白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ64

2023年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月十八日(火)。

 

深夜(午前二時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)六十粒摂取。

 

早めの昼食(午前十一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)六十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)六十粒摂取。

 

a/d缶抜きにしてからも食欲旺盛。さらに食事を一度で平らげる速度が速くなった。今日の運動は主に飼い主が外出から戻った午後四時台に三十分程度。お気に入りの豆腐の空パックをリビングのあちこちへ滑らせて追いかけさせる。直接窓に当たらないようカーテンを閉じてソファの背もたれの上あたりを目標に投げるとためらわず一目散に駆けていく。捕まえると懸命に蹴り蹴りして押さえ込む。

 

二週間ほど前からだが人間の食事中と食事の支度と後片付けの間はすぐ近づいて口をつけたがるのでケージに入ってもらう。最初のうちは大きな声を上げていたのだが、ここ五日ほどは諦めることを覚え出したのかほどなくおとなしく待つようになった。それにしても新聞紙のかさこそ鳴る音がとても好きで、人間が新聞を広げる音が聞こえるや素早く走ってきて開いた紙面の上で一人遊びを始める。


Blog21・大江健三郎あるいは<様々なる暴力>14

2023年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

大学を出て勤めに出ている青年はある妄想とともに暮らしている。部屋に戻ると四匹の猿がおり、いつも猿どもに見つめられているという妄想なのだが、語り手は最初から断定する。「猿どもの熱心な視線がそそぎつづけられるのを感じる。これが、かれの生活だ。これがかれの生活の真の側面だ」と。

 

「疲れきって蒼(あお)ざめた長身の青年が、書類鞄(かばん)を椅子(いす)におき背後の扉(とびら)をとざす。猿(さる)どもが、かれを茶色の輝く虹彩(こうさい)にかこまれた葡萄色(ぶどういろ)の瞳(ひとみ)、哀(かな)しんでいる人間の眼(め)のようなそれで見つめ始める。青年は再び書類鞄をとりあげそれを机の上におき、こんどは自分の躰(からだ)を椅子におちつける。そしてかれは自分の後頭部、首筋、背、椅子の脚にからんでいる自分の足に、猿どもの熱心な視線がそそぎつづけられるのを感じる。これが、かれの生活だ。これがかれの生活の真の側面だ」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.186』新潮文庫 一九六八年)

 

語り手はいう。「猿どもの視線をさける蔭(かげ)がどこにもない」。

 

「猿どもはつごう四匹で、青年のほぼ八畳の洋室を均等な四つの区分にわけておのおの一つの縄張(なわば)りをもっている。それは、青年が、かれの部屋のあらゆる場所で猿どもから見つめられ、猿どもの視線をさける蔭(かげ)がどこにもないことを結果していることになる」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.187』新潮文庫 一九六八年)

 

淡々と告知される部屋の<明るさ>。しかし当時、東京はいうまでもなくそこそこの規模の地方都市ならどこへ行っても「ストリップ劇場」というものがあった。<この>青年は猿どもに「熱心に」見つめ続けられることで始めて<この>青年であり続けることができるという意味では、「ストリップ劇場」の「踊り子」に等しいように見える。

 

ところが青年には結婚が迫っている。恋人が上京してくる。精神科医のもとで妄想を消去してもらわねばならない。そして妄想は消え失せる。

 

「ーーーあなたが猿どもの妄想から回復したことはわたしにも嬉(うれ)しいことです。青年たちが孤独な妄想にふけっておのおの自分のなかに閉じこもっているのでは、この国の将来がますます悲観的なことになりますからね」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.229』新潮文庫 一九六八年)

 

精神科医と青年の恋人との「幸福そう」な談笑を聞きながら、しかし青年はもはや<この>青年であることを永遠に奪い取られた一人の失業者でしかない。<この>青年でなくてはならない必要性はどこにもなくなり、逆にどこにでもいそうな極めてありふれた落伍者の一人へ変貌する。

 

「医師と恋人とはじつに幸福そうに話しあっている。青年は、馘首(かくしゅ)された自分の肩にのしかかる治療費の負担や、恋人との生活費、それらの暗い見とおりについて考えることもせず、二人の会話に耳をかたむけて微笑をうかべている。かれの内部で涙をながしながら猿どもとその虫とを愛惜しているものがあること、その《もの》はしだいに大きくなりひろがってくるということ、それは青年を一端とする正三角形の二つの他の端で微笑している者たちにはわからない。青年は《かれら》に憎悪(ぞうお)を感じ始める。《おれは、猿どもと真の共同生活をしていた。それは確かだ。電気衝撃やなにやらであの真の生活をおいはらってしまったことは、ひどいまちがいではなかったか?》」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.229~230』新潮文庫 一九六八年)

 

妄想の切除は「ひどいまちがいではなかったか?」。明らかに青年は妄想として出現した猿どもとの「共同生活」を愛し始めている。職場を失い収入のめども立たず動揺を隠しきれない「ストリップ劇場」の「踊り子」に等しいように見える。だが問題は青年のアイデンティティではおそらくない。就職の次は結婚という制度が問題なのでもまたない。就職の次は結婚という制度が問題だとすれば、それはいずれ崩壊するし実際していく。一九六〇年代当時を待たずに崩壊の兆しはありありと出現していた。それを団塊の世代の登場と呼ぶかどうかはともかく、戦後民主主義の中で日本が経済的に繁栄すればするほど、享楽すればするほど、ますます少子化が加速していくのはすでに先行している先進諸国を見ればすぐにわかる。

 

もはや<この>青年ではありえないただ単なる青年は、猿どもとの「共同生活」を愛し始めている自分の姿を懐かしく見やる。<現実生活かそれとも猿どもとの「共同生活」か>という二元論的対立構造は戦後民主主義のもとでじわじわ無効化されつつあった。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて485

2023年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」。1パックの三分の二を木の匙で三等分しながら椀に盛り、水を腕の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。あらかじめ一本を半分に切り分けてあるもの。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十五個程度を粥の上に乗せて食べた。

 

参考になれば幸いです。