サン=ルーはどうでもいいような言葉遊びに興じる。シャルリュスと瓜二つのように近い。叔父と甥だからというわけでは必ずしもない。「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねるこの駄弁家」はシャルリュスでありそれを「再演するべつの俳優」がサン=ルーである。二人は一見違っているように見えて、そのじつ途方もなく近い。
「その昔、シックな女性たち、あるいはシックになりたいと願う女性たちに言い寄られていた金髪の青年と、たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねるこの駄弁家とのあいだには、なんという大きな違いがあることだろう!サン=ルーは、かつてブレサンやドローネーが演じた役柄を再演するべつの俳優のように、新たな世代においてべつの茎のうえに花咲いたーーーこちらはバラ色やブロンドや黄金色なのに、あちらは真っ黒と真っ白に二分という違いはあるがーーーシャルリュス氏の後継者だった。戦争にかんしてサン=ルーが叔父と意見が合わなかったのは、サン=ルーがなによりもフランスを優先させる貴族の一派に属していたのにたいして、シャルリュス氏が結局は敗北主義者だったからであるが、そのサン=ルーも、『この役柄の初演俳優』の演技を見たことのない人には、理屈屋の役柄のいかにみごとな演じ手であるかを遺憾なく示すことができた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一八年)
サン=ルーはシャルリュスの「初演」の「再演」ばかり延々演じ続けなければならない。プルーストが「隔世遺伝」というのはシャルリュスとサン=ルーとの間に引かれては消え失せ、また引き直されては消え失せることを繰り返す切断/接続の果てしない反復運動を指し示す。
ところが「初演」に続く「再演」の反復は遥か以前にもうアルベルチーヌについて語られている。アルベルチーヌはいつも一人で複数を演じることができた。しかしサン=ルーの役割は「再演」に限られていて全然トランス(横断的)でない。シャルリュスの後へ接木されたかのようだ。「戦争にかんしてサン=ルーが叔父と意見が合わなかったのは、サン=ルーがなによりもフランスを優先させる貴族の一派に属していたのにたいして、シャルリュス氏が結局は敗北主義者だった」というのは、この接木の効果の一つであり、丸々一世代の間隔が置かれたことを物語る。
さらにシャルリュス独特の「敗北主義」は第二次世界大戦でも「再演」された。一度は大西洋に至る地方都市までドイツ軍に占領されながら、しかし戦況はじりじり反転する。結局フランスは負けて勝った。
もっとも、「サン=ルーは叔父がときどき示した深い独創性にはたしかに及ばなかった」。叔父(シャルリュス)と甥(サン=ルー)との間にあるのは連続ではなく断絶であり、あらわになった裂け目であり、切断されることで始めて丸々一世代が過ぎたという事情を如実に見せる転倒である。プルースト作品があちこちばらばらに解体された諸断片のパッチワークであるように、問題はこの間歇性・断続性であるだろう。
とはいえ「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねる」のは、あちこちのサロンでしゃべりまくり、慎重に吟味された数々の言説を振り撒いて止まないシャルリュスのことだけを指しているのだろうか。それだけなのだろうか。むしろシャルリュスは「たえずことばを弄んでやまず偏狭な理屈をこねる」点でフランスのお家芸的な言説機械なのでは、というふうに見えてもくる。アルベルチーヌは身体で語ったがシャルリュスはむしろ言語記号の多産性の演出へ絶えず向かう。