詳しく論じるには時間も資金もあまりになさ過ぎるため、目についたところを幾つか覚書程度に引用しておこう。
野崎歓が論じている次の箇所は今のマス-コミのあり方を準備した予兆のようなものだ。俗悪なのは当たり前なのだが、昨今急速に高まりつつある日本の軍事要塞化がどのように進められてきたかを検証するヒントを与えてくれる。
「逆に大江=古義人とは吾良に対する暴力に愚直なまでに怒り続ける者である。『ドシン』のもたらした取り返しのつかない結果への悲痛な憤怒が『取り替え子』全編にあふれている。吾良の事件に対し下劣なコメントをした芸能人ーーー北野武やおすぎ(あるいはピーコ)とおぼしき人物たちーーーや、吾良および古義人への迫害に対し非難を表明して連帯しようとしなかった映画界や文壇にたいするやり場のない憤懣は、積もり積もって、深夜のスッポンとの血みどろの戦いのうちに噴出する。現実においても、大江は伊丹のスキャンダル記事を掲載しようとした写真週刊誌の版元に猛講義したと記憶する。さらには、加藤典洋による『取り替え子』評に怒って、次作『憂い顔の童子』では古義人にその書評掲載誌を焼く場面を演じさせた。かくして、伊丹の死に大江はおいて、過激なほどの反応を引き起こした。それは大江が、伊丹に対する攻撃を伊丹と自己の特別な関係に対する攻撃として受け止めずにはいられなかったからだろう。大江のうちで『失われた無垢の吾良』(『取り替え子』)への憧憬は、ほとんど不壊の生命を保ち続けたのだ」(野崎歓「大江健三郎と『美しい少年』」『ユリイカ・大江健三郎・P.377』青土社 二〇二三年)
取り上げられている大江健三郎「取り換え子」から。
「しかしこうしたガタガタの状態を吾良が露呈してしまうのは、じつに稀な例だった。現に吾良は、ふたりのヤクザに襲撃されて文字通り百死に一生をえたが、傷つけられた幾つもの箇所の応急手当てを受けた後、ストレッチャーで病室に運ばれるところをテレヴィカメラに映し出された。その時ですら吾良はガタガタになっていなかった。気分はハイであるようにすら見てとられた。
たまたまアメリカにいた古義人はーーーあの時は主人がいなかったので自由に兄を見舞えた、と千樫はなにかに書いていたーーーロサンジェルスのテレヴィ・ニュースで、日本人向けのケーブル・テレヴィではなく、七時から全国ネットされたCBCで見た。帰国してから、オカマ言葉で時評をやるのが売りの双子タレントの片割れが、あれはヤラセではないか、と疑っている談話記事を読んだ。《念のために》古義人は女性向けワイド番組に出るその男を見て、内面から滲み出ている荒涼かつ陰惨なものに圧倒された。こういう無残なツワモノと相接する世界で、吾良は仕事をしてきた、という痛ましい思いが、さきの言葉への怒りにとってかわった。そのような『業界』でなおかつ、ヤクザによる襲撃以後も、裁判の過程をふくめ吾良はつねに昂然(こうぜん)として、決してガタガタにはならなかった」(大江健三郎「取り替え子・P.105」講談社文庫 二〇〇四年)
野崎歓が上げる評論家「加藤典洋」。保坂和志は「ある文芸評論家」として触れた後、「加藤典洋」がどうしたこうしたというレベルはほとんどどうでもよく、もっと別の次元で大江を論じていた山本浩貴の大江論から示唆を得て、大江文学を通底し、炙り出してもいる独特の<暴力性>について、極めてもっともな理解を引き出しているように思える。
「大江健三郎には終始、他の小説家や文学全般が無条件にスルーしていた二項を無理矢理つなげようとしていると確かに私はかつて感じた、だから<取り替え子>か<憂い顔の童子>のどっちかだったと思う、ある文芸評論家の書評に大江さんがアタマに来て、その書評が載った月刊誌を自宅のガスコンロで燃やしたという話、それを知った文芸評論家、『これはまさしく焚書だ』と批判した、といってもその人は大江健三郎に向かって直接そう言ったのではなく、またどこかの月刊誌でそれを書いた、それを評論家のその人は一種象徴的なパフォーマンスととらえたんだがそのときそれは違うと私は感じた、そのときはそれ以上は考えなかったが評論家はわりと穏当な比喩だ、大江さんは身をもって比喩を演じたことになるわけだ、しかし山本浩貴のこれを読んで、そうではないと確信した、では何なのだと訊かれると私は答えはわからないがとにかく、もっと直接だ、大江健三郎は何かと何かを間にはさまずに接合した、または暴力的にくっつけた、というより二つをくっつけることは性交を含めていつでも暴力だ、そのことを大江健三郎は身をもって理解している、理解するとは抽象を肉である身体の一部である脳にくっつけることだから暴力だ」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢は記憶は歳月に彫るか」『群像・2023・06・P.401』講談社 二〇二三年)
そこで思うのは野崎の文章で引かれているコメンテーター陣が発した多かれ少なかれ「下劣」とされる「ヤラセ」発言の不可解すぎる倒錯性だ。伊丹十三が「百死に一生をえた」あのシーンがもし本当に「ヤラセ」だとすれば、年中行事的に行われ、その都度NHKを始めとする何台ものテレビカメラで捕獲され商品化され流通する「天皇」の言動について、「おすぎ」であれ「ピーコ」であれ、あるいは「加藤典洋」であったとしても、それを名指しで「あれ、ヤラセじゃな~い?」と言わないのはなぜだろう。
さらにかつて行われた「浅田彰/柄谷行人/蓮實重彦/三浦雅士」の四人によって語られた「万延元年のフットボール」論を振り返っておきたい。
(1)「その試みは、人類学の知見を駆使して周縁的な文化の深層に眠っているパターンを再発見し再活性化しようとする山口昌男の試みと、それほど遠いものではない。そうした試みの延長上で、そのような再活性化としての祝祭、さらには祝祭としての革命といったテーマが語られるようになっていったのである。もっとも、小説にまで視野を広げれば、そうしたテーマのほとんどは大江健三郎『万延元年のフットボール』によって先取りされていたわけで、批評や理論はそれを後から追いかけていたともいえる。そして、もうひとりの小説家である三島由紀夫が、まったく個人的なアイロニーゆえに、『文化防衛論』で日本の深層を流れる文化の型としての天皇制を賛美し、一九七〇年に『祝祭的活性化』のパロディともいうべき自殺をとげたとき、この種の理論の可能性には終止符が打たれていたというべきかもしれない。山口昌男の『中心と周縁』『表層と深層』の記号論は、むしろこのあと七〇年代以降に一般化するのだが、そのときにはもう脱歴史化されたパターンの反復にすぎなかった」(浅田彰「近代日本の批評2・P.138~139」講談社文芸文庫 一九九七年)
(2)「柄谷 大江健三郎の『万延元年のフットボールは、一九六〇年の安保闘争を百年前の一八六〇年、すなわち万延元年の一揆とひっかけたわけでしょう。これが六十七年に書かれた。むろんもっと前から構想されたと思うんですけど。それはすでに安保闘争を、労働運動とか経済的な下部構造とかっていうそんなレベルじゃないところでとらえようとしている。だからぼくはその後の全共闘運動よりも、大江健三郎の想像力のほうが優位にあると思う。文学は勝つという感じがする(笑)。
蓮實 それは六十八年五月がそれを予感させたゴダール一人に負けてるってのと同じだと思う。
三浦 それはそうかもしれない。大江健三郎の想像力に関して言えば、『万延元年のフットボール』には『スーパーマケットの天皇』っていうのが出てくる。山口さんのなかには『スーパーマーケットの天皇』は入ってこないんじゃないかなってところがある。
浅田 だから意地悪い味方をすると、大江健三郎がもう山口理論を可能性の中心を出すとともにディコンストラクトさえしてしまっていて、それを単純化して理論化すると山口理論になる。
三浦 というか、大江さんと山口さんは合致するというのが、ぼくの解釈だった。それで特集を組もうと思ったんだけど、だれもわかってくれなかった。
柄谷 それは当人たちもわかっていない(笑)。
三浦 大江さんも山口さんも、当時はそういう気にならなかった。
柄谷 それはそういうものでしょう。
浅田 大江健三郎はその後で山口昌男から学んだと思いこんでしまったわけだから、この誤解たるやすごいよね(笑い)。
三浦 そこに逆説があるわけだ。本来、山口さんのほうがそれを言っていいくらいの話だったわけでね。大江さん、あなたはぼくの理論をすでに実践していたんですよ、といように。
蓮實 それは大江健三郎は山口昌男の文章が読めたけど、山口さんには大江さんの文章が読めなかったということです。
柄谷 『文学の優位』を証明したんじゃないですかね。
三浦 しかし、民俗学とか文化人類学とかは、ほとんど文学の変種だとぼくは思うけどね。
蓮實 違います。文化人類学は『文化』的な科学であって断じて『芸術』たりえない。この違いは決定的なんです。そして、大江健三郎は徹底して『野蛮』であったがゆえに、あるいは『愚鈍』と呼んでもいいけど、ときには『文化』的な寄り道をしながらも文学に固執し、意識することなく可能性の中心を射ぬいていたのだ」(浅田彰/柄谷行人/蓮實重彦/三浦雅士「近代日本の批評2・P.176~178」講談社文芸文庫 一九九七年)
大江健三郎は思想というより遥かに信仰を問題にしてきたことはもはや自明とされている。一読者としてもっともだと考える。日本でなおかつ日本語で小説を書こうとすれば宗教や信仰の問題に触れないではいられないばかりでなく、小説自体の宗教化という事態が生じるのももはや自明である。というか、一九八〇年代後半すでにそういうことはしばしば議論されていた。
ところが九十年代後半以降、多くは政府=行政によって一方的に押し進められわざわざ意図的に捏造されたともいえる状況下で大量発生したロスジェネ問題を含め、そもそも<議論の場の加速的な消失>ということが今や問題だろうと思う。
ちなみに現在、再読中の作品がたくさんある。加えて晩年の作品群はようやく今になって少しずつ手に入れては読むことにしている。気づいたことや言いたいことが出てくればいずれ述べたいとおもう。