白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ52

2023年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月六日(木)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

早めの昼食(午前十一時三十分)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

食後の運動、と言いたいところだがーーー。いたずらがひどくなるに連れて猫に迫ってくるのは猫自身がよく承知しているように爪切り。それにしても子猫の爪切りはいつものことながら神経を使う。血管を切ってしまうと危険なためゲンタシン(抗菌剤)は欠かせない。前回の爪切りでは体長がまだまだ小さく、一つ一つの指も小さく、さらに抵抗が激しくじっとしていてくれないので五箇所ほど出血させてしまった。しかし今日の爪切りは少し違う。

 

いらなくなった新聞紙を大きく広げて仰向けに寝かせてみると、小柄ではあるもののようやく成猫の爪切りの時と同じ体勢で処置できるようになっている。じっとしていてくれないのは相変わらずだが、猫を仰向けに寝かせて飼い主が両足で新聞紙の上に固定して常を切る際、前回よりはかなり楽になってはきた。作業も短時間で済む。どうやら出血もないようだ。

 

初代タマの時から爪切りはいつも飼い主がやってきたので他の家族は慣れがないため切り損ないを怖れてできない。そこで二代目タマの場合も飼い主がやるわけだが、必死で逃れようとするタマを見ていると恨まれるのはまた飼い主である。

 

集中しないといけない時に独特の緊張感があり、もう何十年も前に仕事をしていた頃を思い出したりするのは悪くない。とはいえ二代目タマが嫌がる叫び声は初代タマの二倍くらい大きく、ご近所さんにも響くほど。何か猫を虐待してでもいるかのようで人聞きが悪すぎる。


Blog21・ロベールと<欲望>の無限多様性

2023年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>はロベールが男性同性愛者でもあるということを知る。<私>は動揺する。この動揺をもたらすのはロベールではなく結婚相手のジルベルトでもない。<私>の《ハイブリッド/トランス(横断的)<交通=性交>都市ヴェネツィア》滞在中に決まったもう一つの結婚ですでに名前が出ているジュピアンの<言葉>だ。プルースト作品を押し進めるのはいつも言語(身振り・振る舞い)であり心理学ではない。

 

「きみのバルベックの恋人がぼくの母親が求める財産を持っていないのは残念だ、あの娘(こ)とぼくなら意気投合できたはずなのに」

 

この発言はこれまで一度もなされていない。だが読者は違和感を覚えることなく読み進めることができる。というのもプルーストにすれば、ただ単にそういうエピソードを割り込ませることができれば構わないエピソードなのであり、なおかつ作品というものは至るところで断絶し分割可能な<裂け目>を露出させ、さらなる接続を繰り返させることができるからだ。

 

その発言は衝撃であり<私>を思考するよう働きかけ、したがって<私>をさらに一つ賢くしてくれる。

 

「ロベールは、自分がソドムの男であるようにアルベルチーヌはゴモラの女であると言わんとしたのだ、いや、たとえいまだソドムの男ではなかったとしても、自分はある種のやりかたでしか女を愛せない、べつの女たちといっしょでしか女を愛せないと言わんとした」

 

「いまや私にも、ロベールがゲルマント大公妃邸で私に向かって『きみのバルベックの恋人がぼくの母親が求める財産を持っていないのは残念だ、あの娘(こ)とぼくなら意気投合できたはずなのに』と言ったとき、なにを言わんとしたのか手にとるようにわかった。ロベールは、自分がソドムの男であるようにアルベルチーヌはゴモラの女であると言わんとしたのだ、いや、たとえいまだソドムの男ではなかったとしても、自分はある種のやりかたでしか女を愛せない、べつの女たちといっしょでしか女を愛せないと言わんとしたのだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.581~582」岩波文庫 二〇一七年)

 

説明はほとんどいらないに違いない。ロベールはシャルリュスとモレルとを合体させた性のあり方を反復する。

 

「われわれはこの男の顔のなかに、心を打つさまざまな気遣い、ほかの男たちには見られぬ気品ある自然な愛想のよさを見出して感嘆するのだから、この青年が求めているのはボクサーだと知ってどうして嘆くことがあろう?これらは同じひとつの現実の、相異なる局面なのだ。さらに言えば、これらの局面のうちわれわれに嫌悪の情をいだかせる局面こそ、いちばん心を打つ局面であり、どんなに繊細な心遣いよりも感動的なのである。というのもそれは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならないからだ。性をめぐるさまざまな欺瞞にもかかわらずこうして性がみずから企てる自己認識は、社会の当初の誤謬のせいで遠くに追いやられていたものへと忍び寄ろうとする密かな企てに見える。おそらくきわめて内気な少年期をすごした男のなかには、快楽をひとりの男の顔に結びつけることさえできれば満足して、どのような肉体的快楽を享受できるかについてはさして感心を向けない者もいる。これにたいして、おそらくもっと激しい欲望をいだくせいであろう、自分の肉体的快楽の対象をなんとしても限定する男たちもいる。こんな男たちが自分の想いを告白すれば、世間一般の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。ところがこの男たちもサトゥルヌスの星のもとでのみ暮らしているとはかぎらない。前者の男たちにとっては女性が完全に排除されているが、この後者の男たちにとってはそうではないのだ。前者の男たちにとって、おしゃべりや媚のような頭のなかの恋愛がなければ女性なるものは存在しないに等しいが、後者の男たちは、女を愛する女性を探し求め、その女性から若い男を手に入れてもらったり、若い男とすごす快楽をその女性に増幅させてもらったりする。おまけにこの男たちは、それと同じやりかたで、男と味わうのと同じ快楽をその女性たちを相手に味わうこともできる。そんなわけで前者の男を愛する男たちからすると、嫉妬をかき立てられるのは相手の男がべつの男と味わう快楽だけで、それだけが自分には裏切りに思える。なぜならその男たちは、女と愛情をわかち合うことはなく、そうしているように見えても慣習として結婚の可能性を残しておくためにすぎず、女との愛情から与えられる快楽をまるで想像できないので、耐えがたく思えるのは自分の愛する男が味わう快楽だけだからである。ところが後者の男たちは、しばしば女性との嫉妬をかき立てられる。というのもこの男たちは、女性と結ぶ関係において、女を愛する女性からすると相手の女役を演じているうえ、同時にその女性もこの男たちが愛する男に見出すのとほとんど同じ快楽を与えてくれるので、嫉妬する男は、自分の愛する男がまるで男にも等しい女に首っ丈になっているように感じると同時に、その男がそんな女にとっては自分の知らない存在、つまり一種の女になっていると感じて、その男がまるで自分から逃れてゆくような気がするのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66~68」岩波文庫 二〇一五年)

 

《ハイブリッド/トランス(横断的)<交通=性交>都市ヴェネツィア》が差し示す射程は広大無辺である。言い換えれば、<欲望>というものは、プルーストがあっけなく教えているように、どこまでも広大無辺であり、なおかつ無限に多種多様な色彩を放たないではおかない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて472

2023年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

今後は母の抗がん剤治療、検査、検査入院などに応じて早朝からの読書が主軸。

 

午前五時のキッチンに母の姿がある。今朝も黙々と食事のしたくをしている。

 

前夜に炊いておいた固めの粥。豆腐にヤマキの白だし。水で揉み洗いしてさらに表面の皮を削ぎ落とし極力塩分を抜いた茄子の漬物。半月前とほぼ変わらないメニュー。

 

そこへ早起きの二代目タマがさっそく登場。キッチンへやって来て母の食事の準備に自分も割って入ろうとする。このところ人間の食事にも興味津々。放っておけば不意に手を出す。

 

飼い主としては仕方なくタマのフードをさっさと整え食べさせる。食べ終えるとまた母の食卓の前へ登場する。こういうときは猫には気の毒だがケージに入っておとなしくしてもらうしかない。

 

母の体調。朝食はほぼ問題なく食べられる。けれども午後以降は特に胃痛が苦しいという。痛み止めがあるにはあるが、ほんのいっときの対処療法に過ぎない。胃の内部検査でわかったようだが胃自体の中に、収縮して機能していない箇所がある。それはどこから来たのか。高齢ということ以外の要因はわからないとしかいえない。

 

ただ、胃の痛みが膵臓癌から来ていることはもはや確実だろうということはわかっている。根本治療ということになると、もう少し日数があるが手術で切除すべき部分は切除し、あとは抗がん剤治療の経過を見ていくほかないようである。

 

頑固な便秘について。センノシドとプリンペランとを組み合わせ、できる限りその日その日の胃腸の具合に合わせた用い方を考えていくのがベターではと思われる。便秘だからといって無理に毎日排出しなければならない必然性は必ずしもない。二日に一度が楽ならば楽な形へ変えていくのが体の負担も少なくて済む。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・大江健三郎と<様々なる暴力>4

2023年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

大江健三郎作品に関する次の論考。

 

佐藤泉「『引用』と『回心』について」(『ユリイカ・大江健三郎・P.393~405』青土社 二〇二三年)

 

大江健三郎作品に横溢する暴力の両義性についてはこれまでもう嫌というほどしつこく語られてきた。にもかかわらず多くの評論家のいう両義性はなぜか、とりわけ<女性>について、いつも「救済する」側に位置する存在として語られてきた歴史がある。強姦と和姦とのあいまいで不均衡な境界線上において。

 

しかし佐藤泉が大江作品の中から引用する箇所はたとえば次のような箇所である。

 

「高安カッチャンとペニーをめぐって小説を書き、発表もしながら、僕はのんびりしていたものだ。結局のところ僕には高安カッチャンともうひとりの同級生の死を、いくぶんかは自分そのものの死のように、怯(おび)えながら悼(いた)む心があり、つまりかれらの死は実験用の膜を透してのように隠微、着実にこちらの生に浸透してくるようであって、まずはその圧力のもとで小説を書いたのであった。そこでただひとり生き残っているモデルからの反撃に思いおよばなかったのである。彼女の手紙に接して以来、僕は自分の一種甘ったれた鈍感さについて、いくたびか夜更けにじっと赤面して考えこむということがあった」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.170」新潮文庫 一九八六年)

 

大江自身による自分自身の甘ったれぶりの告発。さらに大江は大江みずから大江自身のセンチメンタリズムを告発<させる>。それはしばしばコールガールも務めるペニーからの手紙という形を取った<他者>の導入によって始めて可能になったように見える。

 

「《プロフェッサー、あなたの『雨の木』(レイン・ツリー)は燃えてしまった。マルカム・ラウリーは、死にのぞむ人間の叫びが樹木から樹木へこだましたと書いているが、『雨の木』(レイン・ツリー)も燃える際には、人間の耳に聴きとれぬ大声をあげたのではないか?しかしまもなくアメリカもソヴィエトもヨーロッパも日本も、核爆弾の大火で燃えつきてしまうのだから、プロフェッサー、それに先だつ『雨の木』(レイン・ツリー)の炎上を、とくに悲しむのもセンチメンタルであろう。もともとその種のセンチメンタリズムが、高安も指摘していた、プロフェッサーの終末観の甘さと<対>をなして実在するとしても。/この世界のセフィロトの木は、すでにさかさまになってしまっている。ザッカリ・KがLPレコードのジャケットに引用した文章どおりに。(そのシングル盤はクリスマスまでに二百万枚を越すということです)。やはりラウリーの自殺についていわれた言葉のとおりに、いまにも世界各地で原水爆の大火が始まるとして、それは世界が永年にわたっておこなってきた自殺の、“only a ratification”なのだ》」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.217~218」新潮文庫 一九八六年)

 

なお、この文章(手紙)の最後に用いられている英語「“ratification”(批准)」という言葉の使用は極めて妥当だろうと思う。

 

また大江は「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」以後、それまでの読者にとって思いがけなかった<転回>を見せる。単純素朴な二元論には回収され得ない<新しい女性の眼>の登場と言っていいかと思われる。

 

「ギー兄さんがこの小説の書き方になぞらえながら『事件』について話した日、慎重な妻はどんな感想ものべなかった。その夜、妹から『万延元年のフットボール』を借り、当の箇所を読みかえしてみて、翌日妻はギー兄さんに次のようにいったというのだ。ーーーKちゃんがひとつの事実について、ふたつの側面から書いているのは、よく考えてのことだったと思います。けれども私は、この娘さんの側から、考えずにはいられないわ。事故であれ殺人であれ、ともかく酷たらしい死に方で死ななければならなかった、と」(大江健三郎「懐かしい年への手紙・P.501」講談社文芸文庫 一九九二年)

 

女性だけだろうか。子どもや障害者についても同様にいえることがある。佐藤泉の論考はこれまでの<おんな・こども>がどのように表象されてきたか。むしろ表象されることによって逆にがんじがらめに固定化されてきたかについて言及している。「新しい人よ眼ざめよ」の有名なラストシーン。障害者「イーヨー」は「イーヨー」と呼ばれることを拒否する。

 

「ラジオは消したものの、坐り込んだままレコードのジャケットの列を出し入れしているイーヨーに僕が声をかけた。

 

ーーーイーヨー、夕御飯前だよ、さあ、こちらにいらっしゃい。

 

ところがイーヨーはレコード・スタンドにまっすぐ顔を向け、広くたくましい背をぐっとそびやかして力をこめると、考えつづけた上での決意表明の具合に、こういったのだ。

 

ーーー《イーヨーは、そちらへまいりません!イーヨーは、もう居ないのですから、ぜんぜん、イーヨーはみんなの所へ行くことはできません!》

 

僕が食卓に眼を伏せるのを、妻が見まもっている。その視線の手前なお取りつくろいかねるほどの、端的な爽快感を僕はおそわれていた。いったいどういうことが起ってしまったのか?現に起り、さらに起りつづけてゆくものなのか?しだいに足掻(あが)きたてるほどの思いがこうじて、涙ぐみこそしなかったが、カッと頬から耳が紅潮するのを、僕はとどめることもできなかったのだ。

 

ーーーイーヨー、そんなことはないよ、いまはもう帰ってきたから、イーヨーはうちにいるよ、と妹がなだめる声をかけたがイーヨーは黙っているままだ。

 

性格として一泊ないし二泊置くように自分の考えを検討してから、それだけ姉に遅れてイーヨーの弟が次のようにいった。

 

ーーー今年の六月で二十歳になるから、もうイーヨーとは呼ばれたくないのじゃないか?自分の本当の名前で呼ばれたいのだと思うよ。寄宿舎では、みんなそうしているのでしょう?

 

いったん論理に立つかぎり、臆面ないほど悪びれぬ行動家である弟は、すぐさま立って行ってイーヨーの脇にしゃがみこむと、

 

ーーー光さん、夕御飯を食べよう。いろいろママが作ったからね、と話しかけた。

 

ーーー《はい、そういたしましょう!ありがとうございました!》とイーヨーは声がわりをはじめている弟とはまったく対極の、澄みわたった童子の声でいい、妻とイーヨーの妹は、緊張をほぐされた安堵と、それをこえた脱臼(だっきゅう)したようなおかしさにあらためて笑い声をあげていた。

 

背にも躰の嵩(かさ)にも、大きい差のある兄弟ふたりが、なんとか肩をくんで食卓へやって来る。そしてそれぞれ勢いよく食事をはじめるのを見ながら、僕は直前の喪失感がなお尾をひいているなかで、そうか、イーヨーという呼び名はなくなってしまうのか、と考えた。そそれはしかし、自然な時の勢いなのだろう。息子よ、確かにわれわれはいまきみを、イーヨーという幼児の呼び名でなく、光と呼びはじめねばならぬ(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.347~349」講談社文芸文庫 二〇〇七年)

 

露骨に描き上げられる強姦と和姦とのあいまいさ。さらに<新しい女性(さらには障害者)の眼>への移動。大江健三郎の<野蛮さ>とはそのような身体、そのような生々しい<肉>の絶え間ない運動であるだろう。