白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ66

2023年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月二十日(木)。

 

深夜(午前二時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

二代目タマはとにかく人間の指によく噛みつきたがる。初代タマの場合も子猫の時に噛みつきが激しく、多頭飼いしている知人に相談して対処法を教えてもらった。その効果かどうか判別できないくらい短期間でほどなく人間には甘噛みしかしなくなり、成猫になるのを待たず順調に育った。

 

ところが二代目タマの場合、譲り受けた当初から感じていたのだが、甘噛みというより限度を知らず思い切り噛みついてくる感触があって、初代タマの時に用いたしつけの方法がどうも通用しそうにない。ごく平均的な子猫なら人間の指に狙いをつけて噛みついてくると、不意打ち的にぐっと押し返して対人マナーのようなものを躾けるわけだが二週間ばかり続けてみても全然通用しない。それどころか飼い主がぐっと押し返せば押し返すほど噛みついた指をごくごく飲み込み飼い主の指の根本までくわえ込んであらためてがちっと噛みつき離さない。その度にいつも流血。まるでスッポンのようだ。

 

ちなみに妻は初代タマの時の育て方からしてそもそも躾け方を知らないので、どうして二代目タマはこんなに強烈に噛み付くのかと見当がつかない。あげくに多頭飼いしている知人に今さら相談している始末。それはもう十四年も前に同じ人の夫さんから飼い主が教えてもらって承知しているというのに。

 

そこで今朝から躾の方針を変える。朝食後も昼食後もずっと遊ばせよく走らせる。インターバルを取る際に飼い主の指を猫の口元まで持っていって軽く噛ませてみる。噛み付いたらぐっと押し返して指を引き抜き、間を置かず猫の顔面に素早く何度も繰り返し往復ビンタを浴びせながら部屋の隅にどんどん追い込む。猫が尻尾を巻いてたまらず逃げ出すまで何度もビンタを繰り返す。繰り返すごとにだんだん猫の眼に怯えと戸惑いの色があらわになる。飼い主が近づいて手を猫の口元に差し出すだけで慌てて身構え逃げ出し家具の裏側へ入り込んでじっとするようになる。

 

そこまでいくと今度は往復ビンタを止め、いつもの食後の運動に戻し、一つの動作が上手くできればすかさず褒めてやる。三種類ほどの遊びのパターンの一つ一つを反復させながら噛みつき抜きでこなせるようになるまでゆっくり学び直させる。夕食を挟んで現在午後八時。横になっているタマの首をなでてやる。今日の未明のうちはまだ、首をなでようとするやいなや昨日までと同じく噛みついてきたが、ややおとなしい。とはいえ噛みつきがまったく止んだわけではないので明日は明日の様子をみて躾け直さないといけない。ややおとなしくなってくれたぶん、これ以上エスカレートすることはまずないように思える。


Blog21・十九世紀のガラスの迷宮

2023年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

十九世紀パリに出現したパサージュ。(1)(2)はともに<街路か室内か>という問いの無効化を告げる。

 

(1)「パリの人々は街路を室内に変えてしまう。『パリの街中においても文字どおり山越え谷越え歩けるのは、とても素敵である』(カール・ガツコウ『パリからの手紙』1、ライプツィヒ、一八四二年、六十一ページ)。このモティーフにはもう一つの面がある。というのも、散歩がパリを室内に変容させ、一つ一つの部屋が街区(カルチエ)となっているものの、実際の部屋のように敷居ではっきりと区分けされていない一つの住居に変えることができるのと同様に、その一方でこのパリの町もまた散策者の前でいっさいの敷居を失って周辺の風景のように現われることもできるからである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.107」岩波文庫 二〇二一年)

 

(2)「街路は集団の住居である。集団は永遠に不安定で、永遠に揺れ動く存在であり、集団は家々の壁の間、自宅の四方の壁に守られている個人と同じくらい多くのことを体験し、見聞し、認識し、考え出す。こうした集団にとっては、ぴかぴか輝く琺瑯引きの会社の看板が、ちょうど市民にとっての客間の油絵のように、いやそれ以上に壁飾りなのであり、『貼紙禁止』となっている壁が集団の書き物台であり、新聞スタンドが集団にとっての図書館であり、郵便ポストがその青銅の像であり、ベンチがその寝室の家具であり、カフェのテラスが家事を監督する出窓なのである。路上の労働者が上着をかけている格子垣があると、そこは玄関の間であり、いくつも続く中庭から屋外へ逃れ出る出入り口であり、市民たちにはびっくりするほど長い廊下も、労働者たちには町中の部屋への入り口である。労働者たちから見れば、パサージュは客間である。他のどんな場所にもまして、街路はパサージュにおいて、大衆にとって家具の整った住み馴れた室内であることが明らかになる」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.111~112」岩波文庫 二〇二一年)

 

ガラスの迷宮パリ。そこではなにもかもが<本物か偽物か>という問いの枠組みを崩壊させる。

 

(3)「パサージュの両義性に対する一つの視点、つまり、パサージュが鏡に溢れており、そのためにその空間が信じられないほど拡張され、それだけに方向を定めることが困難になるということ。というのも、この鏡は、多義的、いやそれどころか無限に多義的であるのだが、ーーーそれでもやはり両義的だからである。この世界は眼くばせするーーーこの世界はいつでもこの一なる世界であり、そこからすぐに何か別のものが現われてくるような無の世界では決してない。変貌するこの空間が、そうした別のものを生み出すとすれば、無のふところにおいてである。この空間に置かれたくすんで汚れた鏡のなかで、事物はカスパール・ハウザーの視線を無と交わしあうのである。だとすると、涅槃(ニルヴァーナ)から送られてくるある両義的な眼くばせがあるのだ。そして、ここでもまた冷たい微風とともにわれわれをかすめ過ぎるのは、オディロン・ルドンというしゃれた名前である。ルドンほど、無の鏡をのぞきこむ事物のこうした視線を受けとめ、事物であることと無であることとの結託のうちに忍び込むすべを心得ている人物はいない。パサージュは、こうした視線のささやきに満ちている。パサージュではつねに事物は、もっとも予期しなかったときに、その片方の眼を一瞬開けたかと思うと、眼くばせをしながら閉じてしまう。だが、もっと近づいて見ようとすると、それは消えうせてしまっているのだある。〔パサージュという〕空間は、これらの視線のささやきにおのれのこだまを貸し与える。空間は眼くばせしながら、『いったい私のなかで何が起こったのだろう』と尋ねる。われわれは驚いて立ちつくす。『そうだ、いったいおまえのなかで何が起こったのだろう』。われわれはそんなふうに、この空間に小声で問い返すことになる」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.423~424」岩波文庫 二〇二一年)

 

仮面劇ばかりが繰り返される。<オリジナルかコピーか>という問いが無効化された迷宮。二〇二三年のネット世界のようだ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて487

2023年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐はマルツネ「生しぼり絹豆腐」。通り椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。あらかじめ一本を半分に切り分けてあるもの。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち二十一個程度を粥と一緒に食べた。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・転変するボンタン氏

2023年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

反愛国主義者から愛国主義者へ転変するボンタン氏。「反愛国主義者」、「三年兵役法案の反対者」、「愛国者」へと、順々に置き換えられる。

 

「昔なら反愛国主義者はドレフェス派という名前を持っていたから、ボンタン氏は嫌われたかもしれない。しかしやがてドレフェス派という名前は忘れられ、三年兵役法案の反対者という名前にとって替わられた。ところがボンタン氏はこの法案の作成者のひとりであったから、今度は愛国者とみなされたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.110」岩波文庫 二〇一八年)

 

だからといってボンタン氏は何者なのかという問いは時代遅れもはなはだしい。ボンタン氏に内容がないというわけではない。逆に「反愛国主義者」や「三年兵役法案の反対者」や「愛国者」といった無限に引き延ばされていく名前の系列の側が、ボンタン氏はあれでもありこれでもありどれでもあると、その都度、ボンタン氏の内容を充填させ置き換えていくのだ。