大学を出て勤めに出ている青年はある妄想とともに暮らしている。部屋に戻ると四匹の猿がおり、いつも猿どもに見つめられているという妄想なのだが、語り手は最初から断定する。「猿どもの熱心な視線がそそぎつづけられるのを感じる。これが、かれの生活だ。これがかれの生活の真の側面だ」と。
「疲れきって蒼(あお)ざめた長身の青年が、書類鞄(かばん)を椅子(いす)におき背後の扉(とびら)をとざす。猿(さる)どもが、かれを茶色の輝く虹彩(こうさい)にかこまれた葡萄色(ぶどういろ)の瞳(ひとみ)、哀(かな)しんでいる人間の眼(め)のようなそれで見つめ始める。青年は再び書類鞄をとりあげそれを机の上におき、こんどは自分の躰(からだ)を椅子におちつける。そしてかれは自分の後頭部、首筋、背、椅子の脚にからんでいる自分の足に、猿どもの熱心な視線がそそぎつづけられるのを感じる。これが、かれの生活だ。これがかれの生活の真の側面だ」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.186』新潮文庫 一九六八年)
語り手はいう。「猿どもの視線をさける蔭(かげ)がどこにもない」。
「猿どもはつごう四匹で、青年のほぼ八畳の洋室を均等な四つの区分にわけておのおの一つの縄張(なわば)りをもっている。それは、青年が、かれの部屋のあらゆる場所で猿どもから見つめられ、猿どもの視線をさける蔭(かげ)がどこにもないことを結果していることになる」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.187』新潮文庫 一九六八年)
淡々と告知される部屋の<明るさ>。しかし当時、東京はいうまでもなくそこそこの規模の地方都市ならどこへ行っても「ストリップ劇場」というものがあった。<この>青年は猿どもに「熱心に」見つめ続けられることで始めて<この>青年であり続けることができるという意味では、「ストリップ劇場」の「踊り子」に等しいように見える。
ところが青年には結婚が迫っている。恋人が上京してくる。精神科医のもとで妄想を消去してもらわねばならない。そして妄想は消え失せる。
「ーーーあなたが猿どもの妄想から回復したことはわたしにも嬉(うれ)しいことです。青年たちが孤独な妄想にふけっておのおの自分のなかに閉じこもっているのでは、この国の将来がますます悲観的なことになりますからね」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.229』新潮文庫 一九六八年)
精神科医と青年の恋人との「幸福そう」な談笑を聞きながら、しかし青年はもはや<この>青年であることを永遠に奪い取られた一人の失業者でしかない。<この>青年でなくてはならない必要性はどこにもなくなり、逆にどこにでもいそうな極めてありふれた落伍者の一人へ変貌する。
「医師と恋人とはじつに幸福そうに話しあっている。青年は、馘首(かくしゅ)された自分の肩にのしかかる治療費の負担や、恋人との生活費、それらの暗い見とおりについて考えることもせず、二人の会話に耳をかたむけて微笑をうかべている。かれの内部で涙をながしながら猿どもとその虫とを愛惜しているものがあること、その《もの》はしだいに大きくなりひろがってくるということ、それは青年を一端とする正三角形の二つの他の端で微笑している者たちにはわからない。青年は《かれら》に憎悪(ぞうお)を感じ始める。《おれは、猿どもと真の共同生活をしていた。それは確かだ。電気衝撃やなにやらであの真の生活をおいはらってしまったことは、ひどいまちがいではなかったか?》」(大江健三郎「共同生活」『性的人間・P.229~230』新潮文庫 一九六八年)
妄想の切除は「ひどいまちがいではなかったか?」。明らかに青年は妄想として出現した猿どもとの「共同生活」を愛し始めている。職場を失い収入のめども立たず動揺を隠しきれない「ストリップ劇場」の「踊り子」に等しいように見える。だが問題は青年のアイデンティティではおそらくない。就職の次は結婚という制度が問題なのでもまたない。就職の次は結婚という制度が問題だとすれば、それはいずれ崩壊するし実際していく。一九六〇年代当時を待たずに崩壊の兆しはありありと出現していた。それを団塊の世代の登場と呼ぶかどうかはともかく、戦後民主主義の中で日本が経済的に繁栄すればするほど、享楽すればするほど、ますます少子化が加速していくのはすでに先行している先進諸国を見ればすぐにわかる。
もはや<この>青年ではありえないただ単なる青年は、猿どもとの「共同生活」を愛し始めている自分の姿を懐かしく見やる。<現実生活かそれとも猿どもとの「共同生活」か>という二元論的対立構造は戦後民主主義のもとでじわじわ無効化されつつあった。