ゲルマント公爵夫人に関心を寄せる<私>にシャルリュスは「ゲルマント大公妃の威光」の前ではたいした名ではないという。そこで、もし近づきになりたいのならと、こう続ける。「私と私の<開けゴマ>がなければ、大公妃のお屋敷には近づくことはできん」。
「『私の知見がおよぶのはフォーブール・サン=ジェルマンに限られている。フォーブールでは、あなたも紹介者にめぐり会えさえしたら、クールヴォワジエ家やガランドン家の人たちにまじって、どう見てもバルザックから抜け出てきたような老獪(ろうかい)な人士に出会えて、きっと楽しめるだろう。もちろんこんなことはゲルマント大公妃の威光とはなんの関係もないことだが、ただし、私と私の<開けゴマ>がなければ、大公妃のお屋敷には近づくことはできん』。『ほんとうに大へん立派なものなんですか。ゲルマント大公妃の館というのは』。『いや、大へん立派なんてものじゃない。これ以上はないほど立派だ。といっても大公妃自身の立派さにはおよばんが』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.486」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスは<私>とゲルマント大公妃とを出合わせるための唯一の媒介項だというわけだ。<私>とゲルマント大公妃との間には厳然たる仕切りがある。シャルリュスはその仕切りを取り払って両者を出合わせることができる貨幣の機能を持つ。<私>はゲルマント大公妃とゲルマント公爵夫人との違いがよくわからない。その点を尋ねると「そりゃ、比較にもならん」という答えが返ってきた。とはいえシャルリュスがゲルマント大公妃とゲルマント公爵夫人との違いをことさら大袈裟に強調するのには理由がある。ゲルマント公爵夫人に接近したがっている<私>をできるだけ夫人から遠ざけておきたいからに過ぎない。シャルリュスはあくまで男性同性愛者として<私>を手にいれたがっており、もしかすれば手に入れる可能性も残されているというのに、どうしてわざわざゲルマント公爵夫人にあっさり出会いの場を提供する必要性があるのかというわけだ。シャルリュスにすればゲルマント公爵夫人は余計な恋敵でしかない。
「『ゲルマント大公妃は、ゲルマント公爵夫人よりも優れたかたなのでしょうか?』。『そりゃ、比較にもならん。(すこしでも想像力のある社交人士なら、話題にしている人物に共感をいだいているか仲違いしているかによって、相手がどんなに揺るぎない安定した地位にあろうとも祭りあげたり蹴落としたりする、という点には留意しておく必要がある。)ゲルマント公爵夫人は(男爵がオリヤーヌと言わず夫人をそう呼んだのは、夫人と私とのあいだにいっそうの距離を設けようとしたのであろう)、すばらしい人だ、あなたが想像するよりもずっと優れている』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.486~487」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスはゲルマント大公妃の威光について滔々と並べ立てる。大公妃がどれほど偉大かと。その中に少しばかり違和感を覚える言葉が差し挟まれている。「ゲルマント大公妃のほうは、というより、その母親は、ワーグナー本人を知っていた。大公妃自身が絶世の美女であることは措いても、これはなかなかの威信ではないかね」。当時のワーグナー信者というのは大抵、シャルリュスが罵倒を浴びせかけてはばからない新興ブルジョア階級出身者で占められていた。上流社交界の中で大きな顔をし始めていた人々でありシャルリュスにとっては最も気にくわない連中である。ワーグナーを理解できるということが当時は上流社交界人士の証拠にもなっていたほど。そのワーグナーの名を出してきて「これはなかなかの威信ではないかね」と誇らしげに語るシャルリュスの弁舌は矛盾を通り越して滑稽でしかない。だからここでシャルリュスの身体には<暴露・揶揄・侮辱・暴言・嘲弄>といった余りにも人間的過ぎる(=非人間的過ぎる)特徴の他に<滑稽>という属性が付け加えられる。
また、ワーグナー崇拝が新興ブルジョア階級の間で急拡大した理由について、ニーチェはいう。三箇所引こう。
(1)「劇場においては人は、民衆、群畜、婦女子、パリサイ人、野次馬、保護者、白痴となりーーー《ヴァーグナー主義者》となる。すなわち、そこでは最も個人的な良心ですらもが大多数者という水準化の魔力に圧倒され、そこでは隣人が支配し、そこでは人は隣人と《なる》」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.357』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「近代音楽が、現今、きわめて強くではあるが不明瞭に、『無限旋律』と名づけているものにおいて追求している意図は、海にはいっていって、徐々に底を踏みしめる確かな足どりを失い、ついには運を天にまかせて水に身をゆだねるというふうにみれば、明らかにすることができる。すなわち、人は《泳が》ざるをえないのである。それ以前の音楽において人は、あるいは優美、あるいは荘重、あるいは激烈といった変化をみせ、速くなったり緩りとなったり、何かまったく別のことを、つまり《舞踏》しなければならなかった。そのために必要な節度、一定の均衡のとれた時間と力の度合いの保持は、聴き手の魂からたえざる《思慮深さ》を強要した、ーーーこの思慮深さから吹きこむこうした冷たい気流と、感激の十分温められた息吹きとの対抗に、すべての《優れた》音楽の魔力はもとづいていた。ーーーリヒアルト・ヴァーグナーは別の種類の運動を欲した、ーーー彼はこれまでの音楽の生理学的前提をくつがえした。泳ぐこと、漂うことであってーーーもはや歩行すること、舞踏することではないーーーおそらくこれで決定的なことが言われてしまっている。『無限旋律』は、まさにすべての時間と力の均斉を破ろうと《欲し》、ときとしてこの均斉そのものを嘲笑する、ーーーそれは、以前の耳にはリズム上の逆説や冒瀆とひびくものにおいてこそ、その豊かな発明の才をもっている。そうした趣味の模倣から、支配からは、それ以上大きな危険は全然考えられないような音楽にとっての危険が生ずることであろうーーーリズミカルな感情の完全な変質、リズムに代わる《混沌》がーーーそうした音楽が、《効果》を欲してそれ以上何ものをも欲しないところの、まったく自然主義的な、彫塑のいかなる法則によっても支配されない俳優的演技や身振り芸術にますます緊密に寄りかかるとき、この危険は絶頂に達するーーーあらゆる犠牲をはらっての表情の豊かさ espressivo とポーズに奉仕し隷属する音楽ーーー《これではお終いである》」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.358~359』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「あらゆる芸術、あらゆる哲学は、成長ないしは下降する生の治療薬また補助薬とみなされてよい、それらはつねに苦悩や苦悩する者を前提するからである。しかし苦悩する者にも二種類ある。一つは生の《充溢》で苦悩する者であり、これは、ディオニュソス的芸術を欲すると同じく生への悲劇的洞察および展望を欲する、ーーー次は生の《貧困化》で苦悩する者であり、これは、安息、静寂、滑らかな海を、《さもなければ》芸術や哲学による陶酔を、痙攣を、麻痺を求める。生そのものに対する復讐ーーーそうした貧困化した者にとっての最も淫蕩な種類の陶酔!ーーーこの後者の二重の欲求にヴァーグナーもショーペンハウアーも対応している」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.363』ちくま学芸文庫 一九九四年)
いずれも共通点が見られる。ワーグナー音楽は上流階級から一般民衆にかけて、すべての諸国民にとっての「阿片である」という指摘。「ローエングリン序曲」や「パルジファル序曲」で顕著に聴かれるような陶酔感を呼び込む演出がそうだ。聴き手を麻痺させて煙に巻く<麻薬的かつ宗教的>効果を目指すワーグナー音楽に対して、ニーチェは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンを対置する。さらにいかにも芝居がかった大袈裟な演出についてニーチェはワーグナーのことを「俳優」と呼ぶ。プルースト自身、同時代の音楽家としてはワーグナーも聴くがドビュッシーを愛し、とりわけベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲「十二番、十三番、十四番、十五番」を絶賛した。作家としての自覚からか、ただ単純なばかりの熱狂の渦には決して巻き込まれたりしないタイプだったようだ。その点でもまた、或る種の音階を耳にするや「トリスタンだ!」と感じて無邪気に驚く<私>と作者プルーストとの混合は慎重に避けなければならない。
なお、先日の参議院選挙後すぐに手をつけるべき経済政策について。改憲論議を進めたければ進めればいい。それはそれとして、最も緊急の課題として日本経済をどうするのか、どうすれば少しでも改善の余地が生まれるのかについて、余りにも動きが鈍いというほかない。「経済学」の見地から見てベストな方法が見当たらないというのなら逆に「経済学批判」の見地から見てどこをどう動かせば良いかを速やかに探求すべきが妥当だろう。マルクスはいう。
「つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。こうして、二重の結果が生じた。貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.291~292」国民文庫 一九七二年)
こうある。「資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかない」。にもかかわらず資本は発生するのである。このフレーズはマルクス以前、カント「純粋理性批判」で展開されたアンチノミー(二律背反)というパラドックスをマルクスの言葉で置き換えたものだ。政権与党の国会議員にはさっぱりわからなくても実際の政策立案にあたる上級官僚や財界のブレーンとして動いている大学教授や専門家には周知の事実。そこで言わねばならないが、この種のアンチノミー(二律背反)を突破する方法について、これまでは順調に確保されてきたという点。それが上手く行かなくなった。顕著な例を上げればロシアとの外交失敗である。
日本のようにエネルギー資源を諸外国に依存している国家にとって、貿易相手がどんな立場に移りかわろうとも、その都度置き換え可能な外交ルートを確保しておくことは政治の基本である。ところが日本政府は肝心の基本を忘れ去っていた。幾つかの島国が寄り集まっているだけの心細い列島国家でしかない立場であるにもかかわらずなぜそのような横着ができたのか。今後徹底的に検証されなければならないだろう。また国内の経済活性化についてはほとんど絶望的である。たった今述べたアンチノミー(二律背反)を乗り越える順調な方法を失ってしまっているからだ。資本循環は百万円が百万円のまま還ってきても環流したことにはならない。百万円の投資が還流するためには例えば百一万円になって環ってきて始めて資本として機能したと言えるわけであって、そうでなければ環流したとは決して言えない。次の引用。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫 一九七二年)
今や相互依存関係は名実ともに世界的規模になった。インターネットの普及がそれを可能にした。かつて西側だけとか東側だけとかいった形で局所的に行われていた取引は冷戦終結と同時に廃止され改めて世界的に全面化され、そこで始めてマルクスの言っていた資本主義の世界化も可能になった。そこで資本が増大するとすればどこでか、という問いが改めて提出される。「いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こす」。マルクスはとっくの昔に答えを与えていた。<或る価値体系>と<別の価値体系>とが接触=交換され合うことで、そこで始めて「差額」が生まれる。その「差額」が金融資本の手元へ還流してきて始めて「利子」になり、ただ単に投資されただけの「資本」が実質的「資本」として環流したと考えることができるのである。
ところが日本の場合、外交はアメリカの徹底的な監視下でマークされているため、アメリカの許す範囲内でしか貿易できないという極めて不自由な立場にある。かつて田中角栄が原油確保のためアメリカ資本を経由せずインドネシアと協働しようとしていたところ、いきなりアメリカが割り込んできてロッキード事件で逮捕され政界から追放されたことがあった。そうした事情を考慮すると今の日本政府には貿易相手国が限られ過ぎており、ぼうっとしている間に資本の自由な流動性を確保できなくなってしまっている。すると賃金格差の拡大は言うまでもなく、日本国債(借金)自体がさらなる円安を呼び込むばかりである。延命策としてはこれまで<決済引き延ばし>があった。それはこういうことだ。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)
今やこのような延命策すら持ち出しようがない。そしてまた改憲論議=軍備拡張路線にしても「日米同盟」の枠組みの中でしか行われない。日米同盟を脅かすほど大きな軍備などアメリカが許すと誰一人思っていないし実際許されないだろう。日本はアメリカのいう通り、これまで通り、アメリカの「使い走り」としてしか取り扱われることがない。決してない。改憲して軍事力を付けたら付けたでウクライナのためという名目でロシアと戦争しなくてはならない。もしロシアと戦争すれば、当り前だが、ロシアとその同盟諸国からの補給路は完全に断たれる。それでもアメリカはそう命じるだろう。となれば日本は極めて限られた後方支援しか期待できない。太平洋戦争末期の時のように日本国内だけで自給自足的支援物資確保に奔走するしかない。最後は竹槍でも持たせるつもりなのだろうか。その前に丸の内を中心として首都・東京が火の海にされてしまうだろう。世界的レベルの政治・軍事とはそもそもそういうものだからだ。
というように外交に失敗した日本はかつての戦前戦中より遥かに深甚な状況に直面し、直面した以上、耐え抜かなければならなくなる。できるだろうか。さらに時間を稼ぎたいのはアメリカなのであってアメリカのためなら「日米地位協定」に従って日本はアメリカ政府の要求に応じるほかない。沖縄の米軍基地はその名のとおり隅から隅まで米軍基地であり、これまで一度も日本の手に渡ったことがなく今後も日本国に帰することがないのと同様である。それにしても日本の政治家はなぜこれほど低レベルな素人集団ばかりなのだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
「『私の知見がおよぶのはフォーブール・サン=ジェルマンに限られている。フォーブールでは、あなたも紹介者にめぐり会えさえしたら、クールヴォワジエ家やガランドン家の人たちにまじって、どう見てもバルザックから抜け出てきたような老獪(ろうかい)な人士に出会えて、きっと楽しめるだろう。もちろんこんなことはゲルマント大公妃の威光とはなんの関係もないことだが、ただし、私と私の<開けゴマ>がなければ、大公妃のお屋敷には近づくことはできん』。『ほんとうに大へん立派なものなんですか。ゲルマント大公妃の館というのは』。『いや、大へん立派なんてものじゃない。これ以上はないほど立派だ。といっても大公妃自身の立派さにはおよばんが』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.486」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスは<私>とゲルマント大公妃とを出合わせるための唯一の媒介項だというわけだ。<私>とゲルマント大公妃との間には厳然たる仕切りがある。シャルリュスはその仕切りを取り払って両者を出合わせることができる貨幣の機能を持つ。<私>はゲルマント大公妃とゲルマント公爵夫人との違いがよくわからない。その点を尋ねると「そりゃ、比較にもならん」という答えが返ってきた。とはいえシャルリュスがゲルマント大公妃とゲルマント公爵夫人との違いをことさら大袈裟に強調するのには理由がある。ゲルマント公爵夫人に接近したがっている<私>をできるだけ夫人から遠ざけておきたいからに過ぎない。シャルリュスはあくまで男性同性愛者として<私>を手にいれたがっており、もしかすれば手に入れる可能性も残されているというのに、どうしてわざわざゲルマント公爵夫人にあっさり出会いの場を提供する必要性があるのかというわけだ。シャルリュスにすればゲルマント公爵夫人は余計な恋敵でしかない。
「『ゲルマント大公妃は、ゲルマント公爵夫人よりも優れたかたなのでしょうか?』。『そりゃ、比較にもならん。(すこしでも想像力のある社交人士なら、話題にしている人物に共感をいだいているか仲違いしているかによって、相手がどんなに揺るぎない安定した地位にあろうとも祭りあげたり蹴落としたりする、という点には留意しておく必要がある。)ゲルマント公爵夫人は(男爵がオリヤーヌと言わず夫人をそう呼んだのは、夫人と私とのあいだにいっそうの距離を設けようとしたのであろう)、すばらしい人だ、あなたが想像するよりもずっと優れている』」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.486~487」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスはゲルマント大公妃の威光について滔々と並べ立てる。大公妃がどれほど偉大かと。その中に少しばかり違和感を覚える言葉が差し挟まれている。「ゲルマント大公妃のほうは、というより、その母親は、ワーグナー本人を知っていた。大公妃自身が絶世の美女であることは措いても、これはなかなかの威信ではないかね」。当時のワーグナー信者というのは大抵、シャルリュスが罵倒を浴びせかけてはばからない新興ブルジョア階級出身者で占められていた。上流社交界の中で大きな顔をし始めていた人々でありシャルリュスにとっては最も気にくわない連中である。ワーグナーを理解できるということが当時は上流社交界人士の証拠にもなっていたほど。そのワーグナーの名を出してきて「これはなかなかの威信ではないかね」と誇らしげに語るシャルリュスの弁舌は矛盾を通り越して滑稽でしかない。だからここでシャルリュスの身体には<暴露・揶揄・侮辱・暴言・嘲弄>といった余りにも人間的過ぎる(=非人間的過ぎる)特徴の他に<滑稽>という属性が付け加えられる。
また、ワーグナー崇拝が新興ブルジョア階級の間で急拡大した理由について、ニーチェはいう。三箇所引こう。
(1)「劇場においては人は、民衆、群畜、婦女子、パリサイ人、野次馬、保護者、白痴となりーーー《ヴァーグナー主義者》となる。すなわち、そこでは最も個人的な良心ですらもが大多数者という水準化の魔力に圧倒され、そこでは隣人が支配し、そこでは人は隣人と《なる》」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.357』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「近代音楽が、現今、きわめて強くではあるが不明瞭に、『無限旋律』と名づけているものにおいて追求している意図は、海にはいっていって、徐々に底を踏みしめる確かな足どりを失い、ついには運を天にまかせて水に身をゆだねるというふうにみれば、明らかにすることができる。すなわち、人は《泳が》ざるをえないのである。それ以前の音楽において人は、あるいは優美、あるいは荘重、あるいは激烈といった変化をみせ、速くなったり緩りとなったり、何かまったく別のことを、つまり《舞踏》しなければならなかった。そのために必要な節度、一定の均衡のとれた時間と力の度合いの保持は、聴き手の魂からたえざる《思慮深さ》を強要した、ーーーこの思慮深さから吹きこむこうした冷たい気流と、感激の十分温められた息吹きとの対抗に、すべての《優れた》音楽の魔力はもとづいていた。ーーーリヒアルト・ヴァーグナーは別の種類の運動を欲した、ーーー彼はこれまでの音楽の生理学的前提をくつがえした。泳ぐこと、漂うことであってーーーもはや歩行すること、舞踏することではないーーーおそらくこれで決定的なことが言われてしまっている。『無限旋律』は、まさにすべての時間と力の均斉を破ろうと《欲し》、ときとしてこの均斉そのものを嘲笑する、ーーーそれは、以前の耳にはリズム上の逆説や冒瀆とひびくものにおいてこそ、その豊かな発明の才をもっている。そうした趣味の模倣から、支配からは、それ以上大きな危険は全然考えられないような音楽にとっての危険が生ずることであろうーーーリズミカルな感情の完全な変質、リズムに代わる《混沌》がーーーそうした音楽が、《効果》を欲してそれ以上何ものをも欲しないところの、まったく自然主義的な、彫塑のいかなる法則によっても支配されない俳優的演技や身振り芸術にますます緊密に寄りかかるとき、この危険は絶頂に達するーーーあらゆる犠牲をはらっての表情の豊かさ espressivo とポーズに奉仕し隷属する音楽ーーー《これではお終いである》」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.358~359』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「あらゆる芸術、あらゆる哲学は、成長ないしは下降する生の治療薬また補助薬とみなされてよい、それらはつねに苦悩や苦悩する者を前提するからである。しかし苦悩する者にも二種類ある。一つは生の《充溢》で苦悩する者であり、これは、ディオニュソス的芸術を欲すると同じく生への悲劇的洞察および展望を欲する、ーーー次は生の《貧困化》で苦悩する者であり、これは、安息、静寂、滑らかな海を、《さもなければ》芸術や哲学による陶酔を、痙攣を、麻痺を求める。生そのものに対する復讐ーーーそうした貧困化した者にとっての最も淫蕩な種類の陶酔!ーーーこの後者の二重の欲求にヴァーグナーもショーペンハウアーも対応している」(ニーチェ「ニーチェ対ヴァーグナー」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.363』ちくま学芸文庫 一九九四年)
いずれも共通点が見られる。ワーグナー音楽は上流階級から一般民衆にかけて、すべての諸国民にとっての「阿片である」という指摘。「ローエングリン序曲」や「パルジファル序曲」で顕著に聴かれるような陶酔感を呼び込む演出がそうだ。聴き手を麻痺させて煙に巻く<麻薬的かつ宗教的>効果を目指すワーグナー音楽に対して、ニーチェは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンを対置する。さらにいかにも芝居がかった大袈裟な演出についてニーチェはワーグナーのことを「俳優」と呼ぶ。プルースト自身、同時代の音楽家としてはワーグナーも聴くがドビュッシーを愛し、とりわけベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲「十二番、十三番、十四番、十五番」を絶賛した。作家としての自覚からか、ただ単純なばかりの熱狂の渦には決して巻き込まれたりしないタイプだったようだ。その点でもまた、或る種の音階を耳にするや「トリスタンだ!」と感じて無邪気に驚く<私>と作者プルーストとの混合は慎重に避けなければならない。
なお、先日の参議院選挙後すぐに手をつけるべき経済政策について。改憲論議を進めたければ進めればいい。それはそれとして、最も緊急の課題として日本経済をどうするのか、どうすれば少しでも改善の余地が生まれるのかについて、余りにも動きが鈍いというほかない。「経済学」の見地から見てベストな方法が見当たらないというのなら逆に「経済学批判」の見地から見てどこをどう動かせば良いかを速やかに探求すべきが妥当だろう。マルクスはいう。
「つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。こうして、二重の結果が生じた。貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.291~292」国民文庫 一九七二年)
こうある。「資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかない」。にもかかわらず資本は発生するのである。このフレーズはマルクス以前、カント「純粋理性批判」で展開されたアンチノミー(二律背反)というパラドックスをマルクスの言葉で置き換えたものだ。政権与党の国会議員にはさっぱりわからなくても実際の政策立案にあたる上級官僚や財界のブレーンとして動いている大学教授や専門家には周知の事実。そこで言わねばならないが、この種のアンチノミー(二律背反)を突破する方法について、これまでは順調に確保されてきたという点。それが上手く行かなくなった。顕著な例を上げればロシアとの外交失敗である。
日本のようにエネルギー資源を諸外国に依存している国家にとって、貿易相手がどんな立場に移りかわろうとも、その都度置き換え可能な外交ルートを確保しておくことは政治の基本である。ところが日本政府は肝心の基本を忘れ去っていた。幾つかの島国が寄り集まっているだけの心細い列島国家でしかない立場であるにもかかわらずなぜそのような横着ができたのか。今後徹底的に検証されなければならないだろう。また国内の経済活性化についてはほとんど絶望的である。たった今述べたアンチノミー(二律背反)を乗り越える順調な方法を失ってしまっているからだ。資本循環は百万円が百万円のまま還ってきても環流したことにはならない。百万円の投資が還流するためには例えば百一万円になって環ってきて始めて資本として機能したと言えるわけであって、そうでなければ環流したとは決して言えない。次の引用。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫 一九七二年)
今や相互依存関係は名実ともに世界的規模になった。インターネットの普及がそれを可能にした。かつて西側だけとか東側だけとかいった形で局所的に行われていた取引は冷戦終結と同時に廃止され改めて世界的に全面化され、そこで始めてマルクスの言っていた資本主義の世界化も可能になった。そこで資本が増大するとすればどこでか、という問いが改めて提出される。「いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こす」。マルクスはとっくの昔に答えを与えていた。<或る価値体系>と<別の価値体系>とが接触=交換され合うことで、そこで始めて「差額」が生まれる。その「差額」が金融資本の手元へ還流してきて始めて「利子」になり、ただ単に投資されただけの「資本」が実質的「資本」として環流したと考えることができるのである。
ところが日本の場合、外交はアメリカの徹底的な監視下でマークされているため、アメリカの許す範囲内でしか貿易できないという極めて不自由な立場にある。かつて田中角栄が原油確保のためアメリカ資本を経由せずインドネシアと協働しようとしていたところ、いきなりアメリカが割り込んできてロッキード事件で逮捕され政界から追放されたことがあった。そうした事情を考慮すると今の日本政府には貿易相手国が限られ過ぎており、ぼうっとしている間に資本の自由な流動性を確保できなくなってしまっている。すると賃金格差の拡大は言うまでもなく、日本国債(借金)自体がさらなる円安を呼び込むばかりである。延命策としてはこれまで<決済引き延ばし>があった。それはこういうことだ。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)
今やこのような延命策すら持ち出しようがない。そしてまた改憲論議=軍備拡張路線にしても「日米同盟」の枠組みの中でしか行われない。日米同盟を脅かすほど大きな軍備などアメリカが許すと誰一人思っていないし実際許されないだろう。日本はアメリカのいう通り、これまで通り、アメリカの「使い走り」としてしか取り扱われることがない。決してない。改憲して軍事力を付けたら付けたでウクライナのためという名目でロシアと戦争しなくてはならない。もしロシアと戦争すれば、当り前だが、ロシアとその同盟諸国からの補給路は完全に断たれる。それでもアメリカはそう命じるだろう。となれば日本は極めて限られた後方支援しか期待できない。太平洋戦争末期の時のように日本国内だけで自給自足的支援物資確保に奔走するしかない。最後は竹槍でも持たせるつもりなのだろうか。その前に丸の内を中心として首都・東京が火の海にされてしまうだろう。世界的レベルの政治・軍事とはそもそもそういうものだからだ。
というように外交に失敗した日本はかつての戦前戦中より遥かに深甚な状況に直面し、直面した以上、耐え抜かなければならなくなる。できるだろうか。さらに時間を稼ぎたいのはアメリカなのであってアメリカのためなら「日米地位協定」に従って日本はアメリカ政府の要求に応じるほかない。沖縄の米軍基地はその名のとおり隅から隅まで米軍基地であり、これまで一度も日本の手に渡ったことがなく今後も日本国に帰することがないのと同様である。それにしても日本の政治家はなぜこれほど低レベルな素人集団ばかりなのだろう。
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