白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・マッチョ的男性同性愛の大欺瞞と日米同盟

2022年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
「ソドムとゴモラ」には色々な組み合わせが考えられる。男性の中の男性と男性の中の女性、女性の中の男性と女性の中の女性、男性の中の男性と男性の中の男性、女性の中の女性と女性の中の女性、女性の中の男性と男性の中の女性、男性の中の男性と女性の中の男性、男性の中の女性と女性の中の女性、ーーーなどなど組み合わせは多様だ。シャルリュスは単純でソドム以外に関心がない。だがソドムをもゴモラをも自由気ままに行ったり来たりできるトランス性愛的な人々もいる。それが明らかになるのは「愛」においてというより「嫉妬」において顕著だ。差し当たりプルーストはこう書いている。

「そんなわけで前者の男を愛する男たちからすると、嫉妬をかき立てられるのは相手の男がべつの男と味わう快楽だけで、それだけが自分には裏切りに思える。なぜならその男たちは、女と愛情をわかち合うことはなく、そうしているように見えても慣習として結婚の可能性を残しておくためにすぎず、女との愛情から与えられる快楽をまるで想像できないので、耐えがたく思えるのは自分の愛する男が味わう快楽だけだからである。ところが後者の男たちは、しばしば女性との嫉妬をかき立てられる。というのもこの男たちは、女性と結ぶ関係において、女を愛する女性からすると相手の女役を演じているうえ、同時にその女性もこの男たちが愛する男に見出すのとほとんど同じ快楽を与えてくれるので、嫉妬する男は、自分の愛する男がまるで男にも等しい女に首っ丈になっているように感じると同時に、その男がそんな女にとっては自分の知らない存在、つまり一種の女になっていると感じて、その男がまるで自分から逃れてゆくような気がするのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.67~68」岩波文庫 二〇一五年)

一見したところ矛盾に思える。けれども人間界にはそのような例外が少なくない。マジョリティを占めていないというだけのことで、マイノリティとしては随分存在するのであって現実に日常生活を送っている。

「動物界や植物界の多くの生物と同じで、バニラエッセンスを生みだす植物も、雄の器官と雌の器官とが仕切りで隔てられているせいで、ハチドリやある種の小さなミツバチが一方から他方へと花粉を運んでくれるか、人間が人工的に受精させるかしなければ実を結ぶことがない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.76」岩波文庫 二〇一五年)

ここで「ハチドリやある種の小さなミツバチが一方から他方へと花粉を運んでくれるか、人間が人工的に受精させるかしなければ実を結ぶことがない」とある。プルーストはなぜかいつもこのような記述方法を取る。「ソドムとゴモラ」の条では異性愛にしろ同性愛にしろとりわけ熱心に取り組んでいるにもかかわらず。なので或る程度プルーストの逆説的方法を理解している読者は逆にプルーストが言わんとしていることをよく察することができる。「ハチドリやある種の小さなミツバチが一方から他方へと花粉を運んでくれるか、人間が人工的に受精させるかしなければ実を結ぶことがない」というのは「ハチドリやある種の小さなミツバチが一方から他方へと花粉を運んでくれるか、人間が人工的に受精させるか」<すれば>「実を結ぶ」ということだ。今のリゾーム世界ではすでに実現されている。

「どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっているものでないわけがあろう?蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしている」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.29」河出文庫 二〇一〇年)

ところがシャルリュスはシャルリュスの側の世界だけで十分なのだ。動物も植物も必要としない。その意味でシャルリュスが生息するソドム世界の「統一」などまるで目指されていない。「統一」とか「全体」とかではなく、逆にシャルリュスはシャルリュスの側だけで果てしなく「分裂しつつ無限の系列を横断していく宇宙」を生きるのである。シャルリュスにとって「統合」はただ単なる概念に過ぎないしそもそも「統合」など欲していない。

「しかし倒錯者たちは女性に属していないということだけで充分であり、わが身に女性の萌芽を残してはいるが、それを使うことはできない。これは多くの両性花や、カタツムリのようなる種の雌雄同体の動物にも生じることで、自分自身では受精できず、べつの両性花やべつの雌雄同体によってのみ受精できるのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.81」岩波文庫 二〇一五年)

ドゥルーズ=ガタリが導入したリゾームという概念は観念的なものではまるでなく、まさしく二十一世紀の地球上を覆い尽くす極めて具体的な事態として出現した。すべてが繋がっている状態。けれども注意すべきは日常的に普及したネット社会と混同してはいけないし混同できない部分を多々持っている点である。ネット社会の繋がりと重なりはするが、それとの「ずれ」(差異)を常に出現させながら生成変化を遂げていく横断性が「植物たち」を参照として、世界系を次々と脱コード化・再コード化の絶えざる運動へ巻き込み引き延ばしていく。

「植物たちの智慧ーーーたとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともにーーー風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。『われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔』。そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方法の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生みだすに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.31~32」河出文庫 二〇一〇年)

ネット機器の利便性は女性の社会進出を押し進めるのに大いに役立ったし今なお活躍している(日本は世界に逆行しているが)。インフラとしても定着してきた。上手に使うかぎり「植物たち」との共存は十分可能である。反面、使い方次第であって、インターネットはただちに軍事装置として機能する。ほんのワン・クリックで遠く離れた場所の爆破装置を起動することさえできてしまう。原発大国日本では洒落にならない重大事態なのだが日本政府は国策として始まった原発開発を中止する気がなさそうで余りにも恐怖である。

また地域振興問題について。一言で「過疎地」と決めつけてしまいがちだが過疎地は始めから過疎地だったわけではない。地域差ということだけで言えばそれこそ明治維新前から大量にあった。だが戦後日米同盟のあおりから日本各地で大規模な基地建設反対闘争が起こり、撤退を余儀なくされた日米政府はあまり人目につかない村落に目をつけて大規模な米軍基地建設に動くことにした。そして様々な過疎地の中からどういう選考を経てかは不明なのだが、幾つかの小規模村落に大規模米軍基地が建設されるに至った。と同時にその村落は他の地域共同体とは異なる「過疎地」とされたのであって、その逆ではない。どこか手品めいた話に思えていてもこの種の権力の動き方についてはフーコーが明らかにしている。

「権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで縷々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表わした者もほとんどいない、ということが生ずるのだ。無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、その『発明者』あるいは責任者は、縷々偽善的な性格を全く欠いているのだ。ーーー権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中にはいたるところに現前している。権力に対して、偉大な《拒絶》の場が《一つ》ーーー反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったものーーーがあるわけではない。そうではなくて、《複数の》抵抗があって、それらすべてが特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮(おとり)あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それゆえ、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。縷々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.122~124」新潮社 一九八六年)

プルーストは淡々と続ける。

「そんなわけで倒錯者たちは、好んでわが身を古代オリエントやギリシャの黄金時代に関連づけ、さらに昔の雌雄異体の花も単性の動物も存在していなかった試行の時代、つまり女性の生体組織のなかに雄の器官の傷跡が、男性の生体組織のなかに雌の器官の傷跡がそれぞれ残っていたと思われる原初の雌雄同体の状態にまでさかのぼろうとする」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.81~82」岩波文庫 二〇一五年)

しかしここにはプルーストが仕掛けたのではない一種の罠がある。「古代オリエントやギリシャの黄金時代」。当時、マッチョ的な男性同性愛至上主義の流行があった。ソクラテスが語りプラトンが記録に残した一方的な男性同性愛至上主義である。ソクラテス=プラトン的な同性愛指向は女性同士の同性愛や異性愛を軽蔑している点ではなはだしく差別的な性愛だと指摘することができる。その点は確かに告発されねばならない。だがソクラテス=プラトンの文脈ではこうもある。二箇所引用。二点とも、ア・プリオリな習慣的思考を離れて新しく思考することを促進させる効果を持つ。

(1)「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫 一九五二年)

(2)「ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいましたーーーあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文(じゅもん)でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから」(プラトン「メノン・13・P.42~43」岩波文庫 一九九四年)

そうでなければ誰一人として新しく思考するよう推し進めることがなかったかもしれない。

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.354」河出文庫 二〇〇七年)

ニーチェが指摘しているように人間は習慣の魔力にとても弱い。しかし習慣化してしまった思考に留まっていては何一つ進歩しない。人間は本来たいへん怠惰な生きものである。ゆえに「何かショックを受けて思考するということ」の重要性についてプルーストは作品を持ってきて作品自身に語らせているのだ。

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