ゲルマント大公妃の夜会に招待されることになった<私>。シャルリュスの紹介がなければゲルマント大公妃に近づくことは決してできないと言われていたにもかかわらず、あっさり招待状が届いたので出かけたのだった。本当だろうかと内心不安ではあったものの、順番を待っていたら順番通り<私>の名が呼ばれ、<私>はゲルマント大公妃の挨拶を受けることができた。
<私>の心配は杞憂に過ぎなかった。正式に招待されていたことがはっきりした。だが一方、ゲルマント大公妃には周囲の目から見て始めてそれとわかる憂慮すべき点があった。晩餐会や夜会を仕切る腕前を見せつけるために如才なく振る舞うのだが、その振る舞い方があまりにもマニュアル通りであって、まるでマニュアルがパーティを催しているかのようなのだ。読者から見ればゲルマント大公妃というよりマニュアル大公妃というべき振る舞いに遥かに近い。<私>には「大公は庭にいますから」と言っただけ。才気の一つも見せてほしいところだが当意即妙な対応に長けた夫人たちが多く集まる場ではほかに余裕がないのかもしれない。会場に到着した各々の招待客への挨拶が終わると予定通り四十五分間のうちに着席したすべてのテーブルを訪問して「大貴婦人がいかに客をもてなす術(すべ)を心得ているか」を不自然にならないよう招待客たちに見せてまわることがゲルマント大公妃の目的だったからである。
そんなわけで「大公は庭にいますから」と言われた<私>は大公のいる庭を目指すほかないのだが、そのためには大公を始めとしてその他の人々に「だれか私を紹介してくれる人を見つけなければならない」。見渡すとシャルリュスがいた、というより、シャルリュスのいつもの圧倒的大声が響いてきた。しかしその日はシャルリュスのライバル(シドニア公爵)もいて、二人でとめどなく大声を上げ続けていた。大声でしゃべりまくり会場を圧倒すればその場の主役は自分だと信じて疑わない人々のことを、プルーストはどうしようもない「同じ悪癖の持主」だと述べている。
「いずれにしても、だれか私を紹介してくれる人を見つけなければならない。あたりの会話を圧倒して聞こえてきたのは、とめどなく口をついて出るシャルリュス氏のかしましいおしゃべりで、その相手は知り合ったばかりのシドニア公爵閣下である。同じ職業の人はたがいにそれとわかるものであるが、どうやら同じ悪癖の持主もそうであるらしい。シャルリュス氏とシドニア氏は、それぞれただちに相手の悪癖を嗅ぎつけたようで、その悪癖とは、社交界に出ると両者とも、いかなる人の口出しも許せぬほどひとりでしゃべりつづけることである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.101~102」岩波文庫 二〇一五年)
けれども<私>はつい先日シャルリュスの好意を断ったばかりなので気まずい立場だ。それ以来手紙の一つも届けていない。
「私はゲルマント大公に紹介してほしいとシャルリュス氏に頼みたいのは山々だったが、氏が私に(当然のことながら)腹を立てているのでないかと心配していた。氏の提案を二度まで袖にしたうえ、氏があれほど優しく家まで送ってくれた夜のあとも無音(ぶいん)を決めこみ、おそろしく恩知らずな振る舞いにおよんでいたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.102」岩波文庫 二〇一五年)
そこで再び<私>と両親との対立が焦点化される。「シャルリュス氏にいまだ手紙の一通さえ書こうとしない怠慢を両親から叱責されたとき、たしかに私はいかがわしい提案を受けろと言うのかと両親を激しくなじった」。<私>がシャルリュスとジュピアンとの同性愛行為を目撃する前のことだ。だから「いかがわしい提案」という言葉の中に「官能的なもの、いや、愛情めいたものが潜んでいるとは想像もできなかった」。当然のことながら「私が両親にそんなことを言ったのは、ただの出まかせだったのである」。
「少し前になるが、シャルリュス氏にいまだ手紙の一通さえ書こうとしない怠慢を両親から叱責されたとき、たしかに私はいかがわしい提案を受けろと言うのかと両親を激しくなじった。しかしそのときの私は、ただただ腹立ちまぎれに、両親がいちばん不快に思うことばを言いたい一心で、でたらめな返答を口走ったにすぎない。実際には、男爵の提案の裏に官能的なもの、いや、愛情めいたものが潜んでいるとは想像もできなかった。私が両親にそんなことを言ったのは、ただの出まかせだったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.103」岩波文庫 二〇一五年)
しかし「ただの出まかせ」と「いかがわしい提案」とが二つの等価のものとして書き込まれている点で注目に値すると言わねばならない。「いかがわしい提案」という言葉は差し当たり三分割して考えることができる。前回述べたように「ユダヤ系の母親・上流階級出身・同性愛疑惑」の三点セット。特にプルーストは金利生活者でもあった。両親の地位ゆえ譲り受けたものだ。生まれる前から決定されていた社会的立場だった。そこにプルーストの複雑な心境が露呈せずにはいないのである。社交界内部の生態を生き生きと記述するには願ってもない立場。ところが資本主義的生産様式のもとでは他の多くの人々の犠牲の上に成り立っている立場。さらに「ソドムとゴモラ」について書くと今度はマスコミがありとあらゆる観点から同性愛疑惑を煽り立て、煽り立てた記事が資本へ変換されますますマスコミを肥え太らせていく。マスコミは世間のスキャンダルを煽り立てながら問題の核心を少しずつずらしていき、結果的に権力者を有利な立場に置き換えることで巨大化する。その調子ではプルーストだけが世の中の矛盾を一人で抱え込んでいるような有様になる。あまりの騒々しさと馬鹿馬鹿しさゆえ、プルーストのマスコミ対応は淡々としたものが多く、その代わりというべきか、知り合いの作家との書簡のやりとりが中心となって残されているばかりだ。
プルーストが「いかがわしい」というのはそのような混み入った社会のあり方自体に向けられている。それが両親に対する発言として迸り出たのは、プルーストにとって両親の立場が社会を代表する立場と等価性を持っている限りにおいてだからである。プルーストの両親はプルーストに向けて矛盾に満ちた家庭を無理にでも作るよう強いる。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)
というふうに。だがプルーストのような敏感な感受性の持ち主は決して騙されまいとする。そこに両親とプルーストとの決定的齟齬が発生するし発生しないわけにはいかない。
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<私>の心配は杞憂に過ぎなかった。正式に招待されていたことがはっきりした。だが一方、ゲルマント大公妃には周囲の目から見て始めてそれとわかる憂慮すべき点があった。晩餐会や夜会を仕切る腕前を見せつけるために如才なく振る舞うのだが、その振る舞い方があまりにもマニュアル通りであって、まるでマニュアルがパーティを催しているかのようなのだ。読者から見ればゲルマント大公妃というよりマニュアル大公妃というべき振る舞いに遥かに近い。<私>には「大公は庭にいますから」と言っただけ。才気の一つも見せてほしいところだが当意即妙な対応に長けた夫人たちが多く集まる場ではほかに余裕がないのかもしれない。会場に到着した各々の招待客への挨拶が終わると予定通り四十五分間のうちに着席したすべてのテーブルを訪問して「大貴婦人がいかに客をもてなす術(すべ)を心得ているか」を不自然にならないよう招待客たちに見せてまわることがゲルマント大公妃の目的だったからである。
そんなわけで「大公は庭にいますから」と言われた<私>は大公のいる庭を目指すほかないのだが、そのためには大公を始めとしてその他の人々に「だれか私を紹介してくれる人を見つけなければならない」。見渡すとシャルリュスがいた、というより、シャルリュスのいつもの圧倒的大声が響いてきた。しかしその日はシャルリュスのライバル(シドニア公爵)もいて、二人でとめどなく大声を上げ続けていた。大声でしゃべりまくり会場を圧倒すればその場の主役は自分だと信じて疑わない人々のことを、プルーストはどうしようもない「同じ悪癖の持主」だと述べている。
「いずれにしても、だれか私を紹介してくれる人を見つけなければならない。あたりの会話を圧倒して聞こえてきたのは、とめどなく口をついて出るシャルリュス氏のかしましいおしゃべりで、その相手は知り合ったばかりのシドニア公爵閣下である。同じ職業の人はたがいにそれとわかるものであるが、どうやら同じ悪癖の持主もそうであるらしい。シャルリュス氏とシドニア氏は、それぞれただちに相手の悪癖を嗅ぎつけたようで、その悪癖とは、社交界に出ると両者とも、いかなる人の口出しも許せぬほどひとりでしゃべりつづけることである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.101~102」岩波文庫 二〇一五年)
けれども<私>はつい先日シャルリュスの好意を断ったばかりなので気まずい立場だ。それ以来手紙の一つも届けていない。
「私はゲルマント大公に紹介してほしいとシャルリュス氏に頼みたいのは山々だったが、氏が私に(当然のことながら)腹を立てているのでないかと心配していた。氏の提案を二度まで袖にしたうえ、氏があれほど優しく家まで送ってくれた夜のあとも無音(ぶいん)を決めこみ、おそろしく恩知らずな振る舞いにおよんでいたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.102」岩波文庫 二〇一五年)
そこで再び<私>と両親との対立が焦点化される。「シャルリュス氏にいまだ手紙の一通さえ書こうとしない怠慢を両親から叱責されたとき、たしかに私はいかがわしい提案を受けろと言うのかと両親を激しくなじった」。<私>がシャルリュスとジュピアンとの同性愛行為を目撃する前のことだ。だから「いかがわしい提案」という言葉の中に「官能的なもの、いや、愛情めいたものが潜んでいるとは想像もできなかった」。当然のことながら「私が両親にそんなことを言ったのは、ただの出まかせだったのである」。
「少し前になるが、シャルリュス氏にいまだ手紙の一通さえ書こうとしない怠慢を両親から叱責されたとき、たしかに私はいかがわしい提案を受けろと言うのかと両親を激しくなじった。しかしそのときの私は、ただただ腹立ちまぎれに、両親がいちばん不快に思うことばを言いたい一心で、でたらめな返答を口走ったにすぎない。実際には、男爵の提案の裏に官能的なもの、いや、愛情めいたものが潜んでいるとは想像もできなかった。私が両親にそんなことを言ったのは、ただの出まかせだったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.103」岩波文庫 二〇一五年)
しかし「ただの出まかせ」と「いかがわしい提案」とが二つの等価のものとして書き込まれている点で注目に値すると言わねばならない。「いかがわしい提案」という言葉は差し当たり三分割して考えることができる。前回述べたように「ユダヤ系の母親・上流階級出身・同性愛疑惑」の三点セット。特にプルーストは金利生活者でもあった。両親の地位ゆえ譲り受けたものだ。生まれる前から決定されていた社会的立場だった。そこにプルーストの複雑な心境が露呈せずにはいないのである。社交界内部の生態を生き生きと記述するには願ってもない立場。ところが資本主義的生産様式のもとでは他の多くの人々の犠牲の上に成り立っている立場。さらに「ソドムとゴモラ」について書くと今度はマスコミがありとあらゆる観点から同性愛疑惑を煽り立て、煽り立てた記事が資本へ変換されますますマスコミを肥え太らせていく。マスコミは世間のスキャンダルを煽り立てながら問題の核心を少しずつずらしていき、結果的に権力者を有利な立場に置き換えることで巨大化する。その調子ではプルーストだけが世の中の矛盾を一人で抱え込んでいるような有様になる。あまりの騒々しさと馬鹿馬鹿しさゆえ、プルーストのマスコミ対応は淡々としたものが多く、その代わりというべきか、知り合いの作家との書簡のやりとりが中心となって残されているばかりだ。
プルーストが「いかがわしい」というのはそのような混み入った社会のあり方自体に向けられている。それが両親に対する発言として迸り出たのは、プルーストにとって両親の立場が社会を代表する立場と等価性を持っている限りにおいてだからである。プルーストの両親はプルーストに向けて矛盾に満ちた家庭を無理にでも作るよう強いる。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)
というふうに。だがプルーストのような敏感な感受性の持ち主は決して騙されまいとする。そこに両親とプルーストとの決定的齟齬が発生するし発生しないわけにはいかない。
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