白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二つの主人に隷属する分裂者<私>

2023年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

次の箇所は睡眠を切断と捉えるいつものプルースト独自の思考の記述。しかしこれまでとは違った書き方を取っている。

 

「私はここで読むのをやめた。翌日が出発の日だったからである。おまけに、われわれが毎日おのが時間の半分を割いて仕えなければならぬもうひとりの主人から、そろそろ呼び出しのかかる時刻だった。この主人から強いられる務めを、われわれは目を閉じて果たす。そして朝になると、この主人はわれわれをべつの主人のもとへ送りかえす。そうしないとわれわれがべつの主人の命じる務めを果たせないことを承知しているからである。この主人はそんな慌ただしい労苦へと追いやる前にまず自分の奴隷たちを寝かしつけるのだが、この主人のもとでわれわれ奴隷が実際なにをしたのかを知りたくなった最も抜け目のない者たちは、われわれの精神が目を開け、睡眠の務めが終わりかけた瞬間、密かにその実態を見極めようとする。しかし睡眠は、そんな抜け目なき者たちとスピードを競い、その者たちが見極めたいと思うものを跡形もなく消してしまう。というわけで何世紀も経つというのに、われわれは睡眠について大したことを知らないのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.86~87」岩波文庫 二〇一八年)

 

一人の人間であるにもかかわらず覚醒中と睡眠中とではまるで異なる次元を生きているとする切断論的な観点から述べられている。

 

(1)「朝になると、この主人はわれわれをべつの主人のもとへ送りかえす」

 

人間は少なくとも二つの主人に隷属するほかない分裂を生きている、とプルーストは暴露する。そして睡眠は切断であるだけでなく解体でもある。その間いったい何があったのかさっぱりわからない。わかったとしてもそこで見出されるのは辺り一面、どこまで行っても、ばらばらになった無数の断片ばかりに違いない。

 

(2)「睡眠は、そんな抜け目なき者たちとスピードを競い、その者たちが見極めたいと思うものを跡形もなく消してしまう」

 

睡眠はその都度一つの忘却である。ほどなくもう一方の主人(覚醒)へ接続されるや、睡眠という主人の支配の下にある間、じぶんの身体も精神も首尾一貫した論理的整合性一つ持たなかったことに直面して驚くのだ。一貫した因果連関はいつも事後的に捏造される幻想でしかない。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ63

2023年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月十七日(月)。

 

深夜(午前二時)。回虫駆除薬の影響で体力が消耗していないか覗いてみる。元気そうだ。飼い主の姿を見つけるとすぐたたたと追いかけてきて足元を引っ張る。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

午前中の便を見ると回虫の死体が一体混ざり込んでいる。駆除薬の効果だろう。前回発見したのと同じくらいのもの。初代タマの場合は一度で済んだ。まだいるかも知れないがこれといった体調不良は見られない。

 

食欲旺盛なのでカリカリの量を増やすべきか。食後の運動はとても積極的なので増やしてもいいかもしれない。深夜は別として朝昼夕と六十粒ずつにしてみようと思う。

 

豆腐の空パックを床の上で滑らせて追いかけるのが今のお気に入り。飼い主が投げてやればジャンプで飛びつきにいく。といってもソファを踏み台にしてようやく届く程度なのだが。空パックを押さえ込むと口にくわえ、わざわざ飼い主の足元まで持ってきてぽとりと落とす。疲れてくるとテーブルの下で横になる。一番おとなしいのは昼寝の時間帯。ケージの中ですやすや。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて484

2023年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は京禅庵「はんなり湯葉おぼろ」。1パックの三分の二を木の匙で三等分しながら椀に盛り、水を腕の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは昨日と同じくキュウリの漬物。

 

キュウリの漬物は固いというのでいっとき食べられなかった。しばらく冷蔵庫で寝かせてより柔らかくなるまで待っていた。あらかじめ5ミリほどの輪切りにしてタッパーに入れ、冷蔵庫で保存しておいたものを使う。塩分を抜くため一度水で揉み洗い。寝かせたといっても皮は相変わらず固いので包丁で剥いて中身だけ取り出し俎板の上に並べ5ミリ四方に細かく切り分ける。その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち九個を粥の上に乗せて食べた。

 

相変わらず背中の痛みが気になるらしい。それでも朝食は少食とはいえ食欲は安定している。厳しくなるのは夕食前後。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・ゴダールとモンテーニュ

2023年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

蓮実重彦はゴダール「勝手にしやがれ」を取り上げてこう述べる。

 

「画面は、広場を彩るいくつもの街灯を視界に捕えつつ移動する自動車の運転席に位置するキャメラによって撮影されたもので、その移動する画面にはベルモンドもジーン・セバーグも映ってはおらず、ただ、ハンドルを握っているはずの男の声だけが、画面外から聞こえてくる。

 

いや、当り前だと思う。密告者は密告する。泥棒は泥棒する。殺人者は殺人する。愛する者たちは愛しあう。ーーーみてごらん、コンコルド広場はきれいだろ。

 

密告者は密告し、泥棒は泥棒し、殺人者は殺人する。女は女であるに似たこの単純な断言命題こそ、ゴダールにとっての問題なのだ。もちろん、その問題には宿命など微塵も影を落としてはいないし、冷笑的な彩りもはじめから不在である。われわれは、ベルモンドの台詞として口にされるその簡潔な文章の連なりの中に、作品をかたちづくっている問題の組み合わせを直裁につかみとる。『勝手にしやがれ』には、事実、密告と、泥棒と、殺人と、愛という四つの問題が流動的に交錯しあってその時間的=空間的な構造をかたちづくっている。いささか性急ながら、それが物語を要約する四つの単語だとさえいえるだろう。

 

ミシェルは自動車を盗む。これが泥棒は泥棒するという問題だ。そして彼は、逃亡中に警察官を殺す。殺人者は殺人を犯すという問題である。そして一人のアメリカ人女子大生を愛し、彼女の愛を得る。愛する者たちは愛し合うという問題がそれだろう。そして彼女に裏切られて息絶える。文字通り、密告者は密告するという問題がそれにほかならない。だが、肝腎なのは、このベルモンドの台詞が物語を巧みに要約しているという点ではない。それぞれの短い断言命題の同語反復的な形式そのものがゴダール的な問題なのである。そこにあるのは、密告とは何かという形而上学的な疑問ではないし、密告はよくないことだという倫理的な結論でもない。つまり、解決されるべき問題が提起されてはいないのである。人は、ただ、殺人者は殺人を犯すという命題を一つの運動として目にするのみである。殺人者であるが故に人を殺すのだと、人が納得するのではない。人を殺した以上は殺人者たらざるをえないと納得するのではない。普遍的な事実と個別的な真実との有無をいわさぬ一致ぶりに驚くというのでもない。理由によっても結果によっても説明しがたい事態が、そこに生起していることの呆気ない唐突さに戸惑うほかはないのである。その呆気ない唐突さとは、たとえばミシェルとパトリシアの次の会話に如実に感知しうるだろう。

 

どうしてきみはぼくを見つめるんだい?

だってあたしはあなたを見つめてるんですもの。

 

これはたぶん期待された答えとはいえないものだろう。だが、おそらくは、問題そのものが誤って提起されているのだというべきなのかもしれない。ここでは、《どうして》と《だって》の二語が明らかに余分なのであり、『きみはぼくを見つめる』、『あたしはあなたを見つめる』と口にしあえばそれでもう充分なのだ。そして、この同じ言葉の反復こそがゴダール的な問題にほかならない」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.27~30」ちくま学芸文庫 二〇二三年)

 

とすればゴダールはモンテーニュを引用したといえるのかも知れない。

 

「なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、『それは彼であったから、それは私であったから』と答える以外には、何とも言いようがないように思う」(モンテーニュ「エセー1・P.364~365」岩波文庫 一九六五年)

 

この同語反復は「気狂いピエロ」で次のように変奏される。

 

「映画は人生である。人生の中に映画があったり、映画が人生を描いたりするのではない。人生が、映画なのである。このゴダール的な断言命題は、いくつもの問題を招きよせ、不意に予測を超えた組み合わせを導き出すという言葉で、つねに開かれているともいえる。『気狂いピエロ』に登場するサミュエル・フラーがパーティーの席で口にする一連の映画の定義は、そうしたゴダール的な問題の提示としてうけとめられなければならない。映画は戦場である。愛である。憎悪である。行動である。暴力である。死である。感動である。英語で発音された直後にフランス語へと律儀に翻訳されて行くこれらの単語は、まさしく《どうして》と《だって》を排した同語反復をかたちづくっている。その即興的な言い換えは、次々に映画の豊かな表情を描きあげるためのものではなく、問題の多様な断片性を示すものだ」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.37~38」ちくま学芸文庫 二〇二三年)

 

「映画は人生である。ーーー戦場である。愛である。憎悪である。行動である。暴力である。死である。感動である」

 

脱中心的運動とその都度異なる無限の組み合わせを生産していく。マルクスから。

 

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

 

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

 

シネマという言葉が賛辞だった時代、フィルムという言葉が批判・批評として役立った。だが二十五年も経つと「シネマ/フィルム」という形式自体が制度化してしまい、批判するためには逆に「これはフィルムではないと明言しなければならな」くなる。

 

「映画は映画であるという断言命題は絶対的なものではない。ゴダール的な問題は不断の組み換えを生きている以上、二十五年も昔の断言が今日の問題たりえないことをゴダールは意識している。現在、これはフィルムだという言葉は批判たりえなくなっていると彼はいう。いまなら、これはフィルムではないと明言しなければならない。事実、フィルムとシネマとの関係の歴史的な推移に無感覚なまま、いまだに『作家理論』を口にしても始まらないのである。ゴダールにとっての映画史とは、いかなる断言命題も決定的なものではないという確認の歴史にほかならない。問題は、その組み合わせが不断に位置を変え、運動し、交換され、代置され、抹殺され、捏造されてゆくものだからだ」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.40~41」ちくま学芸文庫 二〇二三年)

 

それはそうと。ゴダール作品を見ようと思うと書いてから実際のところどれくらい見たかというとまだまだほとんど見ることができていない。とはいえゴダールのゴダールによる九十一歳の「安楽死」という「編集」がこれまたモンテーニュの引用ではないかという思いはするのである。

 

「彼女はそれまで九十年の間、心身ともにきわめて幸福に暮らしてきたのだったが、そのときは、いつもより美しく飾った寝台に横たわって、肘で身を支えながらこう言った。『おお、セクストゥス・ポンペイウスうよ。神々と、そして、私がこれからあの世で会おうとする人々ではなくて、この世に残してゆく人々が、どうかあなたに感謝してくださいますように。あなたはいやな顔をなさらずに、私の生きている間の忠告者となり、死ぬときの立会い人になってくださったのですから。私は、いつも運命のよい面ばかりを見てきましたから、そして長生きをしたいために悪い面を見るのが恐ろしゅうございますから、幸運な結末をつけて、私の残った魂に別れを告げ、二人の娘と多くの孫たちを残して、あの世へ行こうとしているのです』。そう言い終わると、家族の者に和合と平和を説きすすめ、財産を分け与え、家の守護神を長女にゆだね、しっかりした手つきで毒のはいった杯を取り上げた。そしてメルクリウス神に願をかけ、あの世に行ったらどこか幸福な場所にお導きくださいと祈って、その毒のはいった飲み物を一息に飲んだ。それから一座の人々に、毒の効いてゆく経過を語り、身体のあちこちが次々と冷たくなってゆく工合を語り、とうとう毒が心臓と内臓に達したと言って、娘たちを呼び、自分のために最後のお勤めをさせて、眼を閉じてもらった」(モンテーニュ「エセー2・P.271」岩波文庫 一九六五年)

 

ゆっくり映画の一つも見たいと思うのだが当分そんな予定は立てられそうにない。「失敗することに成功し続けた」ゴダール作品群がある一方、「成功することに失敗し続ける」日本政府の無惨は絶望的なほど引き延ばされていきそうだからである。