大江健三郎最晩年の作品集。そこで描かれるのは長江古義人が身近な女性たちから繰り出される反撃に身を晒すほかない転倒した事態である。
まず手始めに妹アサが古義人を吊し上げる。
「ーーー懐かしい年から、返事は来たの?/返事は来たの?来たの?/懐かしい年から、返事は来たの?
突然、わたしの胸のうちにそれまでの少女たちの歌声に柔らかく揺すられていた思いとは裏腹の、七十歳を越えている老女の(つまり自分の)憤りにおののく声が沸き起こった。
ーーー懐かしい年から手紙はこない!
そしてその腹立ちは、まさに兄に向けられていたのだ。先のリッチャンの朗唱が、私の胸に、それとすっかり別の兄への感情を呼び起していたことは、事実。しかしあの兄の一節にはウソがあって(《いまさら言うも詮無い事》ながら、モデルにされた家族からいえば、兄の小説はウソだらけだが)、死んだ(殺された?)ギー兄さんをこれ幸い、『懐かしい年の島』に送り込んでしまうと、少なくとも兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて《真実》の手紙を書き送ることはしなかったと思う。そうである以上、『懐かしい年の島』から返事が来なくて当然ではないか?」(大江健三郎「晩年様式集・P.39~40」講談社文庫 二〇一六年)
「古義人よ、あなたは馬鹿ですか?」あるいは「古義人よ、あなたはこれまで一度も自分自身と向き合ったことがないのでしょう」ーーーそう言っているように思えてならない。なんだか意味のつかみにくい非難というよりもっと端的でストレートな自己批判要求である。妹アサはこうもいう。
「兄さん、今はわたしたち後期高齢者こそが、自分らなりに機敏な生き方をすべきじゃないですか?なぜならわたしたちにはもう時間がなく、急がなければならないからです。その点ギー兄さんを筆頭に、亡くなった人たちこそ、さらにも急いでいられるはずで(死んだその人たちが生きている間にもっていられたわたしたちに託される思いがあるとすれば)、その受けとめ態勢に入らなければならないと思います」(大江健三郎「晩年様式集・P.237」講談社文庫 二〇一六年)
端的な自己批判要求は切迫感を帯びる。さらにその切迫性を増してもくる。そして「急がなければならないからです。その点ギー兄さんを筆頭に、亡くなった人たちこそ、さらにも急いでいられるはずで(死んだその人たちが生きている間にもっていられたわたしたちに託される思いがあるとすれば)」とある。
死者はただ死んだというだけで済むのか?むしろ<死者とともに生きる>という課題へ差し向けられているのは、とりもなおさずここにいる「私ら」ではないか?と。
とはいえしかし古義人は、そう問われるまで気づかなかったのだろうか。そうでもないように思う。「魂たちの集まりに自殺者は加われるか?」の中で古義人はこう語る。
「小説をよく読んでくれれば、吾良はあの《ドシン》で今回のゲームは終りと告げていた。そうやってかれが提案しているのは、これからわれわれは集まり(コンミユニオン)を(生死にかかわらず、それが重要なんです)やって行こう、その手段の『田亀』の数を増やそう、きみの亡くなった友人たちをおれは敬遠していたが、これからは付き合わせてもらう。それが吾良の、ちょっと時を置いて話し掛けて来た通信の続きだったはずなんです」(大江健三郎「晩年様式集・P.320」講談社文庫 二〇一六年)
長く身近だった人間の死は、その死によって生前以上に隣接する生々しい死者へと転倒し、「私ら」のすぐそばに立ち現れる。死者との「集まり」(コンミユニオン)。<死者たち>は常に複数形であって、繰り返し反復されるに違いない。さらに<死者たち>の行動のみならず、<死者たち>が言ったことや、言わないことで言っていたことを、不意に再生可能な状態へ、「私ら」は叩き込まれるほかない。それはバフチンのドストエフスキー論で語られた<ポリフォニー>の様相を呈するだろう。
もっとも、大江がバフチンを読んでからポリフォニーという方法に自覚的になったのか、それとも同時代の文学群に目を通していたからごく当り前にそう取り扱えるようになったかはわからないにせよ、おそらく後者だろうと思う。フォークナーやドストエフスキーを何度も繰り返し読み返していた大江が、それと気付かずポリフォニーという形式を手に入れていたことは十分考えられるに違いない。
さて「<死者たち>との絶え間ない対話」といってもいいし「<死者とともに生きる>」といってもいい態度がにわかに現実味を帯びたのが「3.11福島原発事故」発生である。「懐かしい年への手紙」発表が一九八七年。「3.11福島原発事故」発生が二〇一一年。「懐かしい年への手紙」の最後でダンテ「神曲・天堂篇」が引用されているけれども日本の一九八七年バブルの時期には大いに流行した空気感をよく伝えるものだった。ところが「3.11」で出現したのはダンテ「神曲・地獄篇」である。大江作品にはいつもこの転倒への「怖れとおののき」がある。「万延元年のフットボール」以後はありありと見て取れる。「天皇が人間になった日」に立ち会った人間として。
「<死者たち>との絶え間ない対話」を迫られた「3.11」。「晩年様式集」の中で大江は次の場面を融合させる。
「真木さんは思い付きをいわれる人じゃないから、CDの封筒に、その東京での演奏会のプログラムを同封してありました。『森のフシギの音楽』は気に入っていただけたようだし、長江さんはこちらでゆっくりされるんだし、アカリさんとこのことで話し合いを続けられてはいかがですか?
ーーーそれは良いと思います、とアカリが脇から乗り出していった。
ーーーいま再生装置や電池の箱と一緒に、向こうに置いてますからね、プログラムを持って来ます、とアカリの声の力に呼応してリッチャンは軽がると走って行った。
帰って来たリッチャンはアカリに紙袋を渡す際、乗り出したかれの胸ポケットのアカガシの若葉に気付き、私の胸もとを一瞥すると、
ーーー二人とも、若わかしい!といった。
七十八歳の人間のこうした振舞いを《若わかしい》というのは、御愛想としてありふれている。しかし、五十歳の知的障害者に向けられた、《若わかしい》という言葉は、なにか特別なものだ、と私は感じていた。
ところがギー・ジュニアは腹を立てた。それにアカリも続いたのだ。
ーーー福島第一原発で溶けた燃料は、地中でどういう常態か、その位置すらもわかっていないし、汚染水は増え続けています。それでも伊方原発は再稼働しそうだし、ナショナリズムはアジアで総スカンで、憲法も危うい。長江さんが若わかしくてどうなる、というものじゃないーーー
ーーーパパはすぐ八十歳です。私は五十歳で、自立できません。真木ちゃんは《うつ》です」(大江健三郎「晩年様式集・P.377~378」講談社文庫 二〇一六年)
これまで<書き手>大江健三郎によって常に抑圧を強いられてきた人々の自己批判要求の出現。その色はなるほど転回といって間違いないほど濃いと思うけれども、この場面はまた別の事情へ接続されているようにも見える。ただ単に「私ら」は年老いたということとは無関係にずっと以前から問いかけられてきたものを含んでいる。「取り替え子」の終盤すでにこうあった。
「千樫は、自分の生涯の『物語』を思い起すようにして、センダックの絵本とかれについての本を少しずつ読み進めていた。日を重ねるうち、自分の『物語』と絵本のアイダの物語が、深くまじわっていながら、あきらかに《逸れて》しまうところがあるのにも気付いた。《逸れて》しまって、ついには別物になってしまう、というのではない。《逸れて》しまうことで、両者をつないでいる意味がかえって深まるようでもあったのだ。
古義人が『小説の方法』として書いたなかにーーーそれを新書版に書きなおしたり、教育テレビで連続して話したりもしたーーー『ズレをふくんだ繰り返し』という考え方があって、千樫はそれを面白く感じていた。とくに小説の語り(ナラティヴ)の展開において時間の進行と重なる時、ズレには特別な意味が現われる、と古義人は分析していた」(大江健三郎「取り替え子・P.368」講談社文庫 二〇〇四年)
ただ単に「千樫」(女性)の側が語り始めたというだけではない。千樫は古義人の方法についていう。
「『ズレをふくんだ繰り返し』という考え方があって、千樫はそれを面白く感じていた。とくに小説の語り(ナラティヴ)の展開において時間の進行と重なる時、ズレには特別な意味が現われる、と古義人は分析していた」
ここで言及されている「ズレには特別な意味が現われる」という言葉には十分慎重でありたいと思わせる。というのは、大江健三郎の死生観とか小説作法とかではなく、まぎれもない<歴史観>だろうからである。<語り手>はいつもすでに「遅れてくる」ことしかできないという認識であり、遠い初期作品「遅れてきた青年」の頃にはもうタイトルにまで書き込まれていた<語り手>の立場の再更新に思える。
また古義人は周囲からの自己批判要求が高まれば高まるほどかえって位置取りを変更していく。「中心」なき世界の中で古義人(K、鳥(バード))は、中心のなさにもかかわらず突然「周縁」として立ち現れる。メタフィクションの面白さはこのような、ある種ユーモラスな風貌をちらつかせつつ、読者をさらなる誘惑へ差し向けていくのではと思わないではいられないのである。