のすべてと分類のいっさいに抵抗するからである。だから人間が『認識』の目標となった場合でも、その認識は最終的には対象のかなたまで突きぬけてゆくことになってしまう。そのことこそが他者の異邦性であり、他者の自由にほかならない。自由な存在だけが、たがいに対して異邦人であることができる。かれらに『共通』な自由こそが、まさにかれらを分離する」(レヴィナス「全体性と無限・上・第1部・P.134」岩波文庫 二〇〇五年)

(3)「<他者>はただたんにその顔のうちに《あらわれるのではない》。<他者>のあらわれは、行動と自由の支配のもとに従属した現象とはことなる。じぶんがとりむすぶ関係そのものから無限に遠ざかりながら、<他者>は絶対的なものとしてこの関係のうちでひといきに現前する。《私》は関係から、とはいえ絶対的に分離された存在との関係のただなかで、その関係から身を引き剥がす。他者が私にふり向くときのその顔は、顔の表象のうちに吸収されてしまうことがない。正義を叫ぶ他者の悲惨さを聴きとることは、あるイメージを表象することではなく、責任あるものとして自己を定立することであり、顔のうちに現前する存在よりも過剰であると同時に過少なものとしてみずからを定立することである。過少なものであるのは、顔が私にじぶん自身の義務を思いおこさせ、私を裁くからである。顔のうちで現前する存在は高さの次元から、超越の次元から到来する。当の存在はそこで異邦人として現前しうるけれども、障害物や敵対者のように、私に対立することがない。他方、過剰なものとして自己を定立するのは、《私》としての私の定立が他者の本質的な悲惨に応答しうることであり、じぶんでそのための資源を見出すことであるからだ。その超越において私を支配する<他者>は、同時に異邦人、寡婦、孤児であり、かれらに対して私は義務を負っているのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第3部・P.78~79」岩波文庫 二〇〇六年)

(4)「他者は現前すると同時にまた到来するものであり、無限なものの次元とは他者の顔が開く次元なのである。戦争が生起しうるのは、じぶんの死を繰り延べる一箇の存在が暴力に供される場合だけである。つまり戦争はただ、語りが可能であった場においてのみ、生起することが可能なのだ。語りによって、戦争が支えられていることになる。さらにいえば、暴力が目ざすのはたんに、ものを処理するように他者を処理することだけではない。暴力は殺人とすでに接しているものとして、際限のない否定から生じる。暴力が狙いをさだめることができるのはある現前だけであって、その現前は私の権能に挿入されていながら、それ自体としては無限なものである。つまり、暴力が目ざしうるのは顔だけなのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第3部・P.101~102」岩波文庫 二〇〇六年)

(5)「私の恣意的な自由は、私を見つめる眼に読みとられるものにおいて、じぶんを恥じる。私の自由は弁明を必要とする。言い換えるなら私の自由はすでに、他者による裁きにみずから関係してしまっているのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.161」岩波文庫 二〇〇六年)

(6)「冒瀆的な官能は見ることがない。覆いをとって発見することは、それが《見ることを欠いた志向性》であるがゆえに、光をはなつこともない。覆いをとって発見されるものは《意味作用》として呈示されることがなく、どのような地平もそれによって照明されることがない。女性的なものが呈示する顔は、顔のかなたへとおもむく顔である。愛される女性の顔は、《エロス》によって冒瀆される秘密を《表出するのではない》。その顔は表出することをやめてしまう。あるいはこう言ったほうがよければ、愛される女性の顔が表出するものは、表出することの拒否にほかならない。表出されるものはつまり、語りと慎ましさのおわりであり、現存の秩序がとつぜん中断することにほかならないのである。女性の顔においては、官能的なもののあいまいさによって、表出の純粋さがすでにくもらされている。表出が慎しみのなさに転じ、この慎しみのなさは無よりもわずかなものを語るあいまいさにすでに近づいている。それはあらかじめ笑いとからかいになってしまっているのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.177~178」岩波文庫 二〇〇六年)

(7)「意味作用という原初的なできごとは顔として生起する。顔がなにものかとの《関係で》、ある意味作用を受けとるわけではない。顔はそれ自体で意味し、その意味作用は意味付与に先行している。意味あるふるまいはあらかじめ顔の光のうちに浮かび上がるのであり、顔は光がそのうちで見られる光を拡散するのである。顔について説明する必要はない。顔から、いっさいの説明は開始されるからである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.179~180」岩波文庫 二〇〇六年)

(8)「不敬すらも顔を前提している。始原的なものとさまざまな事物は、敬意と不敬との埒外にある。挑発的なものの無-意味なありかたを裸形が獲得しうるためには、顔がすでに知覚されている必要がある。女性の顔のうちで、この光と影とがふたたびむすびあわされている。女性的なものとは、くもりが光をとり囲み、すでにそれを侵食しているような顔である。エロスという、一見すると非社会的なものである関係すら、否定的なかたちであっても社会的なものとかかわっている。女性的なありかたをとった顔のこの反転ーーー顔にかかわるこの歪みーーーによって、顔の意味あるありかたのただなかで無-意味が生じる。顔のうちに無-意味がこのように現前すること、あるいは無-意味が有-意味的なありかたに関係づけられることーーーそこでは顔の清らかさと慎ましさが、みだらなものとの境界上に位置しており、みだらなものはなお斥けられながらもすでにまぢかにあって、すぐそこまで接近しているーーーが、女性の美という原本的なできごと、美が女性的なもののうちでまとうことになる際だった意味という、原本的できごとなのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.183~184」岩波文庫 二〇〇六年)

(9)「挑発的なものの無-意味なありかたはしたがって、質料の愚かしく無差別的なありかたとひとしくはない。表出を喪失したものの表出をうらがえしたものとして、その無-意味はそれ自体、顔へと送りかえされる。同一的なものとして顔において現前する存在は、冒瀆された秘密とかかわることで意味作用を失い、あいまいなものとなる。このあいまいさこそが女性的なものの顕現なのである。女性的なものは、対話者、協力者であると同時に、最高度に知的な主人でもある。女性的なものは、それが参入した男性的文明のなかでむしろ、かくもしばしば男性を支配している。女性的なものはまた、文明化した社会の、不変の諸法規のもとで女性としてとりあつかわれなければならない。顔は完全に正しく率直なものでありながら、その女性的な顕現においては暗示を、言外の意味を隠している。顔はじぶん自身の表出のかげで、ひそかに含み笑いする。いかなる明確な意味へといたることもなく、虚しく暗示し、無以下のものを告げながら、含み笑いするのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.186」岩波文庫 二〇〇六年)

(10)「官能のうちで<他者>は私であると同時に、私から分離されている。感覚することの共同性のただなかで<他者>が分離されていることで、官能の先鋭さがかたちづくられるのである。官能において官能的なものは、飼いならされ対象化され物化された<他者>の自由ではない。飼いならされていない自由が官能的なのであって、私はその自由が対象化されることをまったく欲望しない。けれども自由は、顔の明るみのうちにあることで、官能的であり渇望されるのではない。暗がりのなかで、いわば秘められたものの悪徳のなかで、あるいは覆いをとられてもなお秘められたものでありつづけるような未来、まさにそのゆえにかならず冒瀆であるような未来のうちで、自由は渇望される。所有ほど《エロス》とかけはなれたものはない。<他者>を所有することにあって、私は他者によって所有もされ、そのかぎりで同時に奴隷であり主人である。そのような所有においては、官能は消え去ってしまうはずである。とはいえ他方、官能の非人称的なありかたからして、恋人たちのあいだの関係を相補性とみなすことは禁じられている。官能が目ざすものはしたがって他者ではなく、他者の官能である。官能とは官能の官能であり、他者の愛を愛することなのである。この間の消息からして、愛は友情の特殊な場合をあらわすものではない。愛と友情とは、たんにことなったしかたで感得されるだけではない。両者の相関項がことなっている。友情が他者に向かう一方で、愛によって探しもとめられるものは存在者の構造をもたないものであり、無限に未来であるもの、産み出されるべきものだからである。私が他者を充分に愛するのはただ、他者も私を愛する場合だけである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.189~191」岩波文庫 二〇〇六年)

レヴィナスのいう「顔(裸顔)」はこのように見る側に無限の「責任性」を突きつけてくるものとして出現する。一度覗き込んだ以上、すでに発生している<倫理的責任>を担うことができるのは、ほかならぬ<私>以外の誰でもないからである。

ベトナム戦争はただ単純に東西冷戦という文脈の中でだけ語り尽くせるものではない。それは西側にせよ東側にせよ、あの無数の「顔」を見た人々が一様に背負うことになった<倫理的責任>の重さに耐えられないと感じた世界が、もう止めにしようと決定づけるところまで「顔としての写真」が有効だった時代を特徴づけている。制度から解放された種々の写真は「不安とおののき」へ誘うと同時に「蹂躙」へも誘惑する。この二重性は、言い換えれば「ダブルバインド」であり、「パルマコン(医薬/毒薬)」特有の両義性として、世界を巻き込むのだ。

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