白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ65

2023年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月十九日(水)。

 

深夜(午前二時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)六十粒摂取。

 

早めの昼食(午前九時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)六十粒摂取。

 

早めの昼食といっても常よりずいぶん早い。退院後初めての母の診察日で付き添いのため。七十粒置いておいたところ帰宅してみるとすっかり平らげていた。いたずらした様子もない。人間がいないとつまらないのかそれともただ単にお腹一杯ですやすや寝ていたのか。そんなわけで今日は相手をしてやる時間がなかなか取れなかったが夕食後の運動でずいぶん走り回った。


Blog21・切断としての「逸脱」へ

2023年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

新自由主義をばんばん押し進めた果てで今や「世界の警察」たる地位を失い迷走するほかないアメリカ。新自由主義の東アジア版を押し進めようとしてますます全体主義に陥るばかりの中国。一方の新自由主義の甘い夢はもはや見え透いた無益の根拠となりつつあり、もう一方の全体主義がもたらしたディストピアも今や覆い隠しようがないのであって、これ以上しがみついている理由一つ持たない。されそこで押し進めるべきはどちらのありようとも異なる新しい次元への切断であるだろう。そこで要請されるのはいつも「子ども」である。

 

ベンヤミンはいう。

 

「夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまで死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。夢見る集団もまたそうなのであって、こうした集団にとっては、その子どもたちこそが自分が目覚めるための幸運なきっかけとなってくれるのである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.20」岩波文庫 二〇二一年)

 

言うまでもなくこの「子ども」というのは幼児とか小学生とかを差すわけでは全然ない。どうしようもなく「逸脱」するほかない欲望のメタファーを生きるということだ。

 

「他の人々の研究上の試みに、磁極上の北極へ向かう航路から船が逸れてしまうような航海の企ての比喩を当てはめること。この磁極上の北極を見出すこと。他の人々にとっては航路からの逸脱であることが、私にとっては、航路を決定するためのデータなのだ」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.195」岩波文庫 二〇二一年)

 

そしてこの「逸脱」には常に「インターヴァル」が伴う。「諸部分相互の間隔」としての「インターヴァル」が。

 

「いま考えていることは、インターヴァルとしての反省を特徴づけ、またそれを守る役目を負っている。インターヴァルとしての反省とは、この仕事のなかでも外界にきわめて集中的に向けられているもっとも本質的な諸部分相互の間隔のことである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.195~196」岩波文庫 二〇二一年)

 

もっと異なる次元への切断が必要だ。新自由主義的かつ全体主義的な甘い夢を夢見るばかりのお今の日本はもう間もなく沈没しそうだ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて486

2023年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」とマルツネ「生しぼり絹豆腐」。京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」は木の匙二杯分くらい残ったもの。後の一杯分をマルツネ「生しぼり絹豆腐」で補う。いつも通り椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。あらかじめ一本を半分に切り分けてあるもの。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち二十一個程度を粥と一緒に食べた。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「当代の最もエレガントな人たち」を破滅させるステレオタイプ(紋切型)

2023年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストの優雅な語りはいつも皮肉やユーモアで溢れている。暴露はいうまでもなく冒涜でさえ幾つもの優雅さで装われている。だからといって次の箇所で「画を見る社交人士」は常に鈍感だということを言おうとしていると思ったらそれこそ大間違いなのだ。「画を見る社交人士」が常に鈍感かどうかは問題ではない。肝心なのは構造的なステレオタイプ(紋切型)である。

 

「現代の優雅な家庭と美しい装いが醸しだす詩情ということなら、後世の人はそれをコットやシャプランの描いたサガン大公妃やラ・ロシュフーコー伯爵夫人の肖像画のなかにではなく、むしろルノワールの描いた出版社シャルパンティエのサロンのなかに見出すのではなかろうか?エレガンスの最も華やかなイメージをわれわれに与えてくれる画家たちは、その要素を当代の最もエレガントな人たちから採取したわけではないのだ。最もエレガントな人たちは、新たな美を宿した無名の画家に肖像を描かせることはめったにないし、無名の画に美を見出すことなどできない。画を見る社交人士の目のなかに、まるで病人が目の前に実際に存在すると想いこむ主観的幻影のごとく積年の紋切り型の美がただよい、新たな美が隠されてしまうからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.98」岩波文庫 二〇一八年)

 

(1)「エレガンスの最も華やかなイメージをわれわれに与えてくれる画家たちは、その要素を当代の最もエレガントな人たちから採取したわけではない」

 

例えばルノワールが「サガン大公妃やラ・ロシュフーコー伯爵夫人の肖像画」を描かないように。

 

(2)「最もエレガントな人たちは、新たな美を宿した無名の画家に肖像を描かせることはめったにないし、無名の画に美を見出すことなどできない」

 

「最もエレガントな人たち」(サガン大公妃やラ・ロシュフーコー伯爵夫人)は「新たな美を宿した無名の画家に肖像を描かせることはめったにないし、無名の画に美を見出すことなどできない」。ルノワールの名前一つ知らないばかりかその絵画の価値を見出すこともできない人々が社交界の花形でいられるという無邪気さ。もはや笑い話へ転倒していく。