蓮実重彦はゴダール「勝手にしやがれ」を取り上げてこう述べる。
「画面は、広場を彩るいくつもの街灯を視界に捕えつつ移動する自動車の運転席に位置するキャメラによって撮影されたもので、その移動する画面にはベルモンドもジーン・セバーグも映ってはおらず、ただ、ハンドルを握っているはずの男の声だけが、画面外から聞こえてくる。
いや、当り前だと思う。密告者は密告する。泥棒は泥棒する。殺人者は殺人する。愛する者たちは愛しあう。ーーーみてごらん、コンコルド広場はきれいだろ。
密告者は密告し、泥棒は泥棒し、殺人者は殺人する。女は女であるに似たこの単純な断言命題こそ、ゴダールにとっての問題なのだ。もちろん、その問題には宿命など微塵も影を落としてはいないし、冷笑的な彩りもはじめから不在である。われわれは、ベルモンドの台詞として口にされるその簡潔な文章の連なりの中に、作品をかたちづくっている問題の組み合わせを直裁につかみとる。『勝手にしやがれ』には、事実、密告と、泥棒と、殺人と、愛という四つの問題が流動的に交錯しあってその時間的=空間的な構造をかたちづくっている。いささか性急ながら、それが物語を要約する四つの単語だとさえいえるだろう。
ミシェルは自動車を盗む。これが泥棒は泥棒するという問題だ。そして彼は、逃亡中に警察官を殺す。殺人者は殺人を犯すという問題である。そして一人のアメリカ人女子大生を愛し、彼女の愛を得る。愛する者たちは愛し合うという問題がそれだろう。そして彼女に裏切られて息絶える。文字通り、密告者は密告するという問題がそれにほかならない。だが、肝腎なのは、このベルモンドの台詞が物語を巧みに要約しているという点ではない。それぞれの短い断言命題の同語反復的な形式そのものがゴダール的な問題なのである。そこにあるのは、密告とは何かという形而上学的な疑問ではないし、密告はよくないことだという倫理的な結論でもない。つまり、解決されるべき問題が提起されてはいないのである。人は、ただ、殺人者は殺人を犯すという命題を一つの運動として目にするのみである。殺人者であるが故に人を殺すのだと、人が納得するのではない。人を殺した以上は殺人者たらざるをえないと納得するのではない。普遍的な事実と個別的な真実との有無をいわさぬ一致ぶりに驚くというのでもない。理由によっても結果によっても説明しがたい事態が、そこに生起していることの呆気ない唐突さに戸惑うほかはないのである。その呆気ない唐突さとは、たとえばミシェルとパトリシアの次の会話に如実に感知しうるだろう。
どうしてきみはぼくを見つめるんだい?
だってあたしはあなたを見つめてるんですもの。
これはたぶん期待された答えとはいえないものだろう。だが、おそらくは、問題そのものが誤って提起されているのだというべきなのかもしれない。ここでは、《どうして》と《だって》の二語が明らかに余分なのであり、『きみはぼくを見つめる』、『あたしはあなたを見つめる』と口にしあえばそれでもう充分なのだ。そして、この同じ言葉の反復こそがゴダール的な問題にほかならない」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.27~30」ちくま学芸文庫 二〇二三年)
とすればゴダールはモンテーニュを引用したといえるのかも知れない。
「なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、『それは彼であったから、それは私であったから』と答える以外には、何とも言いようがないように思う」(モンテーニュ「エセー1・P.364~365」岩波文庫 一九六五年)
この同語反復は「気狂いピエロ」で次のように変奏される。
「映画は人生である。人生の中に映画があったり、映画が人生を描いたりするのではない。人生が、映画なのである。このゴダール的な断言命題は、いくつもの問題を招きよせ、不意に予測を超えた組み合わせを導き出すという言葉で、つねに開かれているともいえる。『気狂いピエロ』に登場するサミュエル・フラーがパーティーの席で口にする一連の映画の定義は、そうしたゴダール的な問題の提示としてうけとめられなければならない。映画は戦場である。愛である。憎悪である。行動である。暴力である。死である。感動である。英語で発音された直後にフランス語へと律儀に翻訳されて行くこれらの単語は、まさしく《どうして》と《だって》を排した同語反復をかたちづくっている。その即興的な言い換えは、次々に映画の豊かな表情を描きあげるためのものではなく、問題の多様な断片性を示すものだ」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.37~38」ちくま学芸文庫 二〇二三年)
「映画は人生である。ーーー戦場である。愛である。憎悪である。行動である。暴力である。死である。感動である」
脱中心的運動とその都度異なる無限の組み合わせを生産していく。マルクスから。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
シネマという言葉が賛辞だった時代、フィルムという言葉が批判・批評として役立った。だが二十五年も経つと「シネマ/フィルム」という形式自体が制度化してしまい、批判するためには逆に「これはフィルムではないと明言しなければならな」くなる。
「映画は映画であるという断言命題は絶対的なものではない。ゴダール的な問題は不断の組み換えを生きている以上、二十五年も昔の断言が今日の問題たりえないことをゴダールは意識している。現在、これはフィルムだという言葉は批判たりえなくなっていると彼はいう。いまなら、これはフィルムではないと明言しなければならない。事実、フィルムとシネマとの関係の歴史的な推移に無感覚なまま、いまだに『作家理論』を口にしても始まらないのである。ゴダールにとっての映画史とは、いかなる断言命題も決定的なものではないという確認の歴史にほかならない。問題は、その組み合わせが不断に位置を変え、運動し、交換され、代置され、抹殺され、捏造されてゆくものだからだ」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.40~41」ちくま学芸文庫 二〇二三年)
それはそうと。ゴダール作品を見ようと思うと書いてから実際のところどれくらい見たかというとまだまだほとんど見ることができていない。とはいえゴダールのゴダールによる九十一歳の「安楽死」という「編集」がこれまたモンテーニュの引用ではないかという思いはするのである。
「彼女はそれまで九十年の間、心身ともにきわめて幸福に暮らしてきたのだったが、そのときは、いつもより美しく飾った寝台に横たわって、肘で身を支えながらこう言った。『おお、セクストゥス・ポンペイウスうよ。神々と、そして、私がこれからあの世で会おうとする人々ではなくて、この世に残してゆく人々が、どうかあなたに感謝してくださいますように。あなたはいやな顔をなさらずに、私の生きている間の忠告者となり、死ぬときの立会い人になってくださったのですから。私は、いつも運命のよい面ばかりを見てきましたから、そして長生きをしたいために悪い面を見るのが恐ろしゅうございますから、幸運な結末をつけて、私の残った魂に別れを告げ、二人の娘と多くの孫たちを残して、あの世へ行こうとしているのです』。そう言い終わると、家族の者に和合と平和を説きすすめ、財産を分け与え、家の守護神を長女にゆだね、しっかりした手つきで毒のはいった杯を取り上げた。そしてメルクリウス神に願をかけ、あの世に行ったらどこか幸福な場所にお導きくださいと祈って、その毒のはいった飲み物を一息に飲んだ。それから一座の人々に、毒の効いてゆく経過を語り、身体のあちこちが次々と冷たくなってゆく工合を語り、とうとう毒が心臓と内臓に達したと言って、娘たちを呼び、自分のために最後のお勤めをさせて、眼を閉じてもらった」(モンテーニュ「エセー2・P.271」岩波文庫 一九六五年)
ゆっくり映画の一つも見たいと思うのだが当分そんな予定は立てられそうにない。「失敗することに成功し続けた」ゴダール作品群がある一方、「成功することに失敗し続ける」日本政府の無惨は絶望的なほど引き延ばされていきそうだからである。