奴隷は労働を通して主人が達成したのと同じ次元に到達することができる。あるいは主人は奴隷の労働によってのみ生きるしかできない以上、主人の生命を保証するのは奴隷の側であり奴隷の優位性という承認の契機が立ち現れる。コジェーヴによるヘーゲル「主人と奴隷との弁証法」の有名な主旨である。
「実際、《主》は《闘争》において自己の生の《本能》に打ち克つことによって自己の自由を実現していた。だが、《他者》のために労働することによって《奴》もまた自己の《本能》に打ち克ち、ーーーそれによって思惟や学問へと自己を高め、観念に基づき《自然》を変貌させながらーーー《自然》と《自己の》『《自然》』、すなわち《闘争》に際して彼を支配し彼を《主》の《奴》と為したほかならぬあの《自然》を支配するに至る。したがって、自己の《労働》により、《奴》は《主》が《闘争》において生命を危険に晒して辿り着いたものと同じ結果に辿り着く」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.65」国文社 一九八七年)
見た目ばかりなるほど奇妙に見えはするが事実上の歴史的転倒。大江健三郎「不満足」のラストで鳥(バード)はもう子供ではなく、労働を通して「その工員たちとおなじ静かな大人のひとりである」。
「かれらは一日の労働をまえにして健康で生きいきとし、そしてどっしりと重い屈託と生命感とをうちにひめていて、そして鳥(バード)たちに無責任な好奇心をしめすことはなく、無関心に自分に閉じこもり、自転車で工場へ走ってゆく。鳥(バード)は自分がもう昨日までの苛(いら)だたしい不満足から解放されていることで、その工員たちとおなじ静かな大人のひとりであることを感じた」(大江健三郎「不満足」『空の怪物アグイー・P.67~68』新潮文庫 一九七二年)
それは一種の勇敢な<ドラマ>だ。しかし<性的人間>ということにこだわった大江健三郎は<主人と奴隷との弁証法>で展開される予定調和を<つなぎ間違わせ>、人間の<性>を<反-ドラマ>へ転倒させるものとしてを見ていると峰尾俊彦はいう。大江作品に見られる定番的な<不整合><裂け目><分裂>とそれら<和解不可能なもの>同士を媒介なしに<接合>させてしまう小説家としての暴力性。
大江作品に頻出する強姦のテーマは多くの評論家たちに取り上げられてきた。しかし堕胎のテーマを取り上げる評論家はそれほど多くない。さらにタイトル自体「性的人間」と銘打っているだけでなく実際に登場させている痴漢のテーマについて、ほとんど述べられたことはないように思える。峰尾俊彦は痴漢をテーマとするや否や出現する<救済>と<狂気>との<つなぎ間違い>を大江健三郎による確信的かつ意図的な狙いとして論考している。次のような箇所を引用しつつ。
「川におちこんだ女の子供を、ある勇敢な男が、瓶(びん)のかけらや板ガラスの破片でぎっしりつまった川床にとびおりて救ったのだ。女の子供は仔犬(こいぬ)かなにかのように無器用にうかんだままでいて、無傷だったが、男は跳(と)びおりて足を怪我(けが)し尻(しり)もちまでついて腰から下を傷だらけにし、そして血みどろで濡れそぼったまま恐慌にかられて市の中央の方へ逃げ去ってしまったーーー
ーーーなぜ逃げたんだかなあ?ガラスが足に刺さったのさえぬかずに駈けて逃げたなんて、気《ちがい》だ、と鳥(バード)はいい、自分の言葉にぎくりとひっかかって唾(つば)をのみ唇をなめていた。
ーーー痴漢なんだねえ、と頬をあからめたままの、内気でおしゃべりの市民が悲しげにいった。その男は昼まから橋桁(はしげた)のしたで寝そべっていたんだが、夕暮になって橋の上にでてきたんだよ。そして通りかかる人間に、この世は地獄かそうでないかなどと、ばかなことを聞いていた、一種の特殊な乞食(こじき)だねえ。それから女の子供がやってきたら、裸になってくれと頼んだんだ。痴漢だ。そして女の子供がヒステリーをおこして泣きわめいて川に落ちこんだのを、助けたわけだ。痴漢だったんだよ」(大江健三郎「不満足」『空の怪物アグイー・P.34』新潮文庫 一九七二年)
さらに畳みかけてみる。人間がどうしようもなく「性的人間」であるとはどういうことか。この問いについて自明であるとは決して誰にも言えないだろう。峰尾俊彦はこう述べる。
「『性的人間』においても、『痴漢』が人命救助者と結び付けられるという構図が反復されていることを考えれば、『痴漢』という形象が、徹底して最悪のものと至高のものの間の『視差』において小説内で捉えられていることは強調されなくてはならないだろう」(峰尾俊彦「性的人間のつなぎ間違い」『ユリイカ・大江健三郎・P.466』青土社 二〇二三年)
ではその「性的人間」のワンシーンから。
「一時間後、Jと老人は畝火町のホテルの酒場のソファに肩をならべて坐(すわ)り、おたがいにそれぞれの掌(て)のグラスが震えるのを見つめながら黙りこんでいた。Jは幼女を胸にだきしめた若い母親が嗚咽(おえつ)しながらまわりを囲んだ群衆にくりかえし訴えかけていた言葉を思いだしていた、《あの人は神様です、わたしの子供がわたしを見てプラットフォームから線路にとびだしてきた時、もう誰にも、わたしの子供は殺されてしまうことがわかっていたんです、わたしにも!それを神様のあの人が救(たす)けてくれたんです、そして可哀想(かわいそう)に、ああ!》
『あの少年はやはり痴漢としてしか生きようのない人間だったんだよ、そう考えれば、わたしにもいくらかの惨(みじ)めな平安があたえられるんだ』と老人がいった。『そして痴漢は、あの少年のように死を賭(と)しても痴漢でありつづけるほかない、危険な人間だと思うんだよ。われわれのように安全を心がけた痴漢のクラブは薄められた毒を飲む機関にすぎないように思うんだ』」(大江健三郎「性的人間・P.112」新潮文庫 一九六八年)
「『救済』と『狂気』がないまぜとなり、『狂気』の局面と『救済』の局面が明滅を繰り返す、つなぎ間違いだらけの『前衛映画』のごとき反-ドラマ」(峰尾俊彦「性的人間のつなぎ間違い」『ユリイカ・大江健三郎・P.467』青土社 二〇二三年)
帳尻が合うようなことは決してない。大江健三郎はそのことを多くの書物や経験から学んだのだろうが、「『救済』と『狂気』がないまぜとなり、『狂気』の局面と『救済』の局面が明滅を繰り返す、つなぎ間違いだらけの『前衛映画』のごとき反-ドラマ」という小説のありようについて、おそらく最も多くをドストエフスキーに負っているように思えてならない。