振り返ってみよう。シャルリュスが始めて<私>の前に出現した時のことを。身体の一部としてだった。<まなざし>としてである。ジルベルトに淡い恋心を抱きながらその姿を追っていた時、不意に何やらただならぬ<まなざし>が私に注ぎ込まれているのを感じたからだった。その<まなざし>はただ単なる暑苦しさを越えた独特の質感を備えていた。
「見知らぬ人の前でそんなまなざしをするのは、なんらかの理由でその見知らぬ人に触発されて他の人なら想いも寄らぬ考えをいだく男ーーーたとえば狂人やスパイーーーだけである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.246」岩波文庫 二〇一二年)
さらにこうある。
「まるで怯えた動物の目か、大道商人の目で、ことば巧みに口上を述べ怪しげな商品を見せながら顔は動かさずに警官のやって来そうなあちこちを用心ぶかく覗っている目である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.262」岩波文庫 二〇一二年)
注意深く読まねばならないのは「狂人やスパイ」という文章がすでに<警察と警察に監視される人々>という対立構造を含んでいる点。その上で「怯えた動物の目」、「大道商人の目」、「ことば巧みに口上を述べ怪しげな商品を見せながら顔は動かさずに警官のやって来そうなあちこちを用心ぶかく覗っている目」、と続いていて、もう少し後で「謎めいた目」と書かれている。その意味でシャルリュスは<無数のまなざし>なのだ。
そしてしかし、これら<無数のまなざし>にもかかわらずそのすべてを見ていて淡々と記録するもう一つ次元の高い<まなざし>がある。何げなく振る舞っているので安易にそうとわからないように書かれているが、それこそ紛れもない<私>である。<私>の位置からはシャルリュスの<無数のまなざし>を捉えることができ、実際に捉えて読者に報告する。とすれば<私>とは一体なんなのか。
プルーストかと思えば消してそうではない。プルーストはあくまで作者である。さらにプルーストの創作信条は「作品に語らせる」というもの。バルトはいう。
「われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、『作者=神』の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.85~86』みすず書房 一九七九年)
作品自体が作者と読者とを切り離している。だからバルトのいうことはもっともなのだが、ただそれだけでは作品のテクスト性を完全に解き放ってやることはできない。「作者の死」を宣告された作品は今度は<作品というもの>に向けて読者を集中させ作品の中央集権化を自動的に行なってしまうからだ。その傾向を不断に避けつつ読む(テクストする)にはどうすればよいか。さらにバルトはいう。
「愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮ぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに《捉えられて》いる訳ではない。それは、移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような」(バルト「テクストの快楽・P.46」みすず書房 一九七七年)
この事情は<或る価値体系>と<別の価値体系>との衝撃的出会いの場を切り開くということを意味している。例えば画家エルスチールの絵画の場合、いつも見ているバルベックの断崖なのに実は見えていなかったまったく新しいバルベックの断崖として出現する。またヴァントゥイユのピアノ・ソナタはスワンとオデットの関係に相当し、七重奏曲は<私>にとって「未知の女」としてのアルベルチーヌに相当するということに気づかせる効果を持つ。ステレオタイプ(紋切型)で充満した習慣の世界にどっぷり浸かりきっている限り決して見えないし聞こえもしないものを見えるものに変換し聞こえるものに変換するのが本当に独創的な芸術家の仕事なのだ。<私>は最後までその長い過程を追いかけていきながら度々共鳴・共振する謎めいた存在、読者の目には見えない文学機械の提供者である。
なお、残念ながら、昨日のニュース報道には大変落胆させられた。ますます増大する物価高について。首相は各閣僚に命じたらしい。緊張感をもって世界的な物価高を注視するようにと。わかりきったことを繰り返し口にしたというだけである。また一部のマスコミ番組を見ると経済専門家の話として、円安だけでなくユーロ安でもあるので「ドル一強」というべきだという。それこそもっとわかりきった話であるばかりか普段から円を用いて生活しているすべての国民の問いに対する単なる「ごまかし」でしかない。全然答えになっていないし特に日本経済を根底から支えている膨大な数の中小企業関係者・全国の日雇労働者・非正規雇用の人々たちにとって、もはや「殺人的ごまかし」以外の何ものでもない。そんな御用経済学者の無責任極まりない発言を平気で紹介する御用マスコミ番組の乱立。日本の将来を諦める若年者層の急拡大もうなずけてしまう。
そんなわけでなぜ円安なのか。前提としてマルクスはいう。金銀でなくてもそれが紙幣で通用するのはなぜか。
「紙幣は金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表わされているのと同じ金量で商品価値が観念的に表わされているということにあるだけである。ただ、すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。ーーー最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる章標によって代理されることができるのか?ということである。しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行なわれるのではない。金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。しかし、一つ一つの金鋳貨にあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にあてはまるのである。この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。だから、その運動は、ただ商品変態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。しかし、貨幣の章標はそれ自身の客観的に社会的な有効性を必要とするのであって、これを紙製の象徴は強制通用力によって与えられるのである。ただ、一つの共同体の境界によって画された、または国内の、流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.226~228」国民文庫 一九七二年)
とはいえ、紙幣が貨幣として金融取引可能なのはあくまで条件付きの範囲内においてである。円の場合、円が「信用」として流通している間に限られる。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
ではその「信用」はどのような条件のもとにある限りで常に「信用」として、なおかつ紙幣(日本銀行券)で代理できているのか。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
長引く円安は貨幣が貨幣として認められ取り扱われる最低条件にとって最も重要な流通性の鈍麻を加速させる。その動きを「注視する」だけなら特に閣僚でなくても他の誰にでもできる。諸外国との盛んな取引なしに自由な流動性を保存・維持することは勿論できない。日本のようにエネルギー資源に極めて乏しい島国国家の場合、外交は決して一方に偏ってはいけないというのが経済政策の「いろは」である。一方に偏れば他方が必要になった場合に援助が困難になるのは常識以前。長く続いた東西冷戦時代に嫌というほど学んだはずでもある。なのにそんな幼稚なレベルの対処法も暗中模索のままでまともな政策立案一つできないことを実証した先日の選挙とは一体なんだったのか。税金の無駄使いはそんなにも楽しいことだろうか?
さらに軍事については議論したいだけすればいい。しかし。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
という事態は何を意味しているか。後からどれほど全力を上げてみたとしてもすでに高度成長期を通過し終えた日本にとって「追いつき追い越す」チャンスは二度とない。要するに世界に対する日本とは何であって何でないか、国際世論の中の日本ではなくもはや国際世論に対立する日本へ加速した、という認識の上に立って思考し直さないといけないということに違いないのである。
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「見知らぬ人の前でそんなまなざしをするのは、なんらかの理由でその見知らぬ人に触発されて他の人なら想いも寄らぬ考えをいだく男ーーーたとえば狂人やスパイーーーだけである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.246」岩波文庫 二〇一二年)
さらにこうある。
「まるで怯えた動物の目か、大道商人の目で、ことば巧みに口上を述べ怪しげな商品を見せながら顔は動かさずに警官のやって来そうなあちこちを用心ぶかく覗っている目である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.262」岩波文庫 二〇一二年)
注意深く読まねばならないのは「狂人やスパイ」という文章がすでに<警察と警察に監視される人々>という対立構造を含んでいる点。その上で「怯えた動物の目」、「大道商人の目」、「ことば巧みに口上を述べ怪しげな商品を見せながら顔は動かさずに警官のやって来そうなあちこちを用心ぶかく覗っている目」、と続いていて、もう少し後で「謎めいた目」と書かれている。その意味でシャルリュスは<無数のまなざし>なのだ。
そしてしかし、これら<無数のまなざし>にもかかわらずそのすべてを見ていて淡々と記録するもう一つ次元の高い<まなざし>がある。何げなく振る舞っているので安易にそうとわからないように書かれているが、それこそ紛れもない<私>である。<私>の位置からはシャルリュスの<無数のまなざし>を捉えることができ、実際に捉えて読者に報告する。とすれば<私>とは一体なんなのか。
プルーストかと思えば消してそうではない。プルーストはあくまで作者である。さらにプルーストの創作信条は「作品に語らせる」というもの。バルトはいう。
「われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、『作者=神』の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.85~86』みすず書房 一九七九年)
作品自体が作者と読者とを切り離している。だからバルトのいうことはもっともなのだが、ただそれだけでは作品のテクスト性を完全に解き放ってやることはできない。「作者の死」を宣告された作品は今度は<作品というもの>に向けて読者を集中させ作品の中央集権化を自動的に行なってしまうからだ。その傾向を不断に避けつつ読む(テクストする)にはどうすればよいか。さらにバルトはいう。
「愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮ぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに《捉えられて》いる訳ではない。それは、移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような」(バルト「テクストの快楽・P.46」みすず書房 一九七七年)
この事情は<或る価値体系>と<別の価値体系>との衝撃的出会いの場を切り開くということを意味している。例えば画家エルスチールの絵画の場合、いつも見ているバルベックの断崖なのに実は見えていなかったまったく新しいバルベックの断崖として出現する。またヴァントゥイユのピアノ・ソナタはスワンとオデットの関係に相当し、七重奏曲は<私>にとって「未知の女」としてのアルベルチーヌに相当するということに気づかせる効果を持つ。ステレオタイプ(紋切型)で充満した習慣の世界にどっぷり浸かりきっている限り決して見えないし聞こえもしないものを見えるものに変換し聞こえるものに変換するのが本当に独創的な芸術家の仕事なのだ。<私>は最後までその長い過程を追いかけていきながら度々共鳴・共振する謎めいた存在、読者の目には見えない文学機械の提供者である。
なお、残念ながら、昨日のニュース報道には大変落胆させられた。ますます増大する物価高について。首相は各閣僚に命じたらしい。緊張感をもって世界的な物価高を注視するようにと。わかりきったことを繰り返し口にしたというだけである。また一部のマスコミ番組を見ると経済専門家の話として、円安だけでなくユーロ安でもあるので「ドル一強」というべきだという。それこそもっとわかりきった話であるばかりか普段から円を用いて生活しているすべての国民の問いに対する単なる「ごまかし」でしかない。全然答えになっていないし特に日本経済を根底から支えている膨大な数の中小企業関係者・全国の日雇労働者・非正規雇用の人々たちにとって、もはや「殺人的ごまかし」以外の何ものでもない。そんな御用経済学者の無責任極まりない発言を平気で紹介する御用マスコミ番組の乱立。日本の将来を諦める若年者層の急拡大もうなずけてしまう。
そんなわけでなぜ円安なのか。前提としてマルクスはいう。金銀でなくてもそれが紙幣で通用するのはなぜか。
「紙幣は金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表わされているのと同じ金量で商品価値が観念的に表わされているということにあるだけである。ただ、すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。ーーー最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる章標によって代理されることができるのか?ということである。しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行なわれるのではない。金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。しかし、一つ一つの金鋳貨にあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にあてはまるのである。この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。だから、その運動は、ただ商品変態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。しかし、貨幣の章標はそれ自身の客観的に社会的な有効性を必要とするのであって、これを紙製の象徴は強制通用力によって与えられるのである。ただ、一つの共同体の境界によって画された、または国内の、流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.226~228」国民文庫 一九七二年)
とはいえ、紙幣が貨幣として金融取引可能なのはあくまで条件付きの範囲内においてである。円の場合、円が「信用」として流通している間に限られる。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
ではその「信用」はどのような条件のもとにある限りで常に「信用」として、なおかつ紙幣(日本銀行券)で代理できているのか。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
長引く円安は貨幣が貨幣として認められ取り扱われる最低条件にとって最も重要な流通性の鈍麻を加速させる。その動きを「注視する」だけなら特に閣僚でなくても他の誰にでもできる。諸外国との盛んな取引なしに自由な流動性を保存・維持することは勿論できない。日本のようにエネルギー資源に極めて乏しい島国国家の場合、外交は決して一方に偏ってはいけないというのが経済政策の「いろは」である。一方に偏れば他方が必要になった場合に援助が困難になるのは常識以前。長く続いた東西冷戦時代に嫌というほど学んだはずでもある。なのにそんな幼稚なレベルの対処法も暗中模索のままでまともな政策立案一つできないことを実証した先日の選挙とは一体なんだったのか。税金の無駄使いはそんなにも楽しいことだろうか?
さらに軍事については議論したいだけすればいい。しかし。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
という事態は何を意味しているか。後からどれほど全力を上げてみたとしてもすでに高度成長期を通過し終えた日本にとって「追いつき追い越す」チャンスは二度とない。要するに世界に対する日本とは何であって何でないか、国際世論の中の日本ではなくもはや国際世論に対立する日本へ加速した、という認識の上に立って思考し直さないといけないということに違いないのである。
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