バイエルンのある侯爵夫人を母に持つシャルリュスはフランスで暮らせば暮らすほどフランスの帝国主義的愛国主義という単純素朴なナショナリズムから遠ざかる。耳ざわりで仕方がない。もっとも、シャルリュスのドイツ贔屓は一方で長くフランスで暮らす大貴族ゲルマントの一員でありながら、もう一方でドイツ出身の母を持ちドイツ国籍をも持つという単なる両義性から到来しているわけでない。たったそれだけの理由で安易に引き裂かれてしまうような頑固ではた迷惑な強靭な精神力の持ち主ではまるでなく、逆にもっと多極的で捉えどころのない豊潤すぎる柔軟性ゆえに周囲の目にはたいそう偏屈に映って見える。
さらに「強い気持ち」とか「強いメンタル」とかいう融通の効かない面倒な精神の持ち主ならとっくの昔に引き裂かれて絶望し早々に自殺してしまうか、もっと無自覚な場合、戦争期間中に限り帝国主義的ナショナリストとして振る舞い、他人にもそう振る舞うよう仕向ける戦争犯罪者になった。ヴェルデュラン夫人とその取り巻きたちは後者であり、その庇護の下にあるモレルのような音楽家も戦争犯罪を煽り立てる側に回ってせっせとシャルリュスを弾劾することに夢中だ。シャルリュスはそこまで無邪気な馬鹿になれないがゆえにプルーストも今後長々とシャルリュスに注目する。
戦争が始まる少し前。シャルリュスに対する誹謗中傷は男性同性愛をあげつらうばかりで酷評したつもりになっていた。ところが戦争が始まると今度はシャルリュスのドイツ国籍をもけたたましく誹謗中傷するようになる。マス-コミが演出する「フランクフルトの叔母(タント)」という同性愛者差別と国籍差別との連発。「このうえなく高位にして権勢並びなきアナスタジーの奥方がこれをキャビアに」という典型例も出てくる。「アナスタジー(検閲)せよ!」とか「もっとキャビアを(大きなハサミで切り取れ)!」という意味。
一方語り手は社交界の粗暴な出来事とはまた違うちょっとした微妙な部分へ読者の注意を振り向ける。モレルの言葉遣いの多重性。
「私は以前、ベルゴットが話すときには、独特のやりかたでことばを選んでそれを声にしていたことを指摘した。モレルは、サン=ルー家で長い期間にわたってベルゴットに会っていたときベルゴットの『ものまね』をして、ベルゴットが使いそうな同じことばを用いてその声を完璧に模倣していたのである。それでいまやモレルは、文章を書くにあたりベルゴット流の会話を書き写していただけで、その会話に変更を加えてベルゴット流の書きことばにすることはしなかった。ベルゴットとじかに話した人はめったにいなかったから、文体とは異なるその口調に気がつく人はいなかった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.208」岩波文庫 二〇一八年)
(1)ベルゴットの声の『ものまね』を文章へ「書き写していただけ」。
(2)ベルゴットの「文体とは異なるその口調」。
モレルが用いた一つの文体。しかしプルーストから見れば決して一つではありえない。モレルが書いた文章はベルゴットの声の調子から出来上がっている。声でしかない以上、ベルゴットが書くときの文体とはそもそも違っている。ところがその違いだけではただ単に書き言葉と話し言葉との両義的な二重性へ言及したに過ぎない。プルーストはそこまで無邪気でなく単純でもない。
モレルが用いる言葉はどれも、これまでモレルが生きていた周囲にひしめく何人もの人間たちの言葉からできている。モレルには中身がない。からっぽだ。借りてきた引用ばかりで埋め尽くすのがせきの山。しかしこの事情はモレル一人に限った事情なのだろうか。人間は生まれ落ちたその瞬間から大人のようにべらべらしゃべり始めるのだろうか。そんなことは全然ない。周囲の人間、さらには生きているあいだ、意識するしないにかかわらず、これまで接して取り入れた無数の人間の文体や言葉遣いからも出来上がっている。モレルは両義的であるどころかそもそも限りなく無数に等しい複数性としてしか存在しない。
この事情は人間は誰もが始めは幼児であるという避けがたい条件から生じてくる。例えば、始めて友人の身近な人々や友人がこれまで愛読愛聴してきた事物と接する機会を持ったとしよう。その時になって突如、その友人が常日頃から用いている身振り(口調・振る舞い・文体)その他もろもろが、実は友人自身の内部から湧いて出てきたものではまるでなく、友人がまだ幼児だった頃に身近にいた人々やこれまで愛読愛聴してきたまったくほかの事物の引用であり織物でしかないことに気付かされてたいそう驚く。そんな経験は誰にでもある。プルーストはそういうありふれた事例へ読者の注意を差し向けて教える。