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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<プルースト><坂口安吾><マルクス>、それぞれの共通性

2022年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>はブイヨン公爵に会ったことがある。だがこのパーティーの日の午後に目にした時、それがブイヨン公爵だとは全然気づかなかった。ゲルマント侯爵の話を聞いていて始めて思い当たったのだった。忘れ去った人物ではまるでなく習慣・因襲に従って気を抜いている間、「てっきりコンブレーのプチ・ブルジョワかと思った」きり、打ち捨てておいてしまっただけのことで、「よく考えてみると、ヴィルパリジ夫人に瓜ふたつだったことに気づいた」。とともに、「ランブルサック公爵夫人の消え入りそうなお辞儀」《と》「祖母の女友だちのお辞儀が似ていることは、すでに私の関心を惹きはじめていた」。

「それは私がてっきりコンブレーのプチ・ブルジョワかと思った人であったが、よく考えてみると、ヴィルパリジ夫人に瓜ふたつだったことに気づいた。ランブルサック公爵夫人の消え入りそうなお辞儀と祖母の女友だちのお辞儀が似ていることは、すでに私の関心を惹きはじめていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192」岩波文庫 二〇一五年)

登場人物が「大貴族であれプチ・ブルジョワであれ」、身振り・作法といったものは、その人々が生きている時代に身に付けたものであり、目に見えていて耳に聞こえもする表層である。例えば「アルランクール子爵やロイザ・ピュジュの時代の教育がどのようなものであったか」を「考古学者のように発見させてくれる」のは考古学者がやるように表層(身振り・筆跡・作法・服装・模様など)の読解であって、何か意味不明な深層のようなものが隠されているわけではなく、逆に目の前にまともに露出している表層と向き合うことで判断する。

「大貴族であれプチ・ブルジョワであれ、閉ざされた狭い社会に暮らす人たちには古い作法がそのまま残存していることを私に教えてくれたからで、そんな作法は、アルランクール子爵やロイザ・ピュジュの時代の教育がどのようなものであったか、その教育に反映している精神がいかなるものであったかを、考古学者のように発見させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192」岩波文庫 二〇一五年)

その意味で作家としてのプルーストは文学の分野における考古学者の立場に身を置いているといえる。画家や音楽家が習慣・因襲とは<別の価値体系>に立つことで、それまで誰にも見えていず聴こえてもいなかったものを始めて世の中へ向けて可視化して示すように、プルーストは文学という方法に依拠し、「読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械」たることに努めた。

「作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.521~522」岩波文庫 二〇一八年)

しかしプルーストやカフカだけがそのような特権的方法を身に付けていたわけではない。日本の作家にもいた。坂口安吾はいう。

「国史以前に、コクリ、クダラ、シラギ等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるように至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ、クダラ、シラギ等の母国と結んだり、または母国の政争の影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう」(坂口安吾「道鏡童子」『坂口安吾全集17・P.385』ちくま文庫 一九九〇年)

今でこそ当り前の通説になっているけれども、当時、そのような状況が見えていたのはまったく異色というほかない。「日本の中の朝鮮文化」を書いた金達寿はこう述べている。

「私に『古代史家としての坂口安吾』という一文がありますが、私はどの歴史学者、あるいは歴史家よりも、この坂口安吾から多くのものを学びました」(金達寿「日本古代史と朝鮮・P.298」講談社学術文庫 一九八五年)

坂口安吾が参照したのは日本書紀・古事記が中心であって、そのほかはほとんど資料がない。しかも書籍ばかりなのでそこに載っている活字という表層と徹底的に向き合うことからしか出発できないし、そうでなければ「道鏡童子」の一節にあるようなまったく新しい歴史の暗部を可視化することなど到底できない。ではなぜ坂口安吾にはそれができたのか。周囲の社会的習慣・因襲とはまた<別の価値体系>に身を置くことで始めてそれが可能になったと言わねばならない。

プルーストは続ける。社会階層がまるで異なる人々同士であるにもかかわらず、なぜ身振りが一致してくるのか。「以前にも私は、ある銀板写真を見て、サン=ルーの母方の祖父であるラ・ロシュフーコー公爵が、衣装といい、風貌といい、物腰といい、私の祖父と瓜ふたつであることに驚いた」。

「この類似にも増して、ブイヨン公爵と同年配のコンブレーのプチ・ブルジョワとの外見の完全な一致がいまや一層はっきりと私に想い出させてくれたのは(以前にも私は、ある銀板写真を見て、サン=ルーの母方の祖父であるラ・ロシュフーコー公爵が、衣装といい、風貌といい、物腰といい、私の祖父と瓜ふたつであることに驚いたものだ)、社会階層の相違など、いや、個人の相違さえ、遠く離れて見れば、ある時代の均一性のなかに埋没してしまうことである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192~193」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストのいう「ある時代の均一性」はニーチェのいう「言語・貨幣」を介した交換社会が出現すると同時に発生する。具体的には資本主義がヨーロッパ全域を加速的に飲み込み始めた頃にあたる。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)

さらに「個人」という言葉には注意を要する。類としての人類ならそれこそノアの方舟以前から存在した。一人一人誰もが違っているという点でいえば、日本の場合、江戸時代の町人が一人一人違っているのと何ら変わらない。ところが近代になってやおら出現した「個人」というのは、個人主義とか個性とかいうのと同時代の発明であって、「人間」という概念が出来てから事後的に発生した「まったく最近の被造物にすぎない」。フーコーはいう。

「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・第九章・P.328」新潮社 一九七四年)

すると次のような事態が起こってくる。「ルイ=フィリップの時代の大貴族が、ルイ十五世の時代の大貴族よりもむしろルイ=フィリップの時代のブルジョワに似ていることに気づく」。時間的には百年ほどの間が空いているのだが。

「じつをいえば衣装の類似や風貌などに反映する時代精神は、ひとりの人間のなかでその階級よりもずっと重要な地位を占めている。階級が重要な地位を占めるのは当人の自尊心と他人の想像力のなかにすぎず、ルイ=フィリップの時代の大貴族が、ルイ十五世の時代の大貴族よりもむしろルイ=フィリップの時代のブルジョワに似ていることに気づくには、ルーヴル美術館の部屋をあれこれ見てまわる必要などないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.193」岩波文庫 二〇一五年)

このような事態はプルーストやその読者の錯覚ではない。記憶が錯誤を起こしているわけでもない。ただ、<時間の作用>というのは、<別の価値体系>に身を置いた画家や音楽家や文学者たちの<発見>において始めて明らかにされるという事情を物語るものだ。

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

或る時代と次にやって来た時代とは直接繋がっているわけではない。両者のあいだで「地殻の大変動」が起こっており、そこには思想的な断層が刻み込まれている。そこで「考古学」という喩えも出てくる。作品「失われた時を求めて」の終盤でプルーストはこう述べている。

「実際、すぎ去った時の長さを計るうえで、困難が伴うのは最初だけである。最初はそれほど膨大な時がすぎ去ったことを想い描くのにずいぶん苦労するが、つぎにはそれほど時がすぎ去ったわけではないことを想い描くのに相当の困難を覚える。最初は十三世紀がそれほど遠い昔だとはとうてい考えられなかったのに、つぎには十三世紀の教会がなおも残存しうること、現にフランスにそれが数えきれないほど存在することが容易に信じられなくなる」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.53~54」岩波文庫 二〇一九年)

ほかの作家には思いも寄らなかった事情がプルーストに見えたのは<別の価値体系>から見る方法を知っていたからだ。

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)

異なる立場に身を置いてみて始めて見えてくるもの。なおかつそのための作業は「あとから始まるのであり」、「事後的」にしか知ることができない。マルクスはこういった。

「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価値の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140~141」国民文庫 一九七二年)

人間社会は自分たちが生み出した<言語・貨幣>によっていつも両義的(可能かつ不可能・良質かつ悪質)な二重性を利用しているし、だからといって利用しないわけにもいかない。

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