白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・実質的パッチワーク「太平記」が<大手広告代理店>抜きで始まるかもしれない

2023年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

小説は連載初回から読みたい、後で幾つかの評価が定まる以前に目を通しておきたい、という欲望は子どもの頃から常にあった。今もある。ゆえに今年の三月号から思い出したかのようにいきなり毎月買うことにした「群像」も今日で早くも八月号の発売日。現在の政治に対する喘息発作的な違和感については今さら慌てて雄叫びを上げるつもりはないのでブログでその都度触れる程度に過ぎない。

 

文学雑誌に接するときはどの作品から読むと決めて身構えることはなく、むしろこれまで読まれてきたようには読まない習性が身に染みついている気楽な読者として今回さっそく目を通したのは町田康の新連載。

 

町田康「口訳 太平記 ラブ&ピース」『群像・2023・08・P.77~95』講談社 二〇二三年)

 

ささっと読めるだけでなく、「や、これはもしかするともっと面白くなるかも」、と思った。「太平記」の原文自体、けっして単純でなく、必要となればその都度まるで何ら関係のなかったエピソードを無理やりどんどん割り込ませて接合させ、さも重要この上ないエピソードであると大袈裟に喚き立てながら書き継がれてきた重層構造からなる古典であり、話の整合性など座礁してばかりでまったく釣り合いの取れない「反-物語」的物語だとおもうからである。大手広告代理店の匂いがするキャッチコピー的パンクまがいの新訳に陥らないことを期待させもするので。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ53

2023年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月七日(金)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

a/d缶を混ぜ込むと確かに完食してくれるとはいえもういい加減にカリカリだけの食事へ移行してもいい頃。初回ワクチン接種が六月十三日。次回は七月半ばの予定。あと一週間ばかりある。その間にカリカリだけにできるかというとなかなか難しいかもしれない。かといって躊躇しているといつまで経っても同じ状態をずるずる続けていってしまうのは目に見えている。

 

食事の量は多少減少するだろうが明日からa/d缶なしで進めてみようとおもう。a/d缶はあくまで栄養補助のためのもの。ワクチン接種後に多少体力が落ちる場合があるのでa/d缶の購入はその時にすればいいかもしれない。

 

実はまだ水分補給にへんてこな問題が残っている。水はいつも餌皿の横に置いていて普通ならそれで当たり前なのだが二代目タマはいまだ食事場所で飲んでくれない。わざわざキッチンのシンクに入ってくる。止めさせようと食後にシリンジで口から与える。と、ちろちろ舐めるよりごくごく飲むのを平気で好む。らっぱ飲みはいけないと思い、いろいろやり方を変えてみても少しずつちろちろだとかえってこぼしたり跳ね返したりしてしまう。結局ごくごく飲ませてもらうのが一番気にいるらしい。飼い主としては困るのである。


Blog21・サン=ルーのまなざしの複数性に気づく人と気づかない人

2023年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

サン=ルーの同性愛志向が明らかになってなお<私>はその詳細な消息について読者に語り続ける報告者<私>を生きなければならない。

 

ホテルのレストランでサン=ルーがひとりのボーイに投げかけたまなざし。<私>はそのまなざしに「まるで別種の好奇心と探究心」のあらわれを捉える。

 

「それは二秒とつづかなかったが、澄みきった洞察力を秘めたそのまなざしには、ほかの客がドアマンやコミをじろじろ眺めてそばの友人たちにユーモラスな指摘などをするときとはまるで別種の好奇心と探究心があらわれているように見えた」

 

もっとも、「サン=ルーは妻にしか話しかけず、ホテルのほかの部分はまるで眼中にないように見受けられた」。プルーストが警戒を怠らない「習慣」に従えばなるほどそう見える。そしてそう見ている限りサン=ルーの行動は「義務感から行動している」隙一つない身振りにしか見えない。

 

「サン=ルーは妻にしか話しかけず、ホテルのほかの部分はまるで眼中にないように見受けられたが、ひとりのボーイが注文をとりにすぐそばへ来たときだけ、明るい両の目をすばやくあげて、その男にまなざしを投げかけた。それは二秒とつづかなかったが、澄みきった洞察力を秘めたそのまなざしには、ほかの客がドアマンやコミをじろじろ眺めてそばの友人たちにユーモラスな指摘などをするときとはまるで別種の好奇心と探究心があらわれているように見えた。興味などなさそうにちらっと投げかけられたこの一瞥は、サン=ルーがこのボーイ自身に関心をいだいていることを示すものにほかならず、それを目撃した人たちには、この殊勝な夫、かつてはラシェルに情熱を傾けたこの愛人が、その生活においてべつの面を持っていること、そちらのほうが義務感から行動している面よりもはるかに本人の関心を惹くことがらであることが明らかになった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.591~592」岩波文庫 二〇一七年)

 

ところが。

 

「しかし世間の人は、義務感から行動しているサン=ルーしか見ていなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.592」岩波文庫 二〇一七年)

 

もとよりサン=ルーには周囲の目を欺くつもりはまるでない。嘘つきでもない。むしろボーイに向けて「二秒とつづかなかった」その身振りだけで<記号>は十分に機能したというべきだ。ジュネならそれを間違いなく「歌」だというだろう。ジュネは自分の身体でそれを生きた。

 

報告者<私>に仕事を与え続けてくれていたものは一体何か。これまでがそうだったように今後も<身振り/記号>だということがますます確かになってくるだろう。プルーストにとって「習慣」というものは、膨大な質量の情報をあっけなく覆い隠す政治的かつ社会的装置にほかならないが、あえて厄介払いしない。むしろあちこちに放置しておく。そしてその滑稽を優雅だがうねうねとまがりくねったユーモラスな文体で照らし上げて微笑む。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて473

2023年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

今後は母の抗がん剤治療、検査、検査入院などに応じて早朝からの読書が主軸。

 

午前五時のキッチンに母の姿がある。今朝も黙々と食事のしたくをしている。

 

前夜に炊いておいた固めの粥。豆腐にヤマキの白だし。水で揉み洗いしてさらに表面の皮を削ぎ落とし極力塩分を抜いた茄子の漬物。半月前とほぼ変わらないメニュー。

 

自宅療養となると病院食はとても無理なので症状の変化に合わせてあれこれ手探りしていくことになる。手始めに今朝は白菜の浅漬けを加えてみた。入院中は白菜なら食べられたと言っていたので。

 

とはいえ、あらかじめ購入しておいた既成品。病院食とは根本的に異なっている。それでも見た目はごく普通に見えるし食べられそうにも見える。実際、半年前の母なら食べていた。タッパーに移して一晩冷蔵庫に入れておいたもの。

 

今朝食べてみると「やっぱり固い、ちょっと無理」だという。準備しておいた妻のことを考えて「せっかく用意してくれてはったんやけどーーー」とねぎらいの言葉を洩らしつつ、なかなか食事がうまくいかないことに諦めの色が濃く漂っている。

 

しかし、ねぎらいの言葉といっても妻は病気治療のため午前五時頃はまだ睡眠中で寝ている。では誰がねぎらいの言葉を聞いているのかというと早起きの二代目タマ。二十分くらいの朝の食後の運動を終えてやっとおとなしくテーブルの椅子で横になる頃。さんざん走り回ったあと人間が何か言っているのに耳を傾けている様子である。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・大江健三郎あるいは<様々なる暴力>5

2023年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

奴隷は労働を通して主人が達成したのと同じ次元に到達することができる。あるいは主人は奴隷の労働によってのみ生きるしかできない以上、主人の生命を保証するのは奴隷の側であり奴隷の優位性という承認の契機が立ち現れる。コジェーヴによるヘーゲル「主人と奴隷との弁証法」の有名な主旨である。

 

「実際、《主》は《闘争》において自己の生の《本能》に打ち克つことによって自己の自由を実現していた。だが、《他者》のために労働することによって《奴》もまた自己の《本能》に打ち克ち、ーーーそれによって思惟や学問へと自己を高め、観念に基づき《自然》を変貌させながらーーー《自然》と《自己の》『《自然》』、すなわち《闘争》に際して彼を支配し彼を《主》の《奴》と為したほかならぬあの《自然》を支配するに至る。したがって、自己の《労働》により、《奴》は《主》が《闘争》において生命を危険に晒して辿り着いたものと同じ結果に辿り着く」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.65」国文社 一九八七年)

 

見た目ばかりなるほど奇妙に見えはするが事実上の歴史的転倒。大江健三郎「不満足」のラストで鳥(バード)はもう子供ではなく、労働を通して「その工員たちとおなじ静かな大人のひとりである」。

 

「かれらは一日の労働をまえにして健康で生きいきとし、そしてどっしりと重い屈託と生命感とをうちにひめていて、そして鳥(バード)たちに無責任な好奇心をしめすことはなく、無関心に自分に閉じこもり、自転車で工場へ走ってゆく。鳥(バード)は自分がもう昨日までの苛(いら)だたしい不満足から解放されていることで、その工員たちとおなじ静かな大人のひとりであることを感じた」(大江健三郎「不満足」『空の怪物アグイー・P.67~68』新潮文庫 一九七二年)

 

それは一種の勇敢な<ドラマ>だ。しかし<性的人間>ということにこだわった大江健三郎は<主人と奴隷との弁証法>で展開される予定調和を<つなぎ間違わせ>、人間の<性>を<反-ドラマ>へ転倒させるものとしてを見ていると峰尾俊彦はいう。大江作品に見られる定番的な<不整合><裂け目><分裂>とそれら<和解不可能なもの>同士を媒介なしに<接合>させてしまう小説家としての暴力性。

 

大江作品に頻出する強姦のテーマは多くの評論家たちに取り上げられてきた。しかし堕胎のテーマを取り上げる評論家はそれほど多くない。さらにタイトル自体「性的人間」と銘打っているだけでなく実際に登場させている痴漢のテーマについて、ほとんど述べられたことはないように思える。峰尾俊彦は痴漢をテーマとするや否や出現する<救済>と<狂気>との<つなぎ間違い>を大江健三郎による確信的かつ意図的な狙いとして論考している。次のような箇所を引用しつつ。

 

「川におちこんだ女の子供を、ある勇敢な男が、瓶(びん)のかけらや板ガラスの破片でぎっしりつまった川床にとびおりて救ったのだ。女の子供は仔犬(こいぬ)かなにかのように無器用にうかんだままでいて、無傷だったが、男は跳(と)びおりて足を怪我(けが)し尻(しり)もちまでついて腰から下を傷だらけにし、そして血みどろで濡れそぼったまま恐慌にかられて市の中央の方へ逃げ去ってしまったーーー

 

ーーーなぜ逃げたんだかなあ?ガラスが足に刺さったのさえぬかずに駈けて逃げたなんて、気《ちがい》だ、と鳥(バード)はいい、自分の言葉にぎくりとひっかかって唾(つば)をのみ唇をなめていた。

 

ーーー痴漢なんだねえ、と頬をあからめたままの、内気でおしゃべりの市民が悲しげにいった。その男は昼まから橋桁(はしげた)のしたで寝そべっていたんだが、夕暮になって橋の上にでてきたんだよ。そして通りかかる人間に、この世は地獄かそうでないかなどと、ばかなことを聞いていた、一種の特殊な乞食(こじき)だねえ。それから女の子供がやってきたら、裸になってくれと頼んだんだ。痴漢だ。そして女の子供がヒステリーをおこして泣きわめいて川に落ちこんだのを、助けたわけだ。痴漢だったんだよ」(大江健三郎「不満足」『空の怪物アグイー・P.34』新潮文庫 一九七二年)

 

さらに畳みかけてみる。人間がどうしようもなく「性的人間」であるとはどういうことか。この問いについて自明であるとは決して誰にも言えないだろう。峰尾俊彦はこう述べる。

 

「『性的人間』においても、『痴漢』が人命救助者と結び付けられるという構図が反復されていることを考えれば、『痴漢』という形象が、徹底して最悪のものと至高のものの間の『視差』において小説内で捉えられていることは強調されなくてはならないだろう」(峰尾俊彦「性的人間のつなぎ間違い」『ユリイカ・大江健三郎・P.466』青土社 二〇二三年)

 

ではその「性的人間」のワンシーンから。

 

「一時間後、Jと老人は畝火町のホテルの酒場のソファに肩をならべて坐(すわ)り、おたがいにそれぞれの掌(て)のグラスが震えるのを見つめながら黙りこんでいた。Jは幼女を胸にだきしめた若い母親が嗚咽(おえつ)しながらまわりを囲んだ群衆にくりかえし訴えかけていた言葉を思いだしていた、《あの人は神様です、わたしの子供がわたしを見てプラットフォームから線路にとびだしてきた時、もう誰にも、わたしの子供は殺されてしまうことがわかっていたんです、わたしにも!それを神様のあの人が救(たす)けてくれたんです、そして可哀想(かわいそう)に、ああ!》

 

『あの少年はやはり痴漢としてしか生きようのない人間だったんだよ、そう考えれば、わたしにもいくらかの惨(みじ)めな平安があたえられるんだ』と老人がいった。『そして痴漢は、あの少年のように死を賭(と)しても痴漢でありつづけるほかない、危険な人間だと思うんだよ。われわれのように安全を心がけた痴漢のクラブは薄められた毒を飲む機関にすぎないように思うんだ』」(大江健三郎「性的人間・P.112」新潮文庫 一九六八年)

 

「『救済』と『狂気』がないまぜとなり、『狂気』の局面と『救済』の局面が明滅を繰り返す、つなぎ間違いだらけの『前衛映画』のごとき反-ドラマ」(峰尾俊彦「性的人間のつなぎ間違い」『ユリイカ・大江健三郎・P.467』青土社 二〇二三年)

 

帳尻が合うようなことは決してない。大江健三郎はそのことを多くの書物や経験から学んだのだろうが、「『救済』と『狂気』がないまぜとなり、『狂気』の局面と『救済』の局面が明滅を繰り返す、つなぎ間違いだらけの『前衛映画』のごとき反-ドラマ」という小説のありようについて、おそらく最も多くをドストエフスキーに負っているように思えてならない。