白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「制度としての顔」/「暴力としての愛」序論

2022年07月01日 | 日記・エッセイ・コラム
「愛と嫉妬」というテーマ。ほとんどの読者は「愛する」とはどういうことかについて大いなる勘違いを犯してきた。プルーストはそれがどれほど暴力的かを明るみに出す。だからといって殴る蹴るといった暴力行為をともなうわけでは全然ない。だからなおさらアルベルチーヌに対する<私>の「愛」が暴力であるとは見えない。しかもその暴力性は二人の性行為を通して明らかにされる。

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~61」岩波文庫 二〇一四年)

アルベルチーヌの顔を固定することは実に厄介な操作だ。固定された顔というのはいつも「制度として顔」として出現する。ところがアルベルチーヌの顔は無意識的に固定されることをどんどん回避していく。その都度違った新しい顔貌へ次々と変容する。そこで<私>の頭の中を「写真」という方法がよぎる。

「写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のようにつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどに近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法である」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.61」岩波文庫 二〇一四年)

<私>が写真の技法を思いつくのはなぜだろうか。そうでもしない限り変幻自在なアルベルチーヌの容貌を固定する方法が見当たらなくなってしまっているのではないだろうか。しかしなぜ「固定」なのか。「固定」でなくてはならないと<私>はなぜ思い込んでいるのか。

「私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.61~63」岩波文庫 二〇一四年)

やっと辿り着いたアルベルチーヌの「唇」。にもかかわらず次の文章は違和感に満ちている。「唇」、「鼻孔」、「目」、「鼻」、「頬」、というように顔のそれぞれの部位が言語で構成されていることに注目しよう。解体するまでもなく、そもそもそれらは<ばらばら>なのだ。ゆえにそれら諸部位を構成して顔を作り上げる。それもあくまで「制度に従って」だ。

「接吻のためには、唇が適していないのと同じく鼻孔と目の位置も不適切であるーーー突然、目が見えなくなり、ついで鼻が押しつぶされて何の匂いも感じなくなり、だからといってあれほど望んだバラ色の味をそれ以上に深く知ることもなく、こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.63」岩波文庫 二〇一四年)

ここで<私>は「とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」と報告している。すると読者は思うだろう。二人の性行為はきっと愛の行為に違いないと。ところが実をいえば<私>にとって「愛する」というのは、<私>の側から欲望する一方的な<認識への意志>であり「所有欲」の言い換えでしかない。この構造について始めて明らかにしたのはニーチェである。

「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者──この衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者──の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)

《友情》あるいは《友愛》。その困難さについては以前ブランショから引いた。

「そこに現前ーーー瞬時に無媒介に実現されるユートピアとして理解された現前、従って未来はなく、従って現在はない、つまりは通常の時間の諸規定の彼方どこかに時間を開くためであるかのように宙吊りにされた現前ーーーというものの曖昧さがあったのであり、今もなおあるのである。《民衆》の現前?耳障りのよいこの語に訴えることはすでにして語の濫用があった。さもなければこの語は、個別の政治的諸決定にいつでも備えている社会的諸勢力の総体としてではなく、いかなる権力をも引き受けまいとする彼らの本能的な拒絶の中で、そして彼らが委託してもいるだろうある権力と混同されることに対する徹底した警戒の中で、つまりはその『無能力の宣言』の中で理解されるべきものだった。無数に発生した諸もろの『委員会』(これについてはすでに触れた)の曖昧さもそこに由来していたのであり、彼らは組織たらざることをよしとしながら非組織を組織すると主張したが、その組織は『自発的に意思表示する無数無名の民衆の群』(ジョルジュ・プレリ)と区別されるべくもなかった。行動なき行動委員会、あるいはそれまでの友情を否認して《友愛》(その場に生まれる仲間意識)ーーーそこにいる、ということの要請、それも人格としてあるいは主体としてではなく、親しみに包まれて無名、非人称の運動の参加者としてそこにいる、ということの要請が伝播する友愛ーーーに訴えるサークルであることの難しさ」(ブランショ「明かしえぬ共同体・2・P.67~68」ちくま学芸文庫 一九九七年)

ドゥルーズは、ラカンのいう「現実界」の闖入としての「六十八年五月」、と述べた。「非人称の運動の参加者としてそこにいる、ということの要請が伝播する友愛」。かつての全共闘運動、昨今では香港民主化運動がそうであったように、鉄の権力組織に対抗しうる、非-組織的な匿名の人々の<力>。しかしそれはそれとして、写真は逆にまるで無力なのか?そうではない。写真には写真の<力>がある。しかし写真ゆえの逆説もある。写真もまた「制度としての顔」を迂回することはできないからだ。そのことについて述べなければならない。

BGM1

BGM2

BGM3