通例、人間は、多少の個人差はあるものの思春期を通過するうち、人間関係に対して一定の免疫を獲得する。<私>は偏屈な社交界の中で、それなりにせよ或る程度の免疫を持つことができた。知人友人たちが不意に露呈してしまう不注意な身振り・発言について、それが<私>にとって「毒」に相当する場合でもなお、そう簡単にショックで失神してしまうようなことはもはやない。ところがトルコ大使夫人の話に耳を傾けていた時のこと。「トルコ大使夫人が、自分の知り合いでもない人のことを『ババル』とか『メメ』とか呼んだせいで、ふだんなら夫人を我慢できる存在たらしめている『免疫』作用がいきなり途切れてしまったのだ」。ババルはブレオーテの愛称、メメは何度も出てきたようにシャルリュスの愛称。
「それにゲルマント侯爵夫人の価値についてトルコ大使夫人が私よりも確かな評価をくだせるという根拠はなにもない。おまけに、これも大使夫人にたいする私のいらだちの説明になるが、単なる知人の欠点、いや友人の欠点でさえ、われわれには正真正銘の毒となるけれど、幸いなことにわれわれはその毒に『免疫』を備えている。私はいかなるものであれ科学的な比較の体系をここで提示する気はないし、アナフィラキシーを持ちだすつもりもないが、われわれの単なる社交上のつき合いにも友人との関係にも一種の敵意が潜んでいるもので、それは一時的に沈静化していても発作的にぶり返す。相手が『自然な』態度でいるかぎり、ふだんこの毒にあてられることはめったにない。トルコ大使夫人が、自分の知り合いでもない人のことを『ババル』とか『メメ』とか呼んだせいで、ふだんなら夫人を我慢できる存在たらしめている『免疫』作用がいきなり途切れてしまったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.144~145」岩波文庫 二〇一五年)
人間関係における「免疫」というのは精神的重装備とでもいうようなもので、ステレオタイプ(紋切型)でいう「面の皮が厚い」とか「もう慣れた」とかいった精神的鈍化状態を指す。しかしプルーストは精神的な慣れにもかかわらず、さらに思春期を通過したにもかかわらず、幼少期からずっと繊細な感受性を保持しており、この種の免疫作用がしばしば「途切れ」る事態に見舞われることがあった。繊細さが保存されている点について「それは一時的に沈静化していても発作的にぶり返す」という記述を見ればよくわかる。ただ、ここで重要なのは、精神的にかなり強靭な免疫を持つに至った人間でも場合によってはそれが「途切れる」という間歇性についてである。逆にいえば、メンタルの強さは常に保たれているわけではまるでなく、しばしば(間歇的に)途切れていることで保持されるという事情。睡眠時間の確保などは典型的であって、何度も繰り返されるタイプの不眠に陥るとどんなスポーツ選手でも客室乗務員でも免疫機能はたちまち不安定になるため、或る種の医学的治療に頼るほかなくなる。
もっとも、トルコ大使夫人の言葉遣いに感じた「いらだち」が不当なものだと<私>は気づく。納得するに値する説明が与えられれば今度は「いらだち」の側が逆に「途切れ」、身につけた免疫は再び接続し直されるということを意味する。
「私は夫人にいらだちをおぼえたが、それは不当なことであった。夫人がそんな言いかたをしたのは、『メメ』と親しい間柄であると信じこませようとしたわけではなく、にわか仕込みの知識でこうした貴族たちをそう呼ぶのがお国のしきたりだと信じた結果にすぎないからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.145」岩波文庫 二〇一五年)
それでもなお「よくよく考えてみた私は、大使夫人のそばにいると不愉快になるのには、もうひとつべつの理由があることに気づいた」。ゲルマント大公妃に対するトルコ大使夫人の評価が二転三転するからである。<私>は呆れる。なので「こうした意見の急変などには拘泥しないほうがいいと考えた」。というのも、「今夜のパーティーに招待されたことが、夫人のこの豹変をもたらしたからである」。それくらいこのトルコ大使夫人は権威に弱い。大使夫人ともなれば多種多様な社交の場に招待される。だが問題はどんな社交の場なのかというパーティーの<質>であって、この場合はゲルマント大公主催の社交場ゆえに舞い上がってしまう。
「しかしよくよく考えてみた私は、大使夫人のそばにいると不愉快になるのには、もうひとつべつの理由があることに気づいた。それほど以前のことではないが『オリヤーヌ』のところで、この同じ外交官夫人が、然るべき根拠のありそうなまじめな顔で、ゲルマント大公妃はまったく虫が好かないと私に言ったことがあったからだ。しかし私は、こうした意見の急変などには拘泥しないほうがいいと考えた。今夜のパーティーに招待されたことが、夫人のこの豹変をもたらしたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.145~146」岩波文庫 二〇一五年)
しかも大使夫人はまだ上流社交界に慣れていないタイプらしく、上流社交界と聞けばどこでも呼ばれるがままそそくさと出かけて来るのでゲルマント公爵夫人から見れば「よくしてくれる」人だと言われていた。晩餐会や夜会を催す際、ただ単なる「見栄」のためだけであってもそれにふさわしい最低限の人数が必要になる。そんな時に声をかければ「瀕死の状態でも連れて行ってもらおうとする便利な人」だとプルーストは書く。だが人間は立場の変化次第でなぜこうもころころ変化することができるのか。プルーストが明らかにしているのはステレオタイプ(紋切型)で言われがちな「人の心はわからない」とか「世はままならぬもの」とか「もののあわれ」とか「無常感」とかではない。むしろニーチェが次のように言う人格の多数性についてである。三箇所。
(1)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)
その認識の上で次の文章は読まれるべきだろう。
「大使夫人が私にゲルマント大公妃は卓越した女性だと言ったとき、その気持はまったくうそ偽りのないものだった。夫人はつねづねそう考えていたのだ。ところがこれまで大公妃邸に招待されたことがなかったので、こうした招待漏れにたいしては原則として意思表示の意図的棄権という形で応えるべきだと思ったのであろう。今やこうして招待され、今後もきっと招待される見込みになって、はじめて夫人の共感は自由に表明されたのである。われわれが他人についていだく大多数の意見の要因を説明するには、なにも恋の恨みとか、政権からの締め出しとかを持ちだす必要はさらさらない。人の評価など、畢竟(ひっきょう)あやふやなもので、その人から招待されたかされなかったかで決まるようなところがある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストが書いているのは「われわれが他人についていだく大多数の意見の要因を説明するには、なにも恋の恨みとか、政権からの締め出しとかを持ちだす必要はさらさらない」ということであり、「その人から招待されたかされなかったかで決まるようなところがある」くらい、一人の人間の中にどれほど多数の人格が混在しているか、とてもわかったものではない、という根本的かつただならぬ事情についてなのだ。
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「それにゲルマント侯爵夫人の価値についてトルコ大使夫人が私よりも確かな評価をくだせるという根拠はなにもない。おまけに、これも大使夫人にたいする私のいらだちの説明になるが、単なる知人の欠点、いや友人の欠点でさえ、われわれには正真正銘の毒となるけれど、幸いなことにわれわれはその毒に『免疫』を備えている。私はいかなるものであれ科学的な比較の体系をここで提示する気はないし、アナフィラキシーを持ちだすつもりもないが、われわれの単なる社交上のつき合いにも友人との関係にも一種の敵意が潜んでいるもので、それは一時的に沈静化していても発作的にぶり返す。相手が『自然な』態度でいるかぎり、ふだんこの毒にあてられることはめったにない。トルコ大使夫人が、自分の知り合いでもない人のことを『ババル』とか『メメ』とか呼んだせいで、ふだんなら夫人を我慢できる存在たらしめている『免疫』作用がいきなり途切れてしまったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.144~145」岩波文庫 二〇一五年)
人間関係における「免疫」というのは精神的重装備とでもいうようなもので、ステレオタイプ(紋切型)でいう「面の皮が厚い」とか「もう慣れた」とかいった精神的鈍化状態を指す。しかしプルーストは精神的な慣れにもかかわらず、さらに思春期を通過したにもかかわらず、幼少期からずっと繊細な感受性を保持しており、この種の免疫作用がしばしば「途切れ」る事態に見舞われることがあった。繊細さが保存されている点について「それは一時的に沈静化していても発作的にぶり返す」という記述を見ればよくわかる。ただ、ここで重要なのは、精神的にかなり強靭な免疫を持つに至った人間でも場合によってはそれが「途切れる」という間歇性についてである。逆にいえば、メンタルの強さは常に保たれているわけではまるでなく、しばしば(間歇的に)途切れていることで保持されるという事情。睡眠時間の確保などは典型的であって、何度も繰り返されるタイプの不眠に陥るとどんなスポーツ選手でも客室乗務員でも免疫機能はたちまち不安定になるため、或る種の医学的治療に頼るほかなくなる。
もっとも、トルコ大使夫人の言葉遣いに感じた「いらだち」が不当なものだと<私>は気づく。納得するに値する説明が与えられれば今度は「いらだち」の側が逆に「途切れ」、身につけた免疫は再び接続し直されるということを意味する。
「私は夫人にいらだちをおぼえたが、それは不当なことであった。夫人がそんな言いかたをしたのは、『メメ』と親しい間柄であると信じこませようとしたわけではなく、にわか仕込みの知識でこうした貴族たちをそう呼ぶのがお国のしきたりだと信じた結果にすぎないからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.145」岩波文庫 二〇一五年)
それでもなお「よくよく考えてみた私は、大使夫人のそばにいると不愉快になるのには、もうひとつべつの理由があることに気づいた」。ゲルマント大公妃に対するトルコ大使夫人の評価が二転三転するからである。<私>は呆れる。なので「こうした意見の急変などには拘泥しないほうがいいと考えた」。というのも、「今夜のパーティーに招待されたことが、夫人のこの豹変をもたらしたからである」。それくらいこのトルコ大使夫人は権威に弱い。大使夫人ともなれば多種多様な社交の場に招待される。だが問題はどんな社交の場なのかというパーティーの<質>であって、この場合はゲルマント大公主催の社交場ゆえに舞い上がってしまう。
「しかしよくよく考えてみた私は、大使夫人のそばにいると不愉快になるのには、もうひとつべつの理由があることに気づいた。それほど以前のことではないが『オリヤーヌ』のところで、この同じ外交官夫人が、然るべき根拠のありそうなまじめな顔で、ゲルマント大公妃はまったく虫が好かないと私に言ったことがあったからだ。しかし私は、こうした意見の急変などには拘泥しないほうがいいと考えた。今夜のパーティーに招待されたことが、夫人のこの豹変をもたらしたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.145~146」岩波文庫 二〇一五年)
しかも大使夫人はまだ上流社交界に慣れていないタイプらしく、上流社交界と聞けばどこでも呼ばれるがままそそくさと出かけて来るのでゲルマント公爵夫人から見れば「よくしてくれる」人だと言われていた。晩餐会や夜会を催す際、ただ単なる「見栄」のためだけであってもそれにふさわしい最低限の人数が必要になる。そんな時に声をかければ「瀕死の状態でも連れて行ってもらおうとする便利な人」だとプルーストは書く。だが人間は立場の変化次第でなぜこうもころころ変化することができるのか。プルーストが明らかにしているのはステレオタイプ(紋切型)で言われがちな「人の心はわからない」とか「世はままならぬもの」とか「もののあわれ」とか「無常感」とかではない。むしろニーチェが次のように言う人格の多数性についてである。三箇所。
(1)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)
その認識の上で次の文章は読まれるべきだろう。
「大使夫人が私にゲルマント大公妃は卓越した女性だと言ったとき、その気持はまったくうそ偽りのないものだった。夫人はつねづねそう考えていたのだ。ところがこれまで大公妃邸に招待されたことがなかったので、こうした招待漏れにたいしては原則として意思表示の意図的棄権という形で応えるべきだと思ったのであろう。今やこうして招待され、今後もきっと招待される見込みになって、はじめて夫人の共感は自由に表明されたのである。われわれが他人についていだく大多数の意見の要因を説明するには、なにも恋の恨みとか、政権からの締め出しとかを持ちだす必要はさらさらない。人の評価など、畢竟(ひっきょう)あやふやなもので、その人から招待されたかされなかったかで決まるようなところがある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストが書いているのは「われわれが他人についていだく大多数の意見の要因を説明するには、なにも恋の恨みとか、政権からの締め出しとかを持ちだす必要はさらさらない」ということであり、「その人から招待されたかされなかったかで決まるようなところがある」くらい、一人の人間の中にどれほど多数の人格が混在しているか、とてもわかったものではない、という根本的かつただならぬ事情についてなのだ。
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