白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストにとって《可視的なもの》と《不可視的なもの》

2022年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスに失礼な態度を取り続けていたことは確かだとしても、そのことで激怒するようなシャルリュスではないと<私>は考えていた。シャルリュスに対して失礼ではないかと叱責したのはあくまで<私>の両親である。なぜ叱責したのか、というより<私>の両親の身振り(振る舞い)こそが、当時のフランス市民社会を代表するシニフィアン(意味するもの)の一つ(記号)としてプルーストは受け取っていたからである。

だから<私>と作者プルーストとはすっかり別なのだ。混み入って見える理由は<私>というものがどこにでも出現して発言したり色々な身振りへと変化し、決して一つの人格に統合されることなく逆に無限に打ち広がる星雲として常に<外部>へ脱コード化していくからである。<私>は次の場合のように「非等質」な「雀蜂」と「蘭」と、それらの運動の生成として共鳴・共振する。

「どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっているものでないわけがあろう?蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしている」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.29」河出文庫 二〇一〇年)

ところでシャルリュスがもし激怒しているとすれば一体何にだろうか。<私>は<私>であると同時にシャルリュスでもあるかのようにその理由が手に取るようにわかる。第一にシャルリュスのメンツについて。「氏を憤慨させるのは、私が今夜こうしてゲルマント大公妃邸に来ている事実が、しばらく前から大公妃の従姉妹(いとこ)のところへ招待されている事実と相まって、『そうしたサロンには私の口利きがなければはいれない』という仰々しい宣言をあざ笑うように見えるからにちがいない」と。第二に社交界での序列について。「重大な過ち、償いようのない深刻な過失とも言うべきで、私は然るべき指揮系統に従わなかったのだ」とある。

「シャルリュス氏は、謝意を表明しなかったことならきっと私を赦してくれるだろう。ところが氏を憤慨させるのは、私が今夜こうしてゲルマント大公妃邸に来ている事実が、しばらく前から大公妃の従姉妹(いとこ)のところへ招待されている事実と相まって、『そうしたサロンには私の口利きがなければはいれない』という仰々しい宣言をあざ笑うように見えるからにちがいない。重大な過ち、償いようのない深刻な過失とも言うべきで、私は然るべき指揮系統に従わなかったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.103~104」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスのメンツについては上流社交界の中ですでに凋落の兆しを見て取っている人々も多く、シャルリュスの大演説は半ばそれを誤魔化すための方便と化していた。だからそれほど気にする必要はない。プルーストが問題にしているのは「然るべき指揮系統」とは何かという疑問。<諸断片>のモザイクとして出来上がった「失われた時を求めて」の作者にふさわしい疑問というべきだろう。「然るべき指揮系統」は事後的に発生するものであって、ア・プリオリに実在しているわけでは何らない。言い換えれば、一つの因果系列が接続・切断・再接続されつつあれこれ変化するのと同様の事態が起こっているのではとプルーストは問うているわけである。(1)ニーチェが暴露したことを(2)プルーストも暴露している。いずれも習慣・因習の拘束から解き放たれることの重要性を強調する。

(1)「《因果性による解釈は一つの迷妄である》ーーー『事物』とは、概念や心象によって総合的に結合されたその諸結果の総計のことである。じじつ、科学は、因果性という概念からその内容を抜き去り、この概念を比喩のための定式として残存せしめたが、この定式においては、いずれの側を原因ないしは結果とみなすかは、根本においてどうでもよいこととなってしまった。二つの複合状態(力の位置関係)においては力の量は等しさを保っているということが、主張されている。《生起を算定しうるのは》、それが或る法則に従っているとか、ないしは或る必然性に服しているとか、ないしは或る因果の法則を私たちがあらゆる事物のうちへと投影するとかということのためではないーーー、それは《『同一の場合』が回帰する》からである。カントが思いこんでいるように、《因果性の感覚》なるものはない。驚いて、不安をおぼえ、たよりにできる何か既知のものをもとめるのであるーーー新しいもののうちに何か古いものが指摘されるやいなや、私たちの心は鎮(しず)まる。いわゆる因果性の本能は、《なれていないものに対する恐怖》にすぎず、そのもののうちに何か《既知のもの》を発見しようとの試みにすぎない、ーーー原因の探求ではなく、既知のものの探求である」(ニーチェ「権力への意志・下・五五一・P.84」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

さてシャルリュスの大声は別としてその前に知り合いの医師とばったり出くわす。そこで<私>は医学について「語彙の点ではなんら進歩していない」と思う。

「私を相手にここ数日の猛暑のことを話題にした教授は、文学の素養があって正しいフランス語をしゃべることができるにもかかわらず、『この高熱は辛くないですか?』と言った。これは医学が、モリエールの時代から知識の点では若干の進歩をとげたものの、語彙の点ではなんら進歩していないからだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.107」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストが生きていた時代では当然のように<そう見える>。というのも、<そうとしか見えない>条件の中にプルースト自身が置かれているからである。フーコーはいう。

「今日では言語学者としてのニーチェが証明するように、この批判の可能性と必要性は、言語活動が存在するということに結びついている。また人間たちによって語られた無数のことばは、それが合理的なものであろうと無分別なものであろうと、説明的なものであろうと、詩的なものであろうと、その中で一つの意味が形成され、それがわれわれの上に覆いかぶさり、われわれを盲目にする」(フーコー「臨床医学の誕生・序・P.18」みすず書房 二〇一一年)

十八世紀から十九世紀にかけて臨床医学の世界は大きく変わっている。例えばペストなどの伝染病が流行するのは大昔からあるペスト菌がただ単にあるというだけではまるで説明にならず、以前の生態系を破壊しながら複雑に入り組んで建設された大都市の出現が不可欠になっているという状況。「流行病の根底はペストとかカタルではない。それは一七二一年におけるマルセーユであり、一七八〇年におけるビセートルである。それはまた一七六九年におけるルアンであ」る。

「流行病の根底はペストとかカタルではない。それは一七二一年におけるマルセーユであり、一七八〇年におけるビセートルである。それはまた一七六九年におけるルアンであって、そこでは『夏の間、子どもたちの間にカタル性の胆汁熱や、栗粒疹熱を合併する化膿性の胆汁熱や、秋には高い発熱を伴う胆汁熱の性質をおびた流行がおこった。この<体質>はこの季節の終りと、一七六九年から一七七〇年にかけての冬の間に化膿性の黄疸に変質した』。人口に膾炙された病理形態があげられているが、それらは複雑に交錯して、構造論的には、ちょうど疾患に対する症状と全く同一な役割を演じている」(フーコー「臨床医学の誕生・第二章・P.58」みすず書房 二〇一一年)

臨床医学の大々的な出現は第一にすべての人間を二種類の集合に分割する方向に向けられた。「健康的なものと病的なものとの対立」=「ポジティヴなものとネガティヴなものの対立」というふうに。

「十九世紀における諸生命科学の威信、それらがとくに諸人間科学において演じたモデルとしての役割は、生物学的諸概念の包括的かつ転移可能な性格に原初的にむすびついているわけではなく、むしろ、これらの概念が、健康的なものと病的なものとの対立に対応する、深い構造をもった空間に配置されている、という事実にむすびついている。集団や社会の生活、民族の生活、あるいは『心理的生活』について語るときにさえ、ひとがまず思い浮かべるのは《組織化された存在》の内部的構造のことではなく、《正常性と異常性との医学的両極》のことなのである。ーーーその考察は統一の作業よりは区分の問題にむけられており、ポジティヴなものとネガティヴなものの対立ということに、完全に対応している」(フーコー「臨床医学の誕生・第二章・P.75~76」みすず書房 二〇一一年)

病気の形態は分類可能である。ところが個々人の症状は無限に変化していく。そこで要請されたのが言語機能の医学化である。「病気には個別的な病気しかない。それは個人が自己の病気に反応するからというわけではなく、病気の作用が、当然のこととして、個性のかたちの中で、くりひろげられる」がゆえに「知覚されたものが、その独自性のゆえに、ことばの形から逃げてしまい、表現されないあまりに、ついには知覚されえぬものとなる危れがある」。だから日常言語では捉えられないが見えてはいる個々の症状に対して解剖学的な「まなざしが、もはやことばを持ちあわせない、かの薄明の中に、言語を導入する」ことになる。

「解剖=臨床医学的方法は、はじめて病気の構造の中に、個人的変化というものが、いつでもありうるという可能性を、くみこんだのであった。ーーー解剖学的知覚においては、病気は必ず、ある程度の『動いたもの』を伴ってあらわれる。それは初めから、起始点、歩み、強さ、速度などの点で、ある自由なゆとりを持っていて、それがこの病気の個別的形態を描く。この形態は、病理的逸脱に加えられた逸脱ではない。病気とは本質的に逸脱的なものだが、その本性の内部において、それ自体、たえず逸脱するものなのである。病気には個別的な病気しかない。それは個人が自己の病気に反応するからというわけではなく、病気の作用が、当然のこととして、個性のかたちの中で、くりひろげられるからである。ーーーもはや問題は両義包括的な照合によって、可視を可読に変えることや、コード化された言語の普遍性によって、それを意味的なものに移行させることでもない。反対に、問題は、ことばを或る種の質的な洗練へむかってひらくこと、つまりつねにより具体的で、より個別的で、より忠実に物の形に沿うような、そうした洗練へと、ことばを向かわせることなのである。ーーー問題はもはや或る知覚の部分と意味論的要素をむすびつけることではない。知覚されたものが、その独自性のゆえに、ことばの形から逃げてしまい、表現されないあまりに、ついには知覚されえぬものとなる危れがある、そうした領域へ向けて、言語を完全に転換させることが問題なのである。そのため、《発見する》ということは、ある混乱の下にある本質的な一貫性を《読みとる》ということではなくなり、言葉の波がしらの泡の線をもう少し先まで押しすすめ、知覚の明るみに対してまだ開かれてはいるものの、すでに日常のことばに対しては開かれていない、かの砂浜の領域へと、波がしらの線を、食いこませることとなる。まなざしが、もはやことばを持ちあわせない、かの薄明の中に、言語を導入するわけである」(フーコー「臨床医学の誕生・第九章・P.280~281」みすず書房 二〇一一年)

すると以前は「《不可視的なもの》」だった個々別々の症状が「あらゆる人にとって《可視的なもの》の、共通な光のもとに呈示される」ようになる。

「ここでいう《可視的なもの》とは、解剖学的なまなざしが、その至高な力で再びとらえてしまう以前に、生きた個性と、諸症状の交錯と、生体内の深さとが、事実上、しばらくの間、見えないものにしてしまうもののことである。しかしまた、ここでいう《不可視的なもの》とは、個別的な様相に関することでもあって、これはカバニスのような臨床医学者にとってさえも、解きほぐすことのできないものに見えた。しかし、この不可視的なものは、鋭い、忍耐づよい、少しずつかじって行くようなことばによって、ついにあらゆる人にとって《可視的なもの》の、共通な光のもとに呈示されるのである。ことばと死とは、この経験の各レベルで働き、またこの経験の厚み全体に沿って働き、ついに科学的知覚に対して、長い間、不可視なる可視でありつづけたものを、呈示したのであった。不可視的なる可視とは、禁止された、切迫した秘密であったもの、つまり、個人に対する認識である」(フーコー「臨床医学の誕生・第九章・P.282」みすず書房 二〇一一年)

その点で第一に医学の進歩であると言える。だが問題は第二の「個人に対する認識である」。個人に関するあらゆるデータを細大漏らさず管理下に置いて常に計測・診断・検査・試験が何度も繰り返し行われる。病気治療のためには役立つ反面、このような医学的管理方法をモデルにした新しい政治学が出現した。現代政治の管理学は近代臨床医学の成果を参照することで、ただ単なる病人の集団ではなく「病的なもの=ネガティヴなもの」という短絡によって一人一人の身体だけでなくその内面まで逐一監視・計測、さらにはマーケティングするに至っている。ではなぜフーコーにはそれがわかったのか。プルーストもまたその仕組みについてはわかっていた。

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)

というわけでプルーストにとって医学的進歩の両義性(功罪)は「後まわしになる」=<事後的にしかわからない>という結果を招いたのだった。

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