白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・ジルベルトの性的誘惑が暴露する<私>のみじめで笑えるオナニズム

2023年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ジルベルトの現在の言葉はただ単に時間が経ったら新しくこういう事態を出現させたという単純素朴な話ではまるでない。

 

「私の散歩中、木々が動きだし両側へよけてくれる気がして、帰る決心がつかないほど昂奮して欲したもの、つまるところジルベルトはそうした欲望のいっさいを体現していたのである。当時の私が熱に浮かされたように求めていたもの、せめてそれを理解し、見出すすべさえ心得ていたら、ジルベルトは早くも思春期の私にそれを味わわせてくれるところだったのだ。ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だったのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.34」岩波文庫 二〇一八年)

 

(1)「つまるところジルベルトはそうした欲望のいっさいを体現していた」

 

前に述べたようにルーサンヴィルの地下空間はその一帯で暮らす思春期の子供たちが集まって暗い欲望を実現する解放空間に過ぎなかっただけではなく<私>が<私>の家のトイレから光り輝くルーサンヴィルの鐘塔へ向けてジルベルトの面影を思い浮かべつつ生まれて初めて自慰を達成したことで神格化された場でもある。ところが当時の<私>は自分自身の切実この上ない性的欲望についてとてもではないがジルベルトには伝えようがないと一方的に思い込んでいた。

 

思春期の頃に何度も<私>に差し示されたジルベルトの態度について<私>の目が「無礼な軽蔑」としてしか捉えない意識のありようは、ジルベルトのあからさまな誘惑が<私>のナイーブ過ぎるちっぽけさを根底から暴露して嘲笑っていることを隠蔽する稚拙な操作でしかない。「ジルベルトはそうした欲望のいっさいを体現していた」にもかかわらず、いや、それゆえ一層<私>はかたくなにジルベルトの性的誘惑を怖れた。<私>はジルベルトを思い浮かべて自分の家のトイレで自慰することしかできないオナニストに過ぎない。怖れの対象は同時に強烈な欲望の対象でもある。思春期の<私>はジルベルトを精液まみれにしてやりたいと心底欲望しつつ、告白するどころが逆に自慰で済ませる最もみじめで最低の男の子だった。一方ジルベルトは、そしてもっとほかに思春期を迎えている顔見知りの子供たちも、<私>の想像を遥かに超えた性的欲望の様々な育成にせっせと務めていたが、<私>はそれを頭の中だけで否認することにせっせと務めていた。

 

(2)「ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だった」

 

「ゲルマントのほう」と「メゼグリーズのほう」とにある仕切りについて。そんなものはもう何十年も前からすでに消滅していて実際にはまるきり存在してなどいなかったのだ。バルベックでのアルベルチーヌとの出会い以前、田舎のコンブレーでさえ、もはやその種の仕切りは無効化しており両者を自由に<交通=性交>させるトランス(横断的)横道は縦横無尽に張り巡らされていた。

 

アルベルチーヌのトランス(横断的)性的志向に打ちのめされるもっと前からコンブレーのような地方都市においてさえ、ゲルマントとメゼグリーズとは交換関係を繰り返していた。<私>の無知無能ぶりはもはや見ていられないほど前近代的な因習に取り憑かれていたのだ。大都市パリと地方都市コンブレーとの落差はここにはない。あるのはどちらが先進的でどちらが非先進的かという境界線は早くも消え失せ、位置決定不可能になっていたという曖昧さである。現在のジルベルトの言葉はかつての<私>の笑うほかない思い込みに決定的終止符を打った。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ60

2023年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月十四日(金)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒摂取。

 

順調に完食できている。噛む力も十分付いてきた。ただ、人間の食事の支度中と食事中はケージの中に入ってもらう。支度中はキッチンにもぐり込むし食事中はどれこれとなく手を出すので猫自身が危険なため。特に猫にとって葱類は危険が多いのだが平気で口にしようとする。

 

ケージでの待ち時間、たいへん大きな鳴き声をあげる。しばらくすると諦めておとなしくなる。日にちはかかるが少しずつわかってきたようで大人しく待つことを早く覚えてほしいところ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて481

2023年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は豆光「にがり絹豆腐」。1パックの三分の一を木の匙で三等分しながら椀に盛り、水を腕の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは久しぶりに茄子の漬物。

 

茄子の漬物はあらかじめ1センチ四方に小さく刻んでタッパーに入れ、冷蔵庫で保存しておいたもの。塩分を抜くため一度水で揉み洗い。皮は固いので剥いて中身だけを取り出し、さらに手で握って沁み込んだ塩分を落とす。さらに小さくなるが仕方ない。それを今朝は八個、粥の上に乗せて食べる。

 

調理中、母が自分の体調について言う。血管ポートの痛みはカロナールで抑えられているけれど、今度は背中の右下のやや奥のほうが痛い、さらに痛む位置が少しずつ移動している感じがする、と。表面の痛みとは思えないということらしい。そうかもしれない。

 

だからといってより強力な鎮痛剤をより増やしてみてもそれはどこまで行ってもきりのない対処療法でしかない。多少手間がかかっても手術と抗がん剤治療とを待つほかない。

 

それは母もわかっている。だから当分、痛み止めはこれまで通りの使い方で進めるのが安全だろうと。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・大江健三郎あるいは<様々なる暴力>11

2023年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

大江健三郎最晩年の作品集。そこで描かれるのは長江古義人が身近な女性たちから繰り出される反撃に身を晒すほかない転倒した事態である。

 

まず手始めに妹アサが古義人を吊し上げる。

 

「ーーー懐かしい年から、返事は来たの?/返事は来たの?来たの?/懐かしい年から、返事は来たの?

 

突然、わたしの胸のうちにそれまでの少女たちの歌声に柔らかく揺すられていた思いとは裏腹の、七十歳を越えている老女の(つまり自分の)憤りにおののく声が沸き起こった。

 

ーーー懐かしい年から手紙はこない!

 

そしてその腹立ちは、まさに兄に向けられていたのだ。先のリッチャンの朗唱が、私の胸に、それとすっかり別の兄への感情を呼び起していたことは、事実。しかしあの兄の一節にはウソがあって(《いまさら言うも詮無い事》ながら、モデルにされた家族からいえば、兄の小説はウソだらけだが)、死んだ(殺された?)ギー兄さんをこれ幸い、『懐かしい年の島』に送り込んでしまうと、少なくとも兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて《真実》の手紙を書き送ることはしなかったと思う。そうである以上、『懐かしい年の島』から返事が来なくて当然ではないか?」(大江健三郎「晩年様式集・P.39~40」講談社文庫 二〇一六年)

 

「古義人よ、あなたは馬鹿ですか?」あるいは「古義人よ、あなたはこれまで一度も自分自身と向き合ったことがないのでしょう」ーーーそう言っているように思えてならない。なんだか意味のつかみにくい非難というよりもっと端的でストレートな自己批判要求である。妹アサはこうもいう。

 

「兄さん、今はわたしたち後期高齢者こそが、自分らなりに機敏な生き方をすべきじゃないですか?なぜならわたしたちにはもう時間がなく、急がなければならないからです。その点ギー兄さんを筆頭に、亡くなった人たちこそ、さらにも急いでいられるはずで(死んだその人たちが生きている間にもっていられたわたしたちに託される思いがあるとすれば)、その受けとめ態勢に入らなければならないと思います」(大江健三郎「晩年様式集・P.237」講談社文庫 二〇一六年)

 

端的な自己批判要求は切迫感を帯びる。さらにその切迫性を増してもくる。そして「急がなければならないからです。その点ギー兄さんを筆頭に、亡くなった人たちこそ、さらにも急いでいられるはずで(死んだその人たちが生きている間にもっていられたわたしたちに託される思いがあるとすれば)」とある。

 

死者はただ死んだというだけで済むのか?むしろ<死者とともに生きる>という課題へ差し向けられているのは、とりもなおさずここにいる「私ら」ではないか?と。

 

とはいえしかし古義人は、そう問われるまで気づかなかったのだろうか。そうでもないように思う。「魂たちの集まりに自殺者は加われるか?」の中で古義人はこう語る。

 

「小説をよく読んでくれれば、吾良はあの《ドシン》で今回のゲームは終りと告げていた。そうやってかれが提案しているのは、これからわれわれは集まり(コンミユニオン)を(生死にかかわらず、それが重要なんです)やって行こう、その手段の『田亀』の数を増やそう、きみの亡くなった友人たちをおれは敬遠していたが、これからは付き合わせてもらう。それが吾良の、ちょっと時を置いて話し掛けて来た通信の続きだったはずなんです」(大江健三郎「晩年様式集・P.320」講談社文庫 二〇一六年)

 

長く身近だった人間の死は、その死によって生前以上に隣接する生々しい死者へと転倒し、「私ら」のすぐそばに立ち現れる。死者との「集まり」(コンミユニオン)。<死者たち>は常に複数形であって、繰り返し反復されるに違いない。さらに<死者たち>の行動のみならず、<死者たち>が言ったことや、言わないことで言っていたことを、不意に再生可能な状態へ、「私ら」は叩き込まれるほかない。それはバフチンのドストエフスキー論で語られた<ポリフォニー>の様相を呈するだろう。

 

もっとも、大江がバフチンを読んでからポリフォニーという方法に自覚的になったのか、それとも同時代の文学群に目を通していたからごく当り前にそう取り扱えるようになったかはわからないにせよ、おそらく後者だろうと思う。フォークナーやドストエフスキーを何度も繰り返し読み返していた大江が、それと気付かずポリフォニーという形式を手に入れていたことは十分考えられるに違いない。

 

さて「<死者たち>との絶え間ない対話」といってもいいし「<死者とともに生きる>」といってもいい態度がにわかに現実味を帯びたのが「3.11福島原発事故」発生である。「懐かしい年への手紙」発表が一九八七年。「3.11福島原発事故」発生が二〇一一年。「懐かしい年への手紙」の最後でダンテ「神曲・天堂篇」が引用されているけれども日本の一九八七年バブルの時期には大いに流行した空気感をよく伝えるものだった。ところが「3.11」で出現したのはダンテ「神曲・地獄篇」である。大江作品にはいつもこの転倒への「怖れとおののき」がある。「万延元年のフットボール」以後はありありと見て取れる。「天皇が人間になった日」に立ち会った人間として。

 

「<死者たち>との絶え間ない対話」を迫られた「3.11」。「晩年様式集」の中で大江は次の場面を融合させる。

 

「真木さんは思い付きをいわれる人じゃないから、CDの封筒に、その東京での演奏会のプログラムを同封してありました。『森のフシギの音楽』は気に入っていただけたようだし、長江さんはこちらでゆっくりされるんだし、アカリさんとこのことで話し合いを続けられてはいかがですか?

 

ーーーそれは良いと思います、とアカリが脇から乗り出していった。

 

ーーーいま再生装置や電池の箱と一緒に、向こうに置いてますからね、プログラムを持って来ます、とアカリの声の力に呼応してリッチャンは軽がると走って行った。

 

帰って来たリッチャンはアカリに紙袋を渡す際、乗り出したかれの胸ポケットのアカガシの若葉に気付き、私の胸もとを一瞥すると、

 

ーーー二人とも、若わかしい!といった。

 

七十八歳の人間のこうした振舞いを《若わかしい》というのは、御愛想としてありふれている。しかし、五十歳の知的障害者に向けられた、《若わかしい》という言葉は、なにか特別なものだ、と私は感じていた。

 

ところがギー・ジュニアは腹を立てた。それにアカリも続いたのだ。

 

ーーー福島第一原発で溶けた燃料は、地中でどういう常態か、その位置すらもわかっていないし、汚染水は増え続けています。それでも伊方原発は再稼働しそうだし、ナショナリズムはアジアで総スカンで、憲法も危うい。長江さんが若わかしくてどうなる、というものじゃないーーー

 

ーーーパパはすぐ八十歳です。私は五十歳で、自立できません。真木ちゃんは《うつ》です」(大江健三郎「晩年様式集・P.377~378」講談社文庫 二〇一六年)

 

これまで<書き手>大江健三郎によって常に抑圧を強いられてきた人々の自己批判要求の出現。その色はなるほど転回といって間違いないほど濃いと思うけれども、この場面はまた別の事情へ接続されているようにも見える。ただ単に「私ら」は年老いたということとは無関係にずっと以前から問いかけられてきたものを含んでいる。「取り替え子」の終盤すでにこうあった。

 

「千樫は、自分の生涯の『物語』を思い起すようにして、センダックの絵本とかれについての本を少しずつ読み進めていた。日を重ねるうち、自分の『物語』と絵本のアイダの物語が、深くまじわっていながら、あきらかに《逸れて》しまうところがあるのにも気付いた。《逸れて》しまって、ついには別物になってしまう、というのではない。《逸れて》しまうことで、両者をつないでいる意味がかえって深まるようでもあったのだ。

 

古義人が『小説の方法』として書いたなかにーーーそれを新書版に書きなおしたり、教育テレビで連続して話したりもしたーーー『ズレをふくんだ繰り返し』という考え方があって、千樫はそれを面白く感じていた。とくに小説の語り(ナラティヴ)の展開において時間の進行と重なる時、ズレには特別な意味が現われる、と古義人は分析していた」(大江健三郎「取り替え子・P.368」講談社文庫 二〇〇四年)

 

ただ単に「千樫」(女性)の側が語り始めたというだけではない。千樫は古義人の方法についていう。

 

「『ズレをふくんだ繰り返し』という考え方があって、千樫はそれを面白く感じていた。とくに小説の語り(ナラティヴ)の展開において時間の進行と重なる時、ズレには特別な意味が現われる、と古義人は分析していた」

 

ここで言及されている「ズレには特別な意味が現われる」という言葉には十分慎重でありたいと思わせる。というのは、大江健三郎の死生観とか小説作法とかではなく、まぎれもない<歴史観>だろうからである。<語り手>はいつもすでに「遅れてくる」ことしかできないという認識であり、遠い初期作品「遅れてきた青年」の頃にはもうタイトルにまで書き込まれていた<語り手>の立場の再更新に思える。

 

また古義人は周囲からの自己批判要求が高まれば高まるほどかえって位置取りを変更していく。「中心」なき世界の中で古義人(K、鳥(バード))は、中心のなさにもかかわらず突然「周縁」として立ち現れる。メタフィクションの面白さはこのような、ある種ユーモラスな風貌をちらつかせつつ、読者をさらなる誘惑へ差し向けていくのではと思わないではいられないのである。