新自由主義をばんばん押し進めた果てで今や「世界の警察」たる地位を失い迷走するほかないアメリカ。新自由主義の東アジア版を押し進めようとしてますます全体主義に陥るばかりの中国。一方の新自由主義の甘い夢はもはや見え透いた無益の根拠となりつつあり、もう一方の全体主義がもたらしたディストピアも今や覆い隠しようがないのであって、これ以上しがみついている理由一つ持たない。されそこで押し進めるべきはどちらのありようとも異なる新しい次元への切断であるだろう。そこで要請されるのはいつも「子ども」である。
ベンヤミンはいう。
「夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまで死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。夢見る集団もまたそうなのであって、こうした集団にとっては、その子どもたちこそが自分が目覚めるための幸運なきっかけとなってくれるのである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.20」岩波文庫 二〇二一年)
言うまでもなくこの「子ども」というのは幼児とか小学生とかを差すわけでは全然ない。どうしようもなく「逸脱」するほかない欲望のメタファーを生きるということだ。
「他の人々の研究上の試みに、磁極上の北極へ向かう航路から船が逸れてしまうような航海の企ての比喩を当てはめること。この磁極上の北極を見出すこと。他の人々にとっては航路からの逸脱であることが、私にとっては、航路を決定するためのデータなのだ」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.195」岩波文庫 二〇二一年)
そしてこの「逸脱」には常に「インターヴァル」が伴う。「諸部分相互の間隔」としての「インターヴァル」が。
「いま考えていることは、インターヴァルとしての反省を特徴づけ、またそれを守る役目を負っている。インターヴァルとしての反省とは、この仕事のなかでも外界にきわめて集中的に向けられているもっとも本質的な諸部分相互の間隔のことである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.195~196」岩波文庫 二〇二一年)
もっと異なる次元への切断が必要だ。新自由主義的かつ全体主義的な甘い夢を夢見るばかりのお今の日本はもう間もなく沈没しそうだ。