白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスの言説を追って9/パラノ的(偏執狂的)シャルリュスとスキゾ的(分裂症的)<私>

2022年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ますます態度を軟化させるシャルリュス。「あっ、そうだ!大事なことを忘れていた」と不意に言い、近いうちに再会する機会をとっとと設定しようとする。<私>との関係を「込みいった問題」と位置付け、その解決には時間がかかるという。とすればシャルリュスは絶好宣言したと同時に<和解>を目指していることになる。そして「込みいった問題」が一定の解決を見るまでに時間がかかる状況を歴史的国際会議に喩える。「考えてみればいい、ウィーン会議がどれだけつづいたか」と。

「私の推測は間違いではなかったようで、実際いっときして氏はこう言った。『あっ、そうだ!大事なことを忘れていた。あなたのお祖母さまを偲んで、セヴィニエ夫人のめずらしい刊本をあなたのために装丁させていたんだ。ならばこの会見も最後というわけではなくなりそうだ。まあ、込みいった問題が一日で片づくことはめったにないと、自分に言い聞かせて諦めるほかない。考えてみればいい、ウィーン会議がどれだけつづいたか』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.482~483」岩波文庫 二〇一四年)

しかし譬え話にしてもいきなり「ウィーン会議」を持ち出すところは、逆にシャルリュスの言説が<形式的な面>でだけ一貫しているのがよくわかる。突拍子のなさの中に実は緻密な計算が働いている。断絶から和解までの過程を「ウィーン会議」に喩える大風呂敷な身振りこそがそもそもシャルリュス的態度なのだ。というのも逆にいえばシャルリュスから見た「ウィーン会議」こそ揶揄とか侮辱とか馬鹿馬鹿しさの対象になっているからである。シャルリュスは人間の姿をとった<嘲弄>だとも言える。

そのように多岐にわたるシャルリュスの身振り。たった一人の身体の中にありとあらゆる人間の人格をすべて兼ね備えたかのような言説機械。少し前の箇所で<私>とその友人ブロックとを罵倒する際、こんな一節が飛び出していた。

「『たとえば、お友だちとその父親との格闘なんてのはどうかね、ダビデがゴリアトをやっつけたみたいにお友だちが父親を叩きのめすって段取りで。こりゃ、なかなか愉快な笑劇になりそうだ。お友だちが出てくるついでに、そのろくでなし(シャローニュ)の母親、というか、わが家の老女中に言わせりゃ、はすっぱ(カローニュ)の母親をめった打ちにしてもいい。そうなりゃ見もので、われわれの気に入らぬはずはないが、どうだい!きみ、われわれはエキゾチックな見世物が大好きだし、ヨーロッパ人でない女をぶん殴るのは、そんなあばずれの老いぼれへの当然の懲罰になるんだから』」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.259~260」岩波文庫 二〇一三年)

父親との対立と父親に従属する母親への罵倒が遠慮会釈なく語られている。そこでプルーストは「こんな身の毛もよだつ、まるで気が狂ったかと思えることば」と語るわけだが、よく知られているように、両親と対立していたのはシャルリュスではなくプルースト本人である。プルーストはシャルリュスの「心のなかに共存する善意と悪意との関係は、その関係がいかに多様であろうとも、それを明確にできれば興味ぶかいだろう」と書き付けるわけだが、実のところ、プルースト自身の内面が多種多様に分裂していることに気づいていた自分自身の独白だと見るのが遥かに事実に近い。

「こんな身の毛もよだつ、まるで気が狂ったかと思えることばを吐きながら、シャルリュス氏は組んだ私の腕を痛くなるほど締めつけた。シャルリュス氏は今しがた老女中の使うモリエール流の下品な隠語を引き合いに出したが、私は、その女中の数々の親切な行いを男爵があれこれ褒めたたえていたのをシャルリュス氏の家族から聞いたことを想い出し、これまでほとんど検討されていないと思われる、同一の心のなかに共存する善意と悪意との関係は、その関係がいかに多様であろうとも、それを明確にできれば興味ぶかいだろうと考えていた」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.260」岩波文庫 二〇一三年)

その点で、これまでの心理小説にはまるで出てこなかったプルーストの比類ない新次元が見られる。プルーストは人間の内面の事実は統一にあるのではなく逆に分裂にあるのだと作品の中で<暴露>した、おそらく最初の作家だったに違いない。プルースト以前、長いあいだ心理小説の本家はフランスだと見なされてきたが、本当は最後にやって来たプルーストにおいて始めてフランスに精神分析的横断性を持った作品が出現したというべきではないだろうか。しかし父親との対立といっても、父親にとって代わって自分が専制君主のように振る舞いたいと欲望するわけではない。そうではなく、ドゥルーズのマゾッホ論にあるような「新しい人間〔男〕を誕生させること」への絶望的希求とでもいうべき主題がシャルリュスを通して語られるのである。

「あなたは男ではありません。私が男にしてさしあげますーーー。マゾッホの小説にたえずあらわれるこの主題は、なにを意味するのか。『男になる』とはなにを意味するのか。それは決して《父のように振舞う》ことでも、その地位を占めることでもないのはあきらかである。それは逆に、父の地位と父との類似を除去することで、新しい人間〔男〕を誕生させることなのだ。責め苦はまさに父に対して、もしくは息子のうちなる父の似姿に対して行使される。すでに述べたように、マゾヒズムの幻想とは『子どもが叩かれる』ではなく、《父が叩かれる》なのだ」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.151~152」河出文庫 二〇一八年)

ところで、いったん態度を軟化させたシャルリュスが<私>の些細な一言で再び激怒する。激しい罵倒の言葉。かと思えば、その罵倒の言葉の中に<和解>へ向けた言葉=「和音」の強調が入っている。その様子を見た<私>は思う。「私に断られて自尊心を傷つけられるのを怖れたからだ」と。

「『それでしたら、ご迷惑をおかけせぬよう、いただきに誰かを伺わせます』と私は慇懃に言った。『黙れ、ばか者』と氏は腹を立てて答える、『ほぼ確実に私の家に迎えてもらえる(かならずとは言わない、従僕が出向いて刊本をあなたに手渡すかもしれない)、そんな名誉を些細なことと考えるようなばかげたマネはやめたまえ』。だが氏は、冷静さをとり戻すとこう言った。『こんなことばであなたと別れたくはない。不協和音はやめにしよう。永久の沈黙にはいる前には、やはり属音(ドミナント)による和音だ!』。氏がとげとげしい口喧嘩の後でただちに帰るのを怖れているらしいのは、その神経のためなのだろう。『ブーローニュの森には来たくないんだね』と言った氏の口調が、質問というより断言に近かったのは、私にそんな誘いをしたくないからというより、私に断られて自尊心を傷つけられるのを怖れたからだと思えた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.483~484」岩波文庫 二〇一四年)

そうなってくるとシャルリュスの言説を通して見えてくる<私>とは一体なんなのか。なるほどプルーストに関する伝記なら有名でもあり信頼できるものが幾つもある。だからといってそれら伝記類にどれほど目を通したとしても「失われた時を求めて」の<私>の正体がわかるわけではない。プルーストと父親との決定的対立は今見たようにシャルリュスの言説の中に上手く溶け込んでいて、シャルリュスが旺盛に語っている間、なぜか<私>は主張らしき言葉を一つも発しない。ただ単にシャルリュスを怒らせたり逆に和解を求めさせたりという逆説的身振りを限りなく反復させるばかりである。プルーストはシャルリュスに語らせる。<私>はそれに対して多種多様な反応で答える。しかもただちに反応して見せる。<私>はまた、アルベルチーヌの言動にもただちに反応する。そしてその反応はどれも多種多様であり一定しない。その点に注目すればシャルリュスばかりかむしろ<私>の側こそ分裂性が高いように見えてくる。

何が言いたいのだろうか。無数に散りばめられた箇所で狂気のように散乱する身振り=言語にもかかわらず、プルーストと<私>とは全然別物であるということをはっきりさせておかねばならない。シャルリュスが<私>の友人であるユダヤ人ブロックの両親を罵倒して怪気炎を上げる場面でもブロックとブロックの両親との対立はあくまでブロック家の内部事情として描かれている。言い換えれば、イスラエル内部の派閥抗争を想像して興奮するシャルリュスの大声が響き渡るという形を取っている。<私>はシャルリュスに共感するわけでもなく、ただひたすら熱心にシャルリュスの言説を聞き取り敏感に反応し、漏れなく読者へ語り伝えているばかりである。ただそれだけの動作なのだが、にもかかわらず作品はユダヤ人内部の階級闘争を炙り出し、イスラエルの民に対するイスラエルの民自身による「二重基準」を晒し出し、大貴族のものからユダヤ系ブルジョワ階級のものへと急速に様変わりしていく上流社交界の内部を卑猥なまでに<暴露>してやまない。

また「ユダヤ人=ユダヤ教徒」とその考察という点ではマルクスの小論文が今なお有効な読みを届けてくれるに違いない。

「《宗教上の》悲惨は、現実的な悲惨の《表現》でもあるし、現実的な悲惨にたいする《抗議》でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の《阿片》である。民衆の《幻想的な》幸福である宗教を揚棄することは、民衆の《現実的な》幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、《それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求すること》である。したがって、宗教の批判は、宗教を《後光》とするこの《涙の谷[現世]への批判の萌し》をはらんでいる」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.72~73』岩波文庫 一九七四年)

宗教の阿片化あるいは阿片化した宗教の蔓延は、現実社会の破綻的状況から生まれてくるのである。

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