白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ72

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月二十六日(水)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

昼食(午後二時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

午前中は母の診察と入院の付き添い。帰宅途中にスーパーで買い物。つまみ食いのための食材を用意。

 

帰宅したら二時過ぎ。タマの昼食は少し遅れたが体調は昨日と変わらず順調のようだ。一昨日くらいから気づいたことがある。どうかと思って見ていたのだが、餌皿の横にいつも置いてある小鉢で水を飲む後ろ姿にようやく落ち着きが出てきたようだ。


Blog21・飛躍的「形象」の迷宮

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

その都度てきぱきと高速で繰り返される「形象」の更新再更新。「かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの星座=布置を作り上げる」。

 

「過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象の中でこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの星座=布置を作り上げるのである。言い換えれば、形象は静止状態の弁証法である。なぜならば、現在が過去に対して持つ関係は、純粋に時間的・連続的なものであるが、かつてあったものがこの今に対して持つ関係は弁証法的だからである。つまり、進行的なものではなく、形象であり、飛躍的である。ーーー弁証法的な形象のみが真の(つまりアルカイックではない)形象である。そしてこの形象にわれわれが出会う場、それは言語である」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.209」岩波文庫 二〇二一年)

 

鏡の迷宮の中ですべての人々、すべての事物が差し出され、どれもがどれもを映し合い寄せ集め合い組み換えられていく弁証法的「星座=布置」。次の瞬間にはもう別の「形象」が置かれている。目まいを起こさせる「言語」の諸系列が一気に出現する。「言語」である以上、それはいつも切断的である。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて493

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の介護。

 

午前五時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は幸伸「やすらぐごまどうふ」。1パックを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれみそを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

午前から大津日赤で抗癌剤治療開始予定。最初は三日ほど入院して様子を見る。なのでこれから入院に必要な荷物を持って付き添い。血液検査は早い時間帯なのだが診察は正午くらいになるらしい。ほどんど気の遠くなりそうな待ち時間。読書でもと本棚を物色中。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・シャルリュスに接木されたサン=ルー

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

サン=ルーはどうでもいいような言葉遊びに興じる。シャルリュスと瓜二つのように近い。叔父と甥だからというわけでは必ずしもない。「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねるこの駄弁家」はシャルリュスでありそれを「再演するべつの俳優」がサン=ルーである。二人は一見違っているように見えて、そのじつ途方もなく近い。

 

「その昔、シックな女性たち、あるいはシックになりたいと願う女性たちに言い寄られていた金髪の青年と、たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねるこの駄弁家とのあいだには、なんという大きな違いがあることだろう!サン=ルーは、かつてブレサンやドローネーが演じた役柄を再演するべつの俳優のように、新たな世代においてべつの茎のうえに花咲いたーーーこちらはバラ色やブロンドや黄金色なのに、あちらは真っ黒と真っ白に二分という違いはあるがーーーシャルリュス氏の後継者だった。戦争にかんしてサン=ルーが叔父と意見が合わなかったのは、サン=ルーがなによりもフランスを優先させる貴族の一派に属していたのにたいして、シャルリュス氏が結局は敗北主義者だったからであるが、そのサン=ルーも、『この役柄の初演俳優』の演技を見たことのない人には、理屈屋の役柄のいかにみごとな演じ手であるかを遺憾なく示すことができた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一八年)

 

サン=ルーはシャルリュスの「初演」の「再演」ばかり延々演じ続けなければならない。プルーストが「隔世遺伝」というのはシャルリュスとサン=ルーとの間に引かれては消え失せ、また引き直されては消え失せることを繰り返す切断/接続の果てしない反復運動を指し示す。

 

ところが「初演」に続く「再演」の反復は遥か以前にもうアルベルチーヌについて語られている。アルベルチーヌはいつも一人で複数を演じることができた。しかしサン=ルーの役割は「再演」に限られていて全然トランス(横断的)でない。シャルリュスの後へ接木されたかのようだ。「戦争にかんしてサン=ルーが叔父と意見が合わなかったのは、サン=ルーがなによりもフランスを優先させる貴族の一派に属していたのにたいして、シャルリュス氏が結局は敗北主義者だった」というのは、この接木の効果の一つであり、丸々一世代の間隔が置かれたことを物語る。

 

さらにシャルリュス独特の「敗北主義」は第二次世界大戦でも「再演」された。一度は大西洋に至る地方都市までドイツ軍に占領されながら、しかし戦況はじりじり反転する。結局フランスは負けて勝った。

 

もっとも、「サン=ルーは叔父がときどき示した深い独創性にはたしかに及ばなかった」。叔父(シャルリュス)と甥(サン=ルー)との間にあるのは連続ではなく断絶であり、あらわになった裂け目であり、切断されることで始めて丸々一世代が過ぎたという事情を如実に見せる転倒である。プルースト作品があちこちばらばらに解体された諸断片のパッチワークであるように、問題はこの間歇性・断続性であるだろう。

 

とはいえ「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねる」のは、あちこちのサロンでしゃべりまくり、慎重に吟味された数々の言説を振り撒いて止まないシャルリュスのことだけを指しているのだろうか。それだけなのだろうか。むしろシャルリュスは「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねる」点でフランスのお家芸的な言説機械なのでは、というふうに見えてもくる。アルベルチーヌは身体で語ったがシャルリュスはむしろ言語記号の多産性の演出へ絶えず向かう。