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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<プルースト><スワン><マスコミ言語>、それぞれの二重性

2022年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ゲルマント侯爵夫人はいつもパーティーの人気者。社交界入りを果たした新進の作家や劇作家が夫人のもとを訪れてきて是非近づきになりたいということなどは日常茶飯事だった。しかし夫のゲルマント侯爵は浮かぬ気分。嫉妬しているわけでは全然なく、そもそも作家というものをまるで信用していないからである。「えてして社交人士は、本というものを一つの面だけ取り払われた立方体のように考えがちで、作者は出会った人たちを大急ぎでそのなかへ『ぶちこむ』のだと想像する」。そういうことは今なお世界中であるだろう。ゲルマント侯爵はさらにこう考える。「作者は出会った人たちを大急ぎでそのなかへ『ぶちこむ』のだと想像する。それはもちろん卑怯なやり口で、作家なんてろくでもない連中だ。そんな連中に『ことのついでに』会っておくのはたしかに楽しいことかもしれない」。けれどもなぜ会うのか。「会っておけば、本や新聞雑誌への寄稿文を読むときに作家の『手の内』がわかって『仮面をはぐ』ことができる」からだ。

「作家や劇作家が何人も妻を訪ねてきて、妻を自作に描こうとするのが目に浮かんだ。えてして社交人士は、本というものを一つの面だけ取り払われた立方体のように考えがちで、作者は出会った人たちを大急ぎでそのなかへ『ぶちこむ』のだと想像する。それはもちろん卑怯なやり口で、作家なんてろくでもない連中だ。そんな連中に『ことのついでに』会っておくのはたしかに楽しいことかもしれない。会っておけば、本や新聞雑誌への寄稿文を読むときに作家の『手の内』がわかって『仮面をはぐ』ことができる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.160」岩波文庫 二〇一五年)

そんなふうに作家の生態を批判する。しかしゲルマント侯爵の思考回路を追う形で作家の「卑怯なやり口」を<暴露>しているのはほかでもないプルーストである。「失われた時を求めて」では至るところに知識人批判が出てくるが、そこで批判されている面々を時系列的に並べてみると、その中に明らかにプルーストの名が入っていて当然の文脈が見られる。ではなぜプルーストはしばしばそういうことを登場人物たちを用いて<暴露>させるのか。プルーストには自分自身の内面へ向けて置き換えられた「敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び」がある。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

その点でプルーストは自分で自分の二重化を隠そうともしない。むしろ批判の銃弾をたびたびプルースト自身を含めた作家・知識人たちに向ける。この種の思考回路はユダヤ人でありながら反ユダヤ主義者でもある友人ブロックの態度と極めて似た様相を見せる。

「ある日、サン=ルーと私が砂浜に座っていると、すぐ横のテントから、バルベックにはイスラエルの民がうじゃうじゃとはびこっているという呪詛(じゅそ)のことばが漏れ聞こえてきた。『一歩あるくだけでヤツらに出くわすんだ』とその声は言っていた、『俺だって原則としてユダヤの民に絶対反対というわけじゃないが、ここは過剰だ。聞こえてくるのは<ねえ、アプラハム、ぽくシャコプにてあったよ>てな声ばかり。まるでアブキール通りにいるみたいだ』。ヤコブの子孫を糾弾していた男がようやくテントから出てきたので、私たちは目をあげてその反ユダヤ主義者を見た。私の友人のブロックだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.218」岩波文庫 二〇一二年)

第一に欧米の遥か高みに君臨するユダヤ系金融大資本に対する批判があり、第二に欧米の隅々に生息するユダヤ系貧民が見せる絶望的かつ忌まわしい言動に対する苦々しさがあり、第三にプルースト自身の出自に関して父親はカトリックだが母親はユダヤ系であるという動かしようのない二重性があった。ブロックの場合は自ら「二重基準」を設定してその場その場をしのいでいたが、プルーストは作品の中へそれを上手く落とし込んで、ややもすれば自殺へ至る過程を寸前で迂回していた。何度も繰り返し描かれる社交界の戯画化はプルースト自身の戯画でもある。

スワンもまたユダヤ人である。芸術の知識に秀でており、なおかつ株式仲買人を務める商売人。しかしユダヤ系新興ブルジョワ階級を憎悪するゲルマント大公はスワンを「終生の友」と認め仲良くしていた。それは大公の頭の中にある次の論理による。

「大公はスワンを終生の友として、ただしゲルマント家のなかでシャルルと呼ばずスワンと呼ぶただひとりの人間として、自分の館に受け入れていたが、それはスワンの祖母が、ユダヤ人と結婚したプロテスタントで、ベリー侯爵の愛人であったことを知っていて、スワンの父親はプリンスの落とし胤(だね)だとする伝説をときに信じようとしたからである。この仮説によると、そもそも間違った仮説であったが、スワンはカトリック教徒の息子であり、その父親はブルボン王家の一員、その母親はカトリック教徒というわけで、スワンはキリスト教徒以外の何者でもなくなるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.163~164」岩波文庫 二〇一五年)

さらにこの場面は、ゲルマント侯爵夫人のサロンがサン=トゥーヴェルト夫人のサロンを追い抜き、遥か低次元へ追い落とした経緯を描いている。二十年ほど前はなるほどサン=トゥーヴェルト夫人のサロンは社交界の中で優越的地位にあった。けれども二十年が過ぎてしまうとかつての優越的地位はもはや他の人々のサロンと入れ換わり、その優越性はただ単なる幻想でしかなくなってしまう。しかしマスコミ読者はほとんどいつも幻想に惑わされ、もはや零落度合い著しいサン=トゥーヴェルト夫人のサロンを今なお「パリ随一のものと想いこむ」けれども「実際には最下級のサロンのひとつであった」。

「しかしそれはサン=トゥーヴェルト夫人のサロンの優越なるものが、『ゴーロワ』紙なり『フィガロ』紙なりで午後や夜のパーティーの報告記事を読むだけの社交生活しか知らず、そんなパーティーに一度も出たことがない人たちにとってのみ存在する優越だったからである。新聞を通じてしか社交界を知らぬこうした社交人士たちは、イギリスやオーストリアをはじめ各国の大使夫人たち、ユゼスとかラ・トレムイユとかの公爵夫人たち、その他もろもろの貴婦人たちの名前が列挙されているだけで、サン=トゥーヴェルト夫人のサロンはパリ随一のものと想いこむが、実際には最下級のサロンのひとつであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.167~168」岩波文庫 二〇一五年)

必ずしも新聞記事が間違っているわけではない。「正真正銘のエレガントなパーティー」の場合、わざわざ新聞に記事を出さなくても十分人数が集まる。マスコミは必要ないのだ。

「もてはやされるよりも敬遠されるサロン、いわば指図されてお勤めとして出かけるだけのサロンに幻惑されるのは、『社交界消息』欄を愛読する婦人たちに限られる。その婦人たちは、正真正銘のエレガントなパーティーを見過ごしてしまう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.168」岩波文庫 二〇一五年)

するとたちまちこんな事態が発生する。ゲルマント侯爵夫人のように上流社交界で「スペイン王妃にはエレガントな貴婦人と思われているが、大衆には認められていない。その女主人がいかなる貴婦人なのか、王妃は承知しているが、大衆は知らない」という転倒が。

「そちらのパーティーで女主人は、『選ばれし人の仲間』にはいりたくてうずうずしている公爵夫人たちを全員揃えることもできるが、そのうちの二、三人にしか声をかけず、しかも招待客の名前を新聞には発表させないからだ。それゆえこうした女主人は、こんにち宣伝なるものが獲得した影響力を過小評価しているのか歯牙にもかけないのか、スペイン王妃にはエレガントな貴婦人と思われているが、大衆には認められていない。その女主人がいかなる貴婦人なのか、王妃は承知しているが、大衆は知らないからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.168~169」岩波文庫 二〇一五年)

では、このような転倒を起こさせる活字とはなんなのか。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

どんな活字にせよ読者は「後者」しか知ることができない。「後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」。

だからもし今の日本でいえば、先日狙撃された元首相の国葬決定にあたりマスコミが動いたか動かざるを得ないような圧力を受けたとすれば、それはマスコミ言語として出現する。そしてそのマスコミ言語は何をやってのけたか。狙撃犯とカルト教団と元首相とを三分割することに役立てた。「勘違い」とか「関係ない」とかいった種類の報道を通して。しかしその効果は国葬以上の事態を招き込んだ。元首相の<神格化>という異例の事態を。ニーチェはいう。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫 一九九四年)

その意味でいえば今度の国葬は前代未聞のスキャンダルに見える。マスコミ言語はなるほど狙撃犯とカルト教団と元首相とのただならぬ関係をばらばらに解体して三分割することには成功した。けれども同時に、多少なりとも日本国民に対立する形で「社会的秩序のなかで誰かを低位に置くこと」になってしまった。「低位に置」かれたのはほかならぬ日本国民であり、逆に元首相の<神格化>のために率先して動いたのはマスコミだと自己暴露するに立ち至った。一度始まった「ガダルカナル撤退」はもう留まるところを知らず、東京大空襲・大阪大空襲・沖縄占領へ突き進むつもりなのだろうか。再び反復するのだろうか。反復するとしたらそれは或る程度は究明できるはずの原因すら依然として取り除かれていないからだ。

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