暴力がイデオロギーの意匠をまといつつさも科学的であるかのように世間を流通することはよく知られたもはや常識である。大江健三郎は「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」の中で自分の中にもそういうイデオロギー、「特権的優生思想」があったことを告白している。
(1)「僕が子供の自分のある日、のちに考えれば死ぬ直前の父親がこういったことがあるーーーおまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。自分はそんなことにはならないとおまえはいうが、しかしチヤホヤされて甘ったれた人間には、子供ばかりじゃなく、大人になっても、そう思いこんでいるままのやつがいる。
僕は父親の言葉が、いわば予言的にあたっているのを子供心ながらに感じたのだ。そしてそれが未来の時においてのことであるだけに、自分は本当はそのような性格をもっていないともいえず、息苦しい不満を感じたのであった。そして僕は実際、これまでの生の、つまりは子供の自分からみての未来のさまざまな時に、父親の言葉があたっていることを見出した。その《人間のもっとも悪い》堕落を自覚する恥しさが、僕にいまプールでの自己治療を必要とさせている心のむすぼれの要因のひとつですらあっただろう。自分はあの男、この女が、かれら自身の命はおれの命にくらべて価値が低く、望んでこちらの命のための犠牲にそれを供するというふうには、あの男、この女に対したのじゃなかったか?事は命のやりとりという域のそれではないが、日常的なある選択に関してそうではなかったかと、僕は大きい恥の心を積みかさねることをしてきたのだーーー」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.278~279」新潮文庫 一九八六年)
この(1)は八年後発表の「静かな生活」の中で読者には思いがけず反復される。文章は「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」で書かれたものと一字一句違わない。
「《僕が子供の自分のある日、のちに考えれば死ぬ直前の父親がこういったことがあるーーーおまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。自分はそんなことにはならないとおまえはいうが、しかしチヤホヤされて甘ったれた人間には、子供ばかりじゃなく、大人になっても、そう思いこんでいるままのやつがいる。
僕は父親の言葉が、いわば予言的にあたっているのを子供心ながらに感じたのだ。そしてそれが未来の時においてのことであるだけに、自分は本当はそのような性格をもっていないともいえず、息苦しい不満を感じたのであった。そして僕は実際、これまでの生の、つまりは子供の自分からみての未来のさまざまな時に、父親の言葉があたっていることを見出した。その《人間のもっとも悪い》堕落を自覚する恥しさが、僕にいまプールでの自己治療を必要とさせている心のむすぼれの要因のひとつですらあっただろう。自分はあの男、この女が、かれら自身の命はおれの命にくらべて価値が低く、望んでこちらの命のための犠牲にそれを供するというふうには、あの男、この女に対したのじゃなかったか?事は命のやりとりという域のそれではないが、日常的なある選択に関してそうではなかったかと、僕は大きい恥の心を積みかさねることをしてきたのだーーー》」(大江健三郎「静かな生活・P.268~269」講談社文芸文庫 一九九五年)
もう一度「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」へ戻ると前に引用したように大江自身による大江自身の「一種甘ったれた鈍感さ」への言及が見られる。
「高安カッチャンとペニーをめぐって小説を書き、発表もしながら、僕はのんびりしていたものだ。結局のところ僕には高安カッチャンともうひとりの同級生の死を、いくぶんかは自分そのものの死のように、怯(おび)えながら悼(いた)む心があり、つまりかれらの死は実験用の膜を透してのように隠微、着実にこちらの生に浸透してくるようであって、まずはその圧力のもとで小説を書いたのであった。そこでただひとり生き残っているモデルからの反撃に思いおよばなかったのである。彼女の手紙に接して以来、僕は自分の一種甘ったれた鈍感さについて、いくたびか夜更けにじっと赤面して考えこむということがあった」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.170」新潮文庫 一九八六年)
さらに大江自身が持っていた鼻持ちならないエリート根性のみならず、<それとともに>なおかつ<それと容易に同居し得る>甘ったれた「センチメンタリズム」をエリーからの手紙という<他者>の言葉を用いて告発させる。
「《プロフェッサー、あなたの『雨の木』(レイン・ツリー)は燃えてしまった。マルカム・ラウリーは、死にのぞむ人間の叫びが樹木から樹木へこだましたと書いているが、『雨の木』(レイン・ツリー)も燃える際には、人間の耳に聴きとれぬ大声をあげたのではないか?しかしまもなくアメリカもソヴィエトもヨーロッパも日本も、核爆弾の大火で燃えつきてしまうのだから、プロフェッサー、それに先だつ『雨の木』(レイン・ツリー)の炎上を、とくに悲しむのもセンチメンタルであろう。もともとその種のセンチメンタリズムが、高安も指摘していた、プロフェッサーの終末観の甘さと<対>をなして実在するとしても。/この世界のセフィロトの木は、すでにさかさまになってしまっている。ザッカリ・KがLPレコードのジャケットに引用した文章どおりに。(そのシングル盤はクリスマスまでに二百万枚を越すということです)。やはりラウリーの自殺についていわれた言葉のとおりに、いまにも世界各地で原水爆の大火が始まるとして、それは世界が永年にわたっておこなってきた自殺の、“only a ratification”なのだ》」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.217~218」新潮文庫 一九八六年)
「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」単行本出版は一九八二年。「静かな生活」単行本出版は一九九〇年。その間、八年。小説家にとって、とりわけ大読書家である大江にとって、八年という時間からもたらされただろう個人的体験とその様々な果実(果実の腐敗も含めて)は読者の想像を超える。
ところがこの二つの作品を比較すれば明白なように、後者「静かな生活」の<語り手>は障害者である兄イーヨーの妹マーちゃん(女性)。ゆえに大江は男であり女でもある。そしてマーちゃんは「K(父・大江健三郎)」について「父(K・大江健三郎)が明らかに自分自身を「特権的な存在だと感じていること」を隠さず暴露する。
「私はKちゃんが時どきもらす、信仰や死後の生命についての混乱したもの思いが、じつは自分のことを特権的な存在だと感じていることに由来するといいたい」(大江健三郎「静かな生活・P.150」講談社文芸文庫 一九九五年)
男=大江は女=マーちゃんの言葉を通して自分自身どれほど「特権的な存在だ」と思い込んでいたか、「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」でアジア系アメリカ人女性エリーから指摘された「一種甘ったれた鈍感さ」、「センチメンタリズム」、について今度は「静かな生活」というある種の「家族小説」の中で再び反復させる。
大江健三郎は社会的位置の異なる様々な立場から自分自身に狙いをつけて常に告発させることを忘れない。自分自身への的確な指摘・指弾を通して常に変わっていこうとすることを恐れない。大江がインタビューでしばしば用いてきた「引き受ける」という態度はいつどこから出現するかとてもではないがわかったものではないテロリズムを含むあらゆる暴力を「引き受ける」ということでもある。むしろ可能性としては後者の意味の側が圧倒的に大きい。
そして問題はもうそろそろ訪れるに違いない大江健三郎の死去を見越しつつ、舌なめずりしながら大江の死を今か今かと待ち望んでいた日本の改憲推進勢力の躍進とともに容赦なく日本に降りかかってきた言論圧殺の重々しさであるだろう。大江健三郎はデビュー当時からすでに、言い換えれば、日本の文学芸術漫画アニメ映画と多岐にわたる領域の言論界にとって巨大な「核の傘」として機能していた。今や大江はいない。今後、言論の自由どころか自由な言論の場所をどこでどんなふうに確保していくことができるか。
大江死去の報を受けて蓮實重彦は言っていた。「大江健三郎はノーベル賞をもらったから偉いのではありません。ノーベル賞をもらうずっと前から偉いのです」。蓮實重彦だけでなく柄谷行人も三浦雅士も浅田彰も大江健三郎という巨大な「核の傘」が轟然と機能している限りで、その下にいればいくらでも可能な批評の場所で、いろいろ言ったり言わなかったりすることができていた。左派陣営どころか右派陣営の言論人がアメリカやソ連や中国に向けておおっぴらな誹謗中傷を投げつけることができていたのも、大江健三郎という巨大な「核の傘」が轟然と機能している限りで許されていたあまりにも危険な<幼稚園児>の挑発行為としてしか見えなかったのもそういう事情による。だから左右どちらもあまりに無邪気に、時として大江が見せる子供っぽさを揶揄・嘲笑しつつからかって遊ぶことができていた。もはやそんな遊びは通用しない。
そもそも大江健三郎がデビューしてきた頃、その才能に触れた三島由紀夫が「近代文学になっていない、近代文学になっていない!」とある種の<うろたえ>とも取れる身振りで盛んに喚き立てたのはなぜか。大江の文体は近代文学がどんな形式を前提するかを十分知った上であえてところどころ子供っぽい文体でアプローチする方法をすでに自分の手に入れていたことに怖れを感じたのは確かだ。サルトル研究から入ってはいるもののすぐセリーヌから多くの方法をあっけなく取り入れ身につけた大江にすれば近代文学の形式的前提とか文章の子供っぽさとはいった議論は鼻から白けさせるものでしかなかった。三島由紀夫が再び大江にとって重要になるのは<三島の自死の仕方>が戦後天皇制のあり方と同時に戦後民主主義が虚構的な空転ばかり繰り返さざるを得ないことへの問い直しを不可避的に迫るものであったからである。