白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・大江健三郎あるいは<様々なる暴力>9

2023年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

暴力がイデオロギーの意匠をまといつつさも科学的であるかのように世間を流通することはよく知られたもはや常識である。大江健三郎は「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」の中で自分の中にもそういうイデオロギー、「特権的優生思想」があったことを告白している。

 

(1)「僕が子供の自分のある日、のちに考えれば死ぬ直前の父親がこういったことがあるーーーおまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。自分はそんなことにはならないとおまえはいうが、しかしチヤホヤされて甘ったれた人間には、子供ばかりじゃなく、大人になっても、そう思いこんでいるままのやつがいる。

 

僕は父親の言葉が、いわば予言的にあたっているのを子供心ながらに感じたのだ。そしてそれが未来の時においてのことであるだけに、自分は本当はそのような性格をもっていないともいえず、息苦しい不満を感じたのであった。そして僕は実際、これまでの生の、つまりは子供の自分からみての未来のさまざまな時に、父親の言葉があたっていることを見出した。その《人間のもっとも悪い》堕落を自覚する恥しさが、僕にいまプールでの自己治療を必要とさせている心のむすぼれの要因のひとつですらあっただろう。自分はあの男、この女が、かれら自身の命はおれの命にくらべて価値が低く、望んでこちらの命のための犠牲にそれを供するというふうには、あの男、この女に対したのじゃなかったか?事は命のやりとりという域のそれではないが、日常的なある選択に関してそうではなかったかと、僕は大きい恥の心を積みかさねることをしてきたのだーーー」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.278~279」新潮文庫 一九八六年)

 

この(1)は八年後発表の「静かな生活」の中で読者には思いがけず反復される。文章は「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」で書かれたものと一字一句違わない。

 

「《僕が子供の自分のある日、のちに考えれば死ぬ直前の父親がこういったことがあるーーーおまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。自分はそんなことにはならないとおまえはいうが、しかしチヤホヤされて甘ったれた人間には、子供ばかりじゃなく、大人になっても、そう思いこんでいるままのやつがいる。

 

僕は父親の言葉が、いわば予言的にあたっているのを子供心ながらに感じたのだ。そしてそれが未来の時においてのことであるだけに、自分は本当はそのような性格をもっていないともいえず、息苦しい不満を感じたのであった。そして僕は実際、これまでの生の、つまりは子供の自分からみての未来のさまざまな時に、父親の言葉があたっていることを見出した。その《人間のもっとも悪い》堕落を自覚する恥しさが、僕にいまプールでの自己治療を必要とさせている心のむすぼれの要因のひとつですらあっただろう。自分はあの男、この女が、かれら自身の命はおれの命にくらべて価値が低く、望んでこちらの命のための犠牲にそれを供するというふうには、あの男、この女に対したのじゃなかったか?事は命のやりとりという域のそれではないが、日常的なある選択に関してそうではなかったかと、僕は大きい恥の心を積みかさねることをしてきたのだーーー》」(大江健三郎「静かな生活・P.268~269」講談社文芸文庫 一九九五年)

 

もう一度「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」へ戻ると前に引用したように大江自身による大江自身の「一種甘ったれた鈍感さ」への言及が見られる。

 

「高安カッチャンとペニーをめぐって小説を書き、発表もしながら、僕はのんびりしていたものだ。結局のところ僕には高安カッチャンともうひとりの同級生の死を、いくぶんかは自分そのものの死のように、怯(おび)えながら悼(いた)む心があり、つまりかれらの死は実験用の膜を透してのように隠微、着実にこちらの生に浸透してくるようであって、まずはその圧力のもとで小説を書いたのであった。そこでただひとり生き残っているモデルからの反撃に思いおよばなかったのである。彼女の手紙に接して以来、僕は自分の一種甘ったれた鈍感さについて、いくたびか夜更けにじっと赤面して考えこむということがあった」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.170」新潮文庫 一九八六年)

 

さらに大江自身が持っていた鼻持ちならないエリート根性のみならず、<それとともに>なおかつ<それと容易に同居し得る>甘ったれた「センチメンタリズム」をエリーからの手紙という<他者>の言葉を用いて告発させる。

 

「《プロフェッサー、あなたの『雨の木』(レイン・ツリー)は燃えてしまった。マルカム・ラウリーは、死にのぞむ人間の叫びが樹木から樹木へこだましたと書いているが、『雨の木』(レイン・ツリー)も燃える際には、人間の耳に聴きとれぬ大声をあげたのではないか?しかしまもなくアメリカもソヴィエトもヨーロッパも日本も、核爆弾の大火で燃えつきてしまうのだから、プロフェッサー、それに先だつ『雨の木』(レイン・ツリー)の炎上を、とくに悲しむのもセンチメンタルであろう。もともとその種のセンチメンタリズムが、高安も指摘していた、プロフェッサーの終末観の甘さと<対>をなして実在するとしても。/この世界のセフィロトの木は、すでにさかさまになってしまっている。ザッカリ・KがLPレコードのジャケットに引用した文章どおりに。(そのシングル盤はクリスマスまでに二百万枚を越すということです)。やはりラウリーの自殺についていわれた言葉のとおりに、いまにも世界各地で原水爆の大火が始まるとして、それは世界が永年にわたっておこなってきた自殺の、“only a ratification”なのだ》」(大江健三郎「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち・P.217~218」新潮文庫 一九八六年)

 

「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」単行本出版は一九八二年。「静かな生活」単行本出版は一九九〇年。その間、八年。小説家にとって、とりわけ大読書家である大江にとって、八年という時間からもたらされただろう個人的体験とその様々な果実(果実の腐敗も含めて)は読者の想像を超える。

 

ところがこの二つの作品を比較すれば明白なように、後者「静かな生活」の<語り手>は障害者である兄イーヨーの妹マーちゃん(女性)。ゆえに大江は男であり女でもある。そしてマーちゃんは「K(父・大江健三郎)」について「父(K・大江健三郎)が明らかに自分自身を「特権的な存在だと感じていること」を隠さず暴露する。

 

「私はKちゃんが時どきもらす、信仰や死後の生命についての混乱したもの思いが、じつは自分のことを特権的な存在だと感じていることに由来するといいたい」(大江健三郎「静かな生活・P.150」講談社文芸文庫 一九九五年)

 

男=大江は女=マーちゃんの言葉を通して自分自身どれほど「特権的な存在だ」と思い込んでいたか、「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」でアジア系アメリカ人女性エリーから指摘された「一種甘ったれた鈍感さ」、「センチメンタリズム」、について今度は「静かな生活」というある種の「家族小説」の中で再び反復させる。

 

大江健三郎は社会的位置の異なる様々な立場から自分自身に狙いをつけて常に告発させることを忘れない。自分自身への的確な指摘・指弾を通して常に変わっていこうとすることを恐れない。大江がインタビューでしばしば用いてきた「引き受ける」という態度はいつどこから出現するかとてもではないがわかったものではないテロリズムを含むあらゆる暴力を「引き受ける」ということでもある。むしろ可能性としては後者の意味の側が圧倒的に大きい。

 

そして問題はもうそろそろ訪れるに違いない大江健三郎の死去を見越しつつ、舌なめずりしながら大江の死を今か今かと待ち望んでいた日本の改憲推進勢力の躍進とともに容赦なく日本に降りかかってきた言論圧殺の重々しさであるだろう。大江健三郎はデビュー当時からすでに、言い換えれば、日本の文学芸術漫画アニメ映画と多岐にわたる領域の言論界にとって巨大な「核の傘」として機能していた。今や大江はいない。今後、言論の自由どころか自由な言論の場所をどこでどんなふうに確保していくことができるか。

 

大江死去の報を受けて蓮實重彦は言っていた。「大江健三郎はノーベル賞をもらったから偉いのではありません。ノーベル賞をもらうずっと前から偉いのです」。蓮實重彦だけでなく柄谷行人も三浦雅士も浅田彰も大江健三郎という巨大な「核の傘」が轟然と機能している限りで、その下にいればいくらでも可能な批評の場所で、いろいろ言ったり言わなかったりすることができていた。左派陣営どころか右派陣営の言論人がアメリカやソ連や中国に向けておおっぴらな誹謗中傷を投げつけることができていたのも、大江健三郎という巨大な「核の傘」が轟然と機能している限りで許されていたあまりにも危険な<幼稚園児>の挑発行為としてしか見えなかったのもそういう事情による。だから左右どちらもあまりに無邪気に、時として大江が見せる子供っぽさを揶揄・嘲笑しつつからかって遊ぶことができていた。もはやそんな遊びは通用しない。

 

そもそも大江健三郎がデビューしてきた頃、その才能に触れた三島由紀夫が「近代文学になっていない、近代文学になっていない!」とある種の<うろたえ>とも取れる身振りで盛んに喚き立てたのはなぜか。大江の文体は近代文学がどんな形式を前提するかを十分知った上であえてところどころ子供っぽい文体でアプローチする方法をすでに自分の手に入れていたことに怖れを感じたのは確かだ。サルトル研究から入ってはいるもののすぐセリーヌから多くの方法をあっけなく取り入れ身につけた大江にすれば近代文学の形式的前提とか文章の子供っぽさとはいった議論は鼻から白けさせるものでしかなかった。三島由紀夫が再び大江にとって重要になるのは<三島の自死の仕方>が戦後天皇制のあり方と同時に戦後民主主義が虚構的な空転ばかり繰り返さざるを得ないことへの問い直しを不可避的に迫るものであったからである。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ57

2023年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月十一日(火)。

 

ニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)を使い切ったので今朝からカリカリはヒルズのもののみへ。できるかな、おタマ。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

ようやくできるようになった。五月十五日(月)に譲り受けてからほぼ二ヶ月。推定年齢四ヶ月ならもうカリカリだけで十分のはず。それにしても初代タマの場合、推定年齢二ヶ月で譲り受けた時すでに補助食抜きのカリカリだけで食べ始めることができていた。

 

二ヶ月といってもこの時期の一ヶ月の間の違いは個体差がとても大きいというのが通説。さらに病気を患わない限りでという条件付きで言えることに過ぎない。二代目タマの場合、流動食(a/d缶)混合の時期がたいへん長く続いた。その理由には母の入院と癌発覚とでとたんに忙しくなったため大きく変更を迫られた飼い主のライフスタイルがある。食後の運動は子猫の気が済むまで前後三十分程度は見積もって十分遊んでやらないと次の食事までにお腹を空かせる暇が取れない。それではいつまで経っても流動食(a/d缶)にばかり偏ってしまいがちになるのは仕方がない。なのでこの時期は子猫の気が済むまでじっくり遊びに付き合ってやるのがとても大事だとつくづく思う。

 

なお、岩間の湧水が滴り落ちるイメージでシリンジを地上三センチほどの位置で斜め上に立てて水を滴り落としてやると舌でちろちろ飲むようになったことは前に述べた。これで上手くいくのは今のところ飼い主が与える場合だけで妻がやってみても上手くいかない。というのはおそらく、岩間の湧水が滴り落ちるところで実際に猫が水分補給している場面を忘れがたい記憶として持っている人間とそうでない人間との違いなのかもしれない。

 

飼い主の場合は子供時代の経験として実家のすぐ裏手にある大きな寺院での思い出が幾つもある。寺院の中には幾つもの庭があったわけだが、個々別々に区切られた庭と寺院全体を一つの庭として見るのとは当然異なる。重要なのは後者であって、というのは猫もまた一つの寺院全体を一つのテリトリーとして捉え、個体それぞれの体質と経験から水飲場を決めていたのを子どもの頃からよく見て知っていたので、ただそれを思い出し、では今の家の建築様式で建てられたリビングならどうやればいいかを模索してみたらたまたま上手くいったという偶然の産物に過ぎない。そもそも警戒心の強い猫がどのようにして町中で生き延びていっているか。子ども時代に繰り返し何度も見て脳裏にこびりついているその光景を再現させてやることができれば、手なずけにくいタイプの子猫でも、ある日を境いに思いがけず家猫のライフスタイルへ移行させてやれるのかもしれない。


Blog21・タンソンヴィルという場所/何年も前のジルベルトと何年も後のジルベルト

2023年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二つの時間に分裂するジルベルトの愛について。少年時代の<私>はジルベルトに嫌われていると思い込んでいた。今になってそう告白したところ実はジルベルトの側こそ<私>を愛していたことが判明する。

 

「『なぜそう言ってくれなかったの?そんなこと夢にも想わなかったわ。だって、わたしのほうがあなたを愛していたんですもの。一度なんか、慌ててあなたの気を惹こうとしたくらいよ』。『それって、いつの話です?』。『最初はタンソンヴィル、あなたは家族のかたと散歩中で、わたしは家に帰ってきたところだったけれど、あんなかわいい男の子を見たことはなかったわ。いつもわたしは』と、ジルベルトは恥ずかしそうなあいまいな表情をして言い添えた、『男の子たちとルーサンヴィルの天守閣の廃墟へ遊びに行っていたの。きっとしつけの悪い娘だとおっしゃるでしょうけれど、その廃墟のなかにいろんな女の子や男の子が集まって、暗がりでいたずらをしてたの。コンブレーの教会の聖歌隊員だったテオドールなんか、正直いって、なんともすてきな子だったわ(ほんとにかっこよかったの!)。テオドールもずいぶん不恰好な男になってしまったけれど(いまはメゼグリーズで薬剤師をしているとか)、あそこで近所の農家の娘とだれかれ構わず遊んでいたわ。わたしはひとりで外出するのを許されていたので、家を抜け出せると、すぐにあそこへ駆けつけたものよ。あなたに来てもらいたいってどれほど願ったことか、とても口では言えないわ。よく憶えてるけれど、わたしの願いをあなたにわかってもらおうとしたって時間はわずかでしょ、で、あなたのご両親やうちの両親に見つかるのは覚悟のうえで、ずいぶん露骨な形であなたに合図を送ったの、いま思うと恥ずかしいくらい。でも、あなたはひどく意地悪な目でわたしを睨みつけたので、ああ、その気がないんだなって悟ったの』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.27~28」岩波文庫 二〇一八年)

 

ジルベルトのまなざしを読み違えていた<私>について。

 

「最初のまなざしは、目の代弁者というだけでなく、不安で立ちすくむときには全感覚がまなざしという窓に動員されるように、眺める相手の肉体とともにその魂にまで触れ、それを捉えて連れてゆこうとするまなざしである。ついで第二のまなざしは、祖父と父がいまにもこの少女に気づき、自分たちのすこし前をさっさと歩くように命じて私を遠ざけるのではないかと怖れたからであろう、少女が私に注意をはらい、私と知り合いになるよう、無意識のうちに懇願するまなざしになった。少女は、前と横に瞳孔を動かして祖父と父のすがたを検分したが、そこから引き出された結論はおそらく私たちが笑止千万だということだったらしい。というのも顔をそむけ、いかにも無関心な、ばかにしたような表情でわきに身をよけ、ふたりの視野から自分の顔をそらしたからである。祖父と父は歩きつづけ、少女には気づかなかったのか、私を追い越して行った。そのあいだ少女はまなざしをずっと私のほうに向けていたが、そこにさして特別な表情はなく、私を見ているふうでもなかった。ところが穴の開くほどじっと見つめ、微笑みを隠しているまなざし自体は、私がしつけられた礼儀作法の基本からすると、無礼な軽蔑の証拠としかかんがえられなかった。そして同時に、片手ではしたない仕草をしたが、それを人前で知らない人にした場合には、わが心中のささやかな礼儀作法辞典では、その意味はただひとつ、無礼な意図しかありえないのだった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.309~310」岩波文庫 二〇一〇年)

 

ジルベルトのまなざしについて<私>が下した結論。

 

「わが心中のささやかな礼儀作法辞典では、その意味はただひとつ、無礼な意図しかありえない」

 

ではもし<まなざし>ではなく<言葉>だったら事情は違っていただろうか。そんなことはあり得ないと思われる。言語化すると、よくあるように、ますます誤解を増幅させていたに違いない。子供時代のタンソンヴィルは<私>にとってもジルベルトにとってもそういう場所なのだ。

 

とりわけメゼグリーズは<私>にとって性的な、あるいは官能的なものが生産される場所でもある。「大きな沼のほとりの、やぶに覆われた土手を背にして立つ家」。それが音楽家ヴァントゥイユの家だ。

 

「ヴァントゥイユ氏が住んでいたのは、メゼグリーズのほうのモンジュヴァンで、大きな沼のほとりの、やぶに覆われた土手を背にして立つ家だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.319」二〇一〇年)

 

また画家エルスチールはどんなところに暮らしていただろうか。バルベックの郊外につい最近できた田舎道に面した陰鬱で醜い貸し別荘である。

 

「それがことさら憂鬱だったのは、エルスチールの住んでいるのが堤防からかなり離れた、バルベックの最近開けた大通りのひとつだったからである。日中の暑さでやむなく乗った路面鉄道(トラムウェー)は海岸通りを走り、私は、キンメリア族の古代の王国にいるか、マルク王の祖国にいるか、それともプロセリアンドの森の跡地にいるものと想像するため、前に広がる豪奢を装った安っぽい建物を見ないようにした。そんな建物のあいだにあるエルスチールの別荘は、もしかするとこれ以上に醜いものはないと思えるほど見事に醜いもので、それでも画家が借りたのはバルベックに存在する別荘で広いアトリエにできるのはそこだけだったからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.415~416」岩波文庫 二〇一二年)

 

ヴァントゥイユの家にせよエルスチールが借りた別荘にせよ、そこから生まれてくるものは、湿っぽく陰鬱な薄暗がりの、何やらどろどろしたところから少しずつ形を成してくるような、そんなところだ。

 

しかしアルベルチーヌにとってはまるで異なる。

 

「そのとき突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のサンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)

 

アルベルチーヌとの出会いは何度も引用してきた。ベルベックの浜辺だ。しかしジルベルトはどうか。

 

「私のそばを通りすぎていったジルベルトという名前は、この名前で今しがたひとりの人物として形づくられ、一瞬前までは不確かなイメージにすぎなかった少女に、いつの日か再会できるお守りのように思えた。そのように名前は、まずはジャスミンとストックの上方に発せられ、緑のスプリンクラーからふき出る水滴と同じで、刺すように冷たく通りすぎた。そして名前の通りすぎた澄んだ空気の地帯をーーーそこだけをとり出してーーー虹色に染めたが、それは名前の指ししめす本人とその生活の神秘に浸され、いっしょに暮らし、いっしょに旅に出かける幸せ者だけが知ることのできる少女の生活の神秘に浸されていたからである。その名前が、バラ色のサンザシの下、私の肩のあたりに届いて誇示したのは、私にはじつに辛いことに、いっしょにすごせる幸せ者の親密さの精髄であり、私には入りこめない少女の知られざる暮らしの親密さの精髄だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.310~311」岩波文庫 二〇一〇年)

 

そんなわけでアルベルチーヌはバルベックの浜辺へ接続され、ジルベルトは「バラ色のサンザシ」ヘ接続され、<私>を通過する限り、両者はどこまで行っても決して交わることがなくなったのだ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて477

2023年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は「eフレンズ濃厚金胡麻とうふ」。1パックを椀に盛り、水を腕の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはトマト一個。

 

トマトは前に買っておいた四個入パックの中の一個のそのまた半分を使う。四等分して皮を剥き固い芯の部分を切り落とすだけ。

 

今朝の母の胃腸の調子はいいようだ。プリンペランは眠くなるので夕食前後。センノシドは一日一錠か二日に一錠くらいのペースで服用すれば、胃腸にあまり無理がかからず適度な感じらしい。

 

タマも食後の運動。母の食卓に近づかないよういろいろ玩具で遊んでやる。それでもときどき勢いあまってテーブルの上へ上ってしまい、すると目の前にある人間の食事にすぐ手を出そうとする。今朝はティッシュを一枚器用に引き出して飼い主の足元まで持ってきた。遊びやすい形に折り畳んで渡してやると懸命に一人遊びに打ち込み始め、十分くらい遊んでいる。さらに金胡麻とうふを空けたパックを掴ませてやるとパックを追いかけひっくり返したりして今度も十分くらい時間を稼げた。合わせて三十分くらいなので食後の運動としては十分。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「寄生の哲学」を<もやもや>しつついかに語ることができるか

2023年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

「共生社会」あるいは「社会的包摂」など、一見「耳ざわりのいい」新しい言葉。しかしそれら新しい言葉は当たり前のことながらぽつぽつ出現してきた当初、ほとんど誰にも相手にされず見向きもされなかった。ところが政治的利用価値があると捉えられるやあれよという間にマス・レベルで一挙に拡散され、その指導層としてあろうことか政府=高級官僚レベルが躍り出る。何度も繰り返し目撃してきたうんざりする光景だ。

 

星野太はそれに「もやもやした気持ち」を持つと語る。輪郭鮮明な違和感ではなく「もやもや」。四月号ではこういっていた。

 

「『共生』という言葉の居心地の悪さはずっと気になっていました。もちろん、『共生社会』とか『多文化社会』といった理念そのものに対してではなくて、『とりあえずそう言っておけばいいだろう』というようなお題目としての『共生』に対して『共生◦◦』をうたう組織がぼこぼこ立ち上がっていたわけですが、あれは『共生』というキーワードを入れると文科省のおぼえがめでたくなる、という雰囲気が多分にあったと思うんですね。そうした空疎な言葉としての『共生』の氾濫にずっともやもやした気持ちがありました。共生というと『わたし』なり『あなた』なりが確固たるものとしてあって、いざ共生していきましょうというイメージがあるけれど、むしろわれわれ人間のありようが、さきほどの作品と批評の関係と同じように、つねに寄生関係で成り立っているというのが実際のところなのではないか。理論的な興味・関心としては、わたしたちの生の現実を、ありきたりな『共生』ではなく『寄生』という観点から論じてみたいというねらいがありました」(松浦寿輝/星野太「書くことの味わいをめぐって」『群像・2023・04・P.137』講談社 二〇二三年)

 

この種の「なんともいえず<もやもや>」な「座り心地の悪さ」について、例えば、「みんなで共有しましょう」と言葉にしてしまったとたん、その言葉が「なんともいえず<もやもや>」な「座り心地の悪さ」を言葉の中へ速やかに回収し、とりわけ政治的レベルで脱色してしまうという逆説にはまり込む。

 

八月号の國分功一郎との対談では「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」についてこう語る。

 

「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)という言葉がありますよね。もちろん大切な考え方ですし、身体に障害のある人、ハンディキャップがある人を包摂する仕組みをつくることはすごく大切なことです。しかしその一方で『包摂などされてたまるものか』という矜持を持つことも当然ありえるわけですね。すくなくとも、そういう可能性をどこか担保しておきたいと思う」(國分功一郎/星野太「『寄生の哲学』をいかに語るか」『群像・2023・08・P.223』講談社 二〇二三年)

 

社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)というのは政治的な次元で狡猾に操作される<他者>の「キャラクター化」であり「バートルビーにしてもディオゲネスにしても、抵抗する人間の象徴として枠にはめることは、むしろそのポテンシャルを削いでしまう」。その通りだろう。

 

「そこではアレクサンドル大王に一歩も譲らなかった英雄的な乞食として、ディオゲネスを、後世のバートルビー的な身振りを示した哲学者としてキャラクター化してしまうわけです。そこのとに、ずっともやもやする気持ちがあったんですね。過去の哲学史においても、ディオゲネスはしばしばソクラテスと対になったダークヒーローのような扱いをうけてきました。もちろんいまディオゲネスに注目することの意味もわかるんですが、それをキャラクター化することで失われてしまうものもあるのではないか。バートルビーにしてもディオゲネスにしても、抵抗する人間の象徴として枠にはめることは、むしろそのポテンシャルを削いでしまうのではないかという疑念がありました」(國分功一郎/星野太「『寄生の哲学』をいかに語るか」『群像・2023・08・P.230』講談社 二〇二三年)

 

國分功一郎はこうまとめている。

 

「今、星野さんが仰ったことは、包摂されない人の場所も大事だと語ることでその人を包摂してしまうという理論的ディスクールに内在する問題に再びつながるわけで、やはりこれは大きな問いかけとして残りますね」(國分功一郎/星野太「『寄生の哲学』をいかに語るか」『群像・2023・08・P.230』講談社 二〇二三年)

 

<社会的包摂あるいは資本主義への回収>というテーマは二元論的正面衝突という古い闘争形態ではびくともしない。國分功一郎はむろんだが星野太も二元論的正面衝突という古い闘争形態がもはや無効化された今現在の空気を肌で感じ取っているのはよくわかる。そこで星野は批評のあり方として「寛容」でもなく「歓待」でもない、おそらく読者の身を暗黙のうちにぎょっと引かせるホラー味のある<寄生>(パラサイト)という概念を登場させてきた。「寄生」=「寄って生きる」。

 

もはやキャッチコピーになってしまってただ単にうるわしいイメージばかり増殖させていく「共生」という言葉のおぞましいからくり。日本政府のいう(一人も取りこぼさない)「共生」と日本政府が敵視する中国共産党の超大国的全体主義と、どこがどう違うのか。包摂され得ない<他者>もいるというだけではこれまた凡庸な話に陥ってしまうのは目に見えているわけで、文字通り「『寄生の哲学』をいかに語るか」はたいへん重要な問題提起だろう。

 

さてそこで、テキストを一つ取り変えてみるだけでももう一つ別のパースペクティブが開けてくるのでは。というのはなるほどそうだろうとおもう。