白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・横断的<生産装置>としてのプルースト

2022年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
プルースト作品では<私>が語るという方法を取っているにもかかわらず、プルースト自身の語りとしか思えない箇所がしばしば出てくる。そのうち、おそらく避けられないと思われる部分が差し当たり二箇所ある。その点について述べたい。

(1)「これらソドミストの末裔は、『大地の砂粒が数えられる者がいるなら、この子孫も数えられるかもしれない』という『創世記』のべつの一節に当てはめることができるほど、じつに数が多く、地上のいたるところに定着し、ありとあらゆる職業にたずさわり、どんなに閉鎖的な社交クラブにも出入りしている」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.86」岩波文庫 二〇一五年)

「ソドムとゴモラ」で男性同性愛について語っている部分。プルーストの周囲の騒音については余りにも有名。伝記類でもさんざん論じられていることなのだが、出版当時はもっと酷く、作品論と作家論との区別もないがしろにされたまま、プルーストは「ユダヤ系・社交界人士・同性愛者の疑い」という三位一体が揃っていたため、過酷な誹謗中傷に晒された。なるほどプルーストの父親はカトリックだが母親はユダヤ教徒。様々な社交界に出入りすることを許された上流階級出身者。同性愛関係に関しては今なお不明。しかしいずれであろうとなかろうと、作家にとってはまるでどうでもいいことだ。プルースト自身、欧米で悪質な金融支配を続けるユダヤ系資本について「反ユダヤ」を明言していたし、上流階級であろうと中流階級であろうと下層階級であろうと作家になってはいけないという掟などどこにもなく、同性愛者であるかどうか、あるとすればどのような関係を持っているか持っていないか、をマスコミ相手に説明する義務などまるでないからである。なお「創世記」からの引用は次の箇所。

「『わたしは君の子孫を地の塵のように増し加える。もし誰かが地の塵を数えることが出来れば、君の子孫も数えることが出来るだろう』」(「創世記・第十三章・P.37」岩波文庫 一九五六年)

同性愛者はそれくらい数多い。大量にいる。とはいえ異性愛者と比較すれば少ない。異性愛ナショナリズムというべき排他的多数決社会だ。しかし数が多ければ多いで、ただ単に多いということだけで「正しい」と言えるのかというプルースト流の問いかけを含む文章である。

またユダヤ教徒によるシオニズム運動に関してプルーストはあくまで否定的である。ここではあえて「作者として」という一言を入れて語っている。

(2)「だが作者としては、致命的な誤りにさしあたり警告を発しておきたかったのである。その誤りとは、シオニズムの運動が鼓舞されたのと同じように、ソドミストの運動を起こして、ソドムの町を再建せんとするところにある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.86~87」岩波文庫 二〇一五年)

ユダヤ教徒が国家を持たなかった時代、イスラエル建国運動(シオニズム)が展開されていた。プルーストはその流れに反対だった。激化するナショナリズムを否定する立場である。同性愛の場合も同様、堅固な同性愛共同体を建設してしまえばナショナリズム化することは目に見えており、他者との横断的交通網が断たれてしまうという懸念を強く持っていたわけだ。しかし同性愛について書けば書くほど逆に疑いの目で凝視されますます誹謗中傷の嵐を巻き起こしたのは皮肉な逆説だったと言わねばならない。

イスラエルに関していえば結果的にプルーストの警告は的中した。第二次世界大戦終結の二年後イスラエルが建国され、最初にアメリカ、次に日本がそれを承認した。イスラエルは念願の国家を樹立することができた。ところがユダヤ・ナショナリズムはますます激化の一途をたどりパレスチナとのあくなき紛争状態を勃発させたのは誰もが知るところである。しかしなぜそんな経過をたどったのか。マルクスとニーチェの言葉は極めて示唆的だ。三箇所引こう。

(1)「もともとユダヤ教の基礎となっているものは何であったか。実際的な欲求、利己主義である。それゆえユダヤ人の一神教は、現実においては多数の欲求の多神教であり、便所に行くことさえも神の律法とするような多神教である。《実際的な欲求、利己主義》は《市民社会》の原理なのであり、市民社会が自分のなかから政治的国家をすっかり外へ生みだしてしまうやいなや、純粋にそういう原理として現われてくる。《実際的な欲求と利己》との神は《貨幣》である。貨幣はイスラエルの嫉み深い神であって、その前にはどんな他の神も存在することが許されない。貨幣は人間のあらゆる神々をおとしめ、それらを商品に変える。貨幣はあらゆる事物の普遍的な、それ自身のために構成された《価値》である。だからそれは全世界から、つまり人間界からも自然からも、それらに固有の価値を奪ってしまった。貨幣は、人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝するのである。ユダヤ人の神は現世的なものとなり、現世の神となった。手形がユダヤ人の現実的な神である。彼らの神は幻想的な手形にほかならない」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.61~63』岩波文庫 一九七四年)

(2)「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となった」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.65』岩波文庫 一九七四年)

(3)「《苦しんでいる者に対する支配》が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独自な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解することーーー彼らと理解し合うことができるのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず、他人に対してより以上に自分に対して支配者でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」(ニーチェ「道徳の系譜・第三論文・P.159」岩波文庫 一九四〇年)

ところで問題は、マルクスやニーチェの予言的言葉にもかかわらず、戦争は今や世界的な戦争機械を生産したし、生産しているという点でなくてはならない。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

そうであってもなおプルースト作品はナショナリズムとは真逆の横断的交換・横断的流通の網の目を張り巡らせていく<生産装置>として読むことができる。

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