しゃべりつづけるシャルリュス。<私>を突き放したかと思えばたちまち<私>に居残るよう慎重な身振りを見せつける二重性。シャルリュスは狂気に陥っているのか?陥っている。バルベックで出会った時もそうだった。シャルリュスの言語の特徴だが、罵倒中傷とともに発せられるために一見するとそうとは思われない形で、要するに言葉の暴力という形式を取って、シャルリュスの狂気は出現している。<私>を誘惑しようと声をかけたシャルリュス。その独占欲は<私>と祖母とを引き離そうとする言葉に見られる。シャルリュスの独占欲は次のように<私>を孤立化させることから始まる。過剰な挑発が露呈する。
「『だけど老いぼれのお祖母さんなんか、どうだっていいじゃないか。どうなんだい?悪い子のくせに!』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.279」岩波文庫 二〇一二年)
大勢の人々の前で堂々と振る舞う一方、暴力的で挑発的な身振りを繰り返してやまないシャルリュス。それらすべてが絡み合って以前触れた次の文章へ流れ込んだと見ることができる。
「とはいえ氏が自分のありとあらゆる憎悪をどんな美辞麗句で飾ろうとも、氏のことばの裏にはときに傷つけられた誇りがあり、ときに裏切られた恋があり、恨みやサディスムやからかいや、固定観念なども存在していて、この男は人を殺(あや)めかねず、しかも論理と美辞麗句を駆使してそんな殺人行為を正当化しかねず、それでも自分は兄や義姉より格段に優れた人間であると言いくるめかねない人間だと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.465」岩波文庫 二〇一四年)
けれども注意しなくてはいけないのは、シャルリュスが男性同性愛者だから二重性を生きている、というわけではない点。同性愛者としての兆候ならもっと前からしばしば触れられているので何も驚くことはない。むしろ「憎悪、傷つけられた誇り、裏切られた恋、恨み、サディスム、からかい、固定観念」など無数の<断片>に分解できるシャルリュスがいるのだ。この多数性がシャルリュスの分裂的傾向の暴力的かつ挑発的言動を容易にしている。
そうかと思えば<私>の帰宅を見送る際、再び「私たちの和解のしるし」としてターナーの絵画を指し示す。さらにベートーヴェンの交響曲第六番第五楽章「嵐のあとの歓喜」を持ち出して「和音」を強調する。にもかかわらずこういう。「だが、あなたには無用の長物でしょう、魚がリンゴに見向きもしないようなものだ。ただ家に帰りたい一念で、ベートーヴェンや私なぞ袖にしても構わんのだから」。
「『ここにあるターナーの虹は、二点のレンブラントに挟まれて、私たちの和解のしるしに輝きはじめている。聞こえますかな、ベートーヴェンがこの虹と共演しているのが』。実際、『田園交響曲』第三楽章『嵐のあとの歓喜』の最初の和音が聞こえてきた。私たちからさほど遠くない、おそらく二階あたりで、演奏家たちが弾いているらしい。私は、ばか正直に、どんな偶然でこれが演奏されているのか、どこの演奏家たちなのかと訊ねた。『さあ!それはわかりませんな。けっしてわからんでしょう。目には見えぬ演奏家たちだ。きれいでしょう』と氏は、いささか失敬な、おまけにいくぶんスワンの影響と抑揚を想わせる口調で言った、『だが、あなたには無用の長物でしょう、魚がリンゴに見向きもしないようなものだ。ただ家に帰りたい一念で、ベートーヴェンや私なぞ袖にしても構わんのだから、あなたはみずから自身に判決と断罪をくだしているようなもんでしょう』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.480~481」岩波文庫 二〇一四年)
スワンの「影響と抑揚を想わせる口調」だと<私>は感じる。だが影響とか抑揚とかよりも遥かに同じ文章の反復なのだ。かつてスワンは愛人オデットの自由奔放な振る舞いについてこう言っていた。
「『俺の金で、ほかの男のお楽しみの出費を払ってるんだから。といってもあの女も、せいぜい気をつけて図に乗りすぎないようにしたほうがいい。もう一切なにひとつやらんことにするかもしれん。いずれにしても、しばらくは余計な世話を焼くのはやめよう。つい昨日もバイロイトの音楽祭に行きたいと言うものだから、うっかり、ふたりのために近くのバイエルン王の美しい城を借りようかと言ってしまった。それほど喜んでいるようではなかったし、今のところ行くとも行かないとも言ってこない。いっそ断ってくれるとありがたい。魚がリンゴに見向きもしないようにワーグナーなど屁とも思わぬ女と二週間もその音楽を聞くはめになるなんて、とんでもない苦行だ』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.258」岩波文庫 二〇一一年)
にもかかわらずスワンはオデットに対してどのような態度を取っていたか。
「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)
まるでマゾヒストの態度だ。けれどもマゾヒストの態度はドゥルーズのいうように逆説的なユーモアをもたらし、一方的な「責める/責められる」関係を無効化してしまう効果を持つ。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)
そのオデットが数十年後の「見出された時」ではサロンの花形として君臨しており、一方、ゲルマント公爵夫人はただ単なるシニフィアン(意味するもの)としてしか残されておらず、その席は何人もの女性が次々と置き換えられていくばかりのむなしい空洞でしかなくなっている。そしてまたオデットの場合も「失われた時」と「見出された時」との<あいだ>で共鳴・共振し合うのであり、マドレーヌやマルタンヴィルの鐘塔やヴィヴォンヌ川にうかぶ睡蓮といった観念連合はまるで関係のない空想に過ぎないのだ。
ところでしかし、なぜ<私>はシャルリュスの狂気について懇切丁寧に<暴露>していくのだろうか。それがプルーストの狙いだからだろうか。読者なら明らかに<暴露><監禁><冒瀆>という主題に気づくだろう。だがプルーストはもっと引き延ばされた<狂気>というものへ向けて読者を誘惑しているように思われてならない。<私>というものはそのために準備された話者に過ぎないと考えることはできないだろうか。
なお昨日の選挙結果について。どの政党候補にしてもステレオタイプ(紋切型)の演説しかできないという余りにも低レベルな選挙戦に見えていたが結果も予想通り。金のかかり過ぎる政治とは早く手を切らないといけない。だからともかく二大政党制を打ち立てることが先決だと思っていた。今回の参院選は与党の勝利に映って見えてはいるけれども内実は「ほかにこれといった投票先が見当たらなかった」というのが大抵の有権者の感情だろう。しかし現状の経済政策が不都合な行き詰まりを呈してきていることは紛れもない事実。少子高齢化と景気悪循環への不穏な流れは決して止まってはくれない。財政危機の濁流化を阻止するための早急な対策があるとすればなぜもっと早く手を打たないのだろうか。打つ手がないのなら「ない」とはっきり言わないと有権者に上手く伝わらないというのがわからないのだろうか。与党支持者の中でさえすでに就職困難者や進学困難者をかかえる人々が行列をなしているだけでなく、与党支持に回ったにもかかわらず、次にリストラされるのは与党に投票した「自分たち」なのはなぜなのかという声が早くも聞こえてきそうだ。
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「『だけど老いぼれのお祖母さんなんか、どうだっていいじゃないか。どうなんだい?悪い子のくせに!』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.279」岩波文庫 二〇一二年)
大勢の人々の前で堂々と振る舞う一方、暴力的で挑発的な身振りを繰り返してやまないシャルリュス。それらすべてが絡み合って以前触れた次の文章へ流れ込んだと見ることができる。
「とはいえ氏が自分のありとあらゆる憎悪をどんな美辞麗句で飾ろうとも、氏のことばの裏にはときに傷つけられた誇りがあり、ときに裏切られた恋があり、恨みやサディスムやからかいや、固定観念なども存在していて、この男は人を殺(あや)めかねず、しかも論理と美辞麗句を駆使してそんな殺人行為を正当化しかねず、それでも自分は兄や義姉より格段に優れた人間であると言いくるめかねない人間だと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.465」岩波文庫 二〇一四年)
けれども注意しなくてはいけないのは、シャルリュスが男性同性愛者だから二重性を生きている、というわけではない点。同性愛者としての兆候ならもっと前からしばしば触れられているので何も驚くことはない。むしろ「憎悪、傷つけられた誇り、裏切られた恋、恨み、サディスム、からかい、固定観念」など無数の<断片>に分解できるシャルリュスがいるのだ。この多数性がシャルリュスの分裂的傾向の暴力的かつ挑発的言動を容易にしている。
そうかと思えば<私>の帰宅を見送る際、再び「私たちの和解のしるし」としてターナーの絵画を指し示す。さらにベートーヴェンの交響曲第六番第五楽章「嵐のあとの歓喜」を持ち出して「和音」を強調する。にもかかわらずこういう。「だが、あなたには無用の長物でしょう、魚がリンゴに見向きもしないようなものだ。ただ家に帰りたい一念で、ベートーヴェンや私なぞ袖にしても構わんのだから」。
「『ここにあるターナーの虹は、二点のレンブラントに挟まれて、私たちの和解のしるしに輝きはじめている。聞こえますかな、ベートーヴェンがこの虹と共演しているのが』。実際、『田園交響曲』第三楽章『嵐のあとの歓喜』の最初の和音が聞こえてきた。私たちからさほど遠くない、おそらく二階あたりで、演奏家たちが弾いているらしい。私は、ばか正直に、どんな偶然でこれが演奏されているのか、どこの演奏家たちなのかと訊ねた。『さあ!それはわかりませんな。けっしてわからんでしょう。目には見えぬ演奏家たちだ。きれいでしょう』と氏は、いささか失敬な、おまけにいくぶんスワンの影響と抑揚を想わせる口調で言った、『だが、あなたには無用の長物でしょう、魚がリンゴに見向きもしないようなものだ。ただ家に帰りたい一念で、ベートーヴェンや私なぞ袖にしても構わんのだから、あなたはみずから自身に判決と断罪をくだしているようなもんでしょう』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.480~481」岩波文庫 二〇一四年)
スワンの「影響と抑揚を想わせる口調」だと<私>は感じる。だが影響とか抑揚とかよりも遥かに同じ文章の反復なのだ。かつてスワンは愛人オデットの自由奔放な振る舞いについてこう言っていた。
「『俺の金で、ほかの男のお楽しみの出費を払ってるんだから。といってもあの女も、せいぜい気をつけて図に乗りすぎないようにしたほうがいい。もう一切なにひとつやらんことにするかもしれん。いずれにしても、しばらくは余計な世話を焼くのはやめよう。つい昨日もバイロイトの音楽祭に行きたいと言うものだから、うっかり、ふたりのために近くのバイエルン王の美しい城を借りようかと言ってしまった。それほど喜んでいるようではなかったし、今のところ行くとも行かないとも言ってこない。いっそ断ってくれるとありがたい。魚がリンゴに見向きもしないようにワーグナーなど屁とも思わぬ女と二週間もその音楽を聞くはめになるなんて、とんでもない苦行だ』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.258」岩波文庫 二〇一一年)
にもかかわらずスワンはオデットに対してどのような態度を取っていたか。
「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)
まるでマゾヒストの態度だ。けれどもマゾヒストの態度はドゥルーズのいうように逆説的なユーモアをもたらし、一方的な「責める/責められる」関係を無効化してしまう効果を持つ。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)
そのオデットが数十年後の「見出された時」ではサロンの花形として君臨しており、一方、ゲルマント公爵夫人はただ単なるシニフィアン(意味するもの)としてしか残されておらず、その席は何人もの女性が次々と置き換えられていくばかりのむなしい空洞でしかなくなっている。そしてまたオデットの場合も「失われた時」と「見出された時」との<あいだ>で共鳴・共振し合うのであり、マドレーヌやマルタンヴィルの鐘塔やヴィヴォンヌ川にうかぶ睡蓮といった観念連合はまるで関係のない空想に過ぎないのだ。
ところでしかし、なぜ<私>はシャルリュスの狂気について懇切丁寧に<暴露>していくのだろうか。それがプルーストの狙いだからだろうか。読者なら明らかに<暴露><監禁><冒瀆>という主題に気づくだろう。だがプルーストはもっと引き延ばされた<狂気>というものへ向けて読者を誘惑しているように思われてならない。<私>というものはそのために準備された話者に過ぎないと考えることはできないだろうか。
なお昨日の選挙結果について。どの政党候補にしてもステレオタイプ(紋切型)の演説しかできないという余りにも低レベルな選挙戦に見えていたが結果も予想通り。金のかかり過ぎる政治とは早く手を切らないといけない。だからともかく二大政党制を打ち立てることが先決だと思っていた。今回の参院選は与党の勝利に映って見えてはいるけれども内実は「ほかにこれといった投票先が見当たらなかった」というのが大抵の有権者の感情だろう。しかし現状の経済政策が不都合な行き詰まりを呈してきていることは紛れもない事実。少子高齢化と景気悪循環への不穏な流れは決して止まってはくれない。財政危機の濁流化を阻止するための早急な対策があるとすればなぜもっと早く手を打たないのだろうか。打つ手がないのなら「ない」とはっきり言わないと有権者に上手く伝わらないというのがわからないのだろうか。与党支持者の中でさえすでに就職困難者や進学困難者をかかえる人々が行列をなしているだけでなく、与党支持に回ったにもかかわらず、次にリストラされるのは与党に投票した「自分たち」なのはなぜなのかという声が早くも聞こえてきそうだ。
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