白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ75

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月二十九日(土)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

回虫駆除検査のため動物病院へ。検便提出。結果、ほかに卵は見つからず。ひと安心。しかしもし便の調子に異変が見られるようなことがあればその時は来院してほしいとのこと。

 

それにしても早いもので後ひと月近くで去勢手術の予定。スムーズに行けば何より。


Blog・パリのおごり

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

パリの街路を歩くだけでフランス中を歩いたことにできるだろうか。そう考えた人々がいた。

 

「たとえば、パリの街路の名前にフランスの都市名や地方名などをつけようというピュジューの提案では、地理上の相互関係や人口を考慮し、かつ河川や山脈のことも考慮しながら、そうした河川や山脈の名前を、とくに幾つもの地区を貫いて走る長い街路につけるというのである。それはみな『旅行者が、パリでフランスの地理が覚えられ、また逆にフランス中でパリの地理が覚えられるように、まとまりを与えるためである』J.B.ピュジュー『十八世紀のパリ』パリ、一八〇一年、八十一ページ」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.364」岩波文庫 二〇二一年)

 

しかし言語にこだわるということはフランス人だけに許された特権でもなんでもない。言語による支配とその制度化という動きはしょっちゅう人間を引き付けて今なお止まない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて496

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の入院に伴う多方面からの電話待ち。

 

午前五時。

 

幾つかの外出予定が一日ずれたため今日はさらに忙しい。今日明日にまとめてこなしてしまわないといけないことが増えた。そこで必要になってくるのは何かというと「限りなく手抜きに近い生活」の技術。必要最低限の動きだけをコンスタントに繰り返していく無理無駄のない生活環境の維持継続だろう。

 

もし継続できなければどんな大金も株に等しく見えてくる。株のように暴落するお金の使い方はしないということがますます大事な時期なのではと思う。

 

ちなみに昨日の午後。介護に当たる家族向けの点滴抜針作業の講習から帰宅。疲れを取るため再びたこ焼き風お好み焼きを一枚焼く。中身とろとろ熱々で皮の焦げはほとんど付けない見た目クレープ。千切りキャベツ満載なのだがキャベツが入っているのかどうかわからなくなるまでゆっくり火を通す。粉は薄力粉しか使わないから大変お腹にしっくりくる。特に真夏は気持ちいい。真冬も。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・思い上がるヴェルデュラン夫人

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

内部と外部とでシャルリュスに対する評価はまるで異なるという事態がしばしば生じる。そんなわかりきったことが言いたいのだろうか。

 

「いまやシャルリュス氏の悪評が広まったせいで、内情に疎い人たちはその悪評が原因で氏はつき合ってもらえないのだと信じこんでいたが、じつは氏みずからつき合いを拒否していたのだ。それゆえ氏の不機嫌の結果であったものが、その不機嫌の及んだ先の人たちの軽蔑の結果だと思われたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.200」岩波文庫 二〇一八年)

 

シャルリュスは弁明しない。始めから弁明するつもりもない。さらに知識も感性も社交界の中では戦時中もなお誰一人シャルリュスに及ばない。にもかかわらず社交界で著しい地位上昇を果たしたヴェルデュラン夫人は何か自分自身の知識や感性も一緒に上昇したと思い上がる。はなはだしい勘違いに陥るヴェルデュラン夫人とその取り巻きたち。しかし話はその滑稽だけを描き出して終わるわけでは全然ない。

 

語り手による暴露。その一。この種の勘違いに読者もまた手を貸してしまうという実にしばしば起こり得る事態。プルーストの死後、少なくとも二十世紀のあいだ百年を通し、世界中のあちこちで実際に起きたことは今や誰でも知っている。だからといってプルーストを予言者扱いするのはそれ以上に輪をかけた勘違いを犯してしまうことになる。

 

だからそういうことではない。プルーストが仄めかしているのはヴェルデュラン夫人の身振り(言葉遣い・振る舞い)が巻き起こした珍妙この上なく、史上稀に見る粗暴なやりとりがどのような仕方で出現することができたのかであって、ヴェルデュラン夫人が何十年も苦労してようやく手に入れた社交界での地位とはほとんど関係がない。嫉妬まみれの執念深さを動力にパリ社交界で成り上がったヴェルデュラン夫人のような「馬鹿女」の振る舞いはただひたすら貧しくむなしい。なるほどそうだ。むしろシャルリュスにしてみれば、あるいはプルーストにしてみれば、例えば音楽だけを取り上げてみても、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、さらにはドビュッシーも登場してきた世界で、何が悲しくて今さら素人の「戦争ごっこ論」にわざわざ割り込み我を忘れて夢中にならねばならぬのか。シャルリュスは「美談」を作って自分の生涯をともすれば神話化せずにはいられないヴェルデュラン夫人のような二流三流どころとはそもそもそりが合わない。しらけるばかりで仕方がない。