白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ51

2023年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月五日(水)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

二代目タマの食後の運動。初代タマは特に時間帯を指定してくるようなことはなかった。ところが二代目はどうも朝食後の運動がとても好みに合うようだ。その次が午後十時過ぎから日付が変わる時間帯で、わざわざ玩具を口にくわえ、小走りにせっせと飼い主のそばへやって来てぽとりと落とす。落とすと一度身を引き退いて、飼い主が玩具を左右上下へ振り分けまわすのを見極めつつ、まだ小さな尻をぷるぷると振るわせながら待ち構える。

 

というのはよくある光景。しかし猫はいつも同じことをするとは必ずしも限らない。玩具を口にくわえたままテーブルの下を通り抜け、さらにこたつの下を通り抜け、リビングの隅に置いてある籐の椅子の下の薄暗がりへもぐり込んでまだ離さない。覗き込んでみると目の光は見えるが表情というほどのものはあるのかないのか判然としない。たいがいは身振り仕草で判断するしかないので飼い主は知らないふりをしてこたつの上に広げた本へ目を戻し、猫が籐椅子の下から出てくるのを待つことにする。長くて六秒くらいだろう、籐椅子の下から玩具をくわえたままたったと小走りに出てきてこたつの下を通り抜け、さらにテーブルの下を通り抜ける。

 

どこへ行くかというと思いがけずトイレに飛び込む。またすぐに飛び出すことのほうが多いが、ときどきそのまま小便し始めたりするのでトイレの中で小便へ向けて姿勢を正したと見るや汚さないようすぐに玩具を取り上げないといけない。そのあいだ、飼い主は読書へ戻ったとしても二ページも読み進んでいない。

 

猫はいつも予定通りに動いてくれるとは限らない。猫は「お約束」を知らない。ステレオタイプ(紋切型)を知らない。むしろ「お約束」を自分で作り、壊し、また作り直す。おそらく、その都度、新しく作り直しているように見える。猫はテーブルの下や椅子の脚をくぐり抜けるというより明らかに通り抜けている。猫は自分で自分の道をその都度作っているかのようだ。


Blog21・コンブレーの全体主義と言語記号

2023年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

ジルベルト(スワンの娘)の結婚についてコンブレーの人々が盛り上がるのは第一にジルベルト自身に関してではない。ジルベルトの母(=オデット)とシャルリュスとの関係についてである。人々は口々にいう。

 

「おまけにその結婚の立会人ときたら、シャルリュス<男爵>なんて呼ばせてるあの年寄り、その昔、すでに母親のほうを公然と囲ってたあの男」

 

「母とかつて親しくしていた女性たち、多かれ少なかれコンブレーと関係のある人たちが、ジルベルトの結婚の件を話すため母に会いに来た。女性たちはこの結婚にいささかも幻惑されていなかった。『フォルシュヴィル嬢ってだれのことかご存じでしょう、なんのことはない、スワンの娘ですよ。おまけにその結婚の立会人ときたら、シャルリュス<男爵>なんて呼ばせてるあの年寄り、その昔、すでに母親のほうを公然と囲ってたあの男ですよ、スワンも特になるからと黙認していたとか』」プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.581~582」岩波文庫 二〇一七年)

 

読者から見ればどうしてそういう話になるのだろうと首を傾げたくなる。しかしそういう話になるのである。

 

地方都市(ここではコンブレー)の民衆にありがちな差別主義的団結力を暴露しているのはプルーストなのだが、この種の差別主義的団結力はこれまで長々と暴露されてきた上流社交界の内部にのみ巣食っているわけではなく、さらに地方都市であろうと上流社交界であろうと、両者ともに持ち合わせている手に追えない差別主義的スノビズムが同質のものだと言っているわけでもない。上流社交界のスノビズムは下へ向けて地方都市の民衆を全面的に嘲笑しており、地方都市の民衆のスノビズムは上へ向けて媚びへつらいつつあわよくば縁組の一つでも手に入れて中へ食い入ろうと狙っている。違いはあるのだ。しかし問題は依然として次の箇所にとどまったままだ。

 

「おまけにその結婚の立会人ときたら、シャルリュス<男爵>なんて呼ばせてるあの年寄り、その昔、すでに母親のほうを公然と囲ってたあの男」という言葉。この、まことしやかな大嘘はそもそもどこから割り込んできたのだろうか。地方都市であろうと上流社交界であろうといずれにしても共通して見られる社会的条件からである。

 

両者ともに<他者>がいない。あるいは<他者>を持とうとも<他者>と接触しようともしない。という極端な閉鎖性がこのような大嘘をまことしやかに流通させてしまう。ニーチェ流にいえば<無知への意志>とでも呼べそうな倒錯した<覗き見趣味>が上流社交界にも地方都市にも所狭しと横溢している。しかしオデットにシャルリュスを同行させるよう配慮していたのはスワン自身だ。スワンは作品中に登場してくる人物の中でも飛び抜けて孤独な芸術家肌だが、様々な恋愛のあり方については破格の通人であってシャルリュスが男性同性愛者であることをよく承知している以上、妻オデットにシャルリュスをいつも同行させるのは他の男性異性愛者を同行させるより遥かに安心安全であり、まったく無害だからであった。

 

「オデットの相手がシャルリュス氏だとわかるたびに、スワンは喜んだ。シャルリュス氏とのあいだには何もおこりえないうえ、同氏がオデットと出かけるのはスワンへの友情のためで、なにをしたかをすぐに報告してくれるのがわかっていたからである。ときにオデットがきわめて断定的にこれこれの夜はどうしても会えないと言い張り、なんとしても出かけたい顔をするときなど、スワンにはシャルリュス氏が都合よくオデットの相手をしてくれるのはほんとうにありがたいことだった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.287」岩波文庫 二〇一一年)

 

だから「おまけにその結婚の立会人ときたら、シャルリュス<男爵>なんて呼ばせてるあの年寄り、その昔、すでに母親のほうを公然と囲ってたあの男」という<無知への意志>から生じた大嘘は、コンブレーの民衆によって捏造されたまったくの全体主義的偏見のたまものというほかない。その意味で地方都市、例えば第二次世界大戦前夜のドイツのミュンヘンの群衆から大々的なナショナリズムが生じたのは必ずしも不思議でない。東アジアの辺境たる日本から壮大無辺な大アジア主義が生じたのもまた不思議でない。そして両者ともに取り返しのつかない大敗北を喫したこともさほど不思議に思えない。

 

だがここでプルーストが言わんとしているのはそういうこととは少し違う。むしろそういうことを作品の中で生じさせていくのは何かという問いである。そしてそれはいつも<言葉>だというずっと足元の問題であるに違いない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて471

2023年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

今後は母の抗がん剤治療、検査、検査入院などに応じて早朝からの読書が主軸。

 

午前五時のキッチンに母の姿がある。七月三日(月)に退院してきた。昨日四日(火)はPET CT検査のため絶食だったので朝食は抜き。入院が六月十四日(水)だから半月ぶりくらいになるだろう、今朝は黙々と食事のしたくをしている。

 

前夜に炊いておいた固めの粥。豆腐にヤマキの白だし。水で揉み洗いしてさらに表面の皮を削ぎ落とし極力塩分を抜いた茄子の漬物。半月前とほぼ変わらないメニュー。様子を見ながらタマの朝食準備にかかろうとすると、味付け海苔を取ってほしいという。どこにあったかなとキッチンの引き出しをごそごそ探して手渡す。

 

朝食はご飯を粥にしたほかは以前と変わらず。タマが足元でせっついてくるのでフードの用意をしている間にちゃっちゃと食べたようだ。水をひたした食器がシンクの隅に置いてある。

 

夜中の体調が気になるところだが昨日の夕食後は入院前すでに出ていたような腹部不快感を覚え、日付けが変わる頃にプリンペランを服用。午前三時頃にようやくすっきりしたとのこと。母はこれまで睡眠薬を用いる習慣がないので膵臓癌から来る不快感が収まるまでベッドの上で三時間ばかり目覚めたままじっとしていたことになる。

 

もっとも高齢者の場合、たいてい何らかの抗不安薬や眠剤を服用して寝ることが多く、我慢の時間をしらふでいるというケースは少ない。内科、外科を問わず。だが母の場合はそうではない。何を考えているのかいないのか、ともかく自分の身体と向き合わなければならない。余命長くて三年らしいが本人はため息まじりに、「これが、三年も」、とすでに疲れた表情で言いもする。一方、胆道ステント設置後、それまで抱え込んでいた全身倦怠感が思いのほか早く改善されたのが救いにおもえる。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・大江健三郎あるいは<様々なる暴力>3

2023年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

ヤングケアラーという言葉が広がりを見せてきたのはここ数年にも満たない。

 

村上靖彦「多元的な宇宙のはざまで」(『ユリイカ・大江健三郎・P.379~392』青土社 二〇二三年)から。

 

村上靖彦が大江作品を通して抽出するヤングケアラーとはどのような存在か。それは最初期作品発表時点ですでに登場している。次の場面では作曲家Dを気づかう<幽霊>として出現する。

 

「かれは自分の右腕を肩から水平にのばし、それで輪をつくり、その輪のいくらか上のあたりを懐(なつ)かしげに深ぶかと覗きこんでいるのだった」(大江健三郎「空の怪物アグイー・P.177~178」新潮文庫 一九七二年)

 

また別の作品では、ある種の勘違いを起こしつつ父の足を気づかう。

 

「ーーーイーヨー、足、大丈夫だよ、痛風じゃないからね、大丈夫だよ、と僕は息子がつぶやいているほどの声音でいった。すると息子は、まぶしそうではあるがすでに僕の出発前のかれの眼にもどってこちらを見あげ、ーーー《ああ、大丈夫ですか、善い足ですねえ!本当に、立派な足です!》といったのである」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.24」講談社文芸文庫 二〇〇七年)

 

障害児としての自分の死についての意識がいつも頭から離れないがゆえに逆説的にほとばしる次のような<死への>言葉が湧き出てもくる。

 

「ーーーイーヨー、だめでしょう、そういうことをしていては!と妻がいう。私たちが死んでしまった後は、妹と弟の世話にならなければならないのよ。いまみたいなことをしていたら、みんなから嫌われてしまうわ。そうなったらどうするの?私たちが死んでしまった後、どうやって暮らすの?

 

僕は、ある悔いの思いにおいて納得した。そうだ、このようにしてわれわれは、息子に死の課題を提出しつづけていたのだ、それも幾度となく繰りかえして、とーーーところがこの日、息子はわれわれの定まり文句に対して、まったく新しい応答を示したのだった。《ーーー大丈夫ですよ!僕は死ぬから!僕はすぐに死にますから、大丈夫ですよ!》」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.24」講談社文芸文庫 二〇〇七年)

 

周囲の無理解は常にある。匿名の脅迫者からの言葉に対して父は障害児イーヨーとの関係に逆に未来を見出す。

 

「ーーー国家、社会に責任を持つ者らはアメリカ、ヨーロッパ、日本を問わず、巨大核シェルターにたてこもって核戦争を生き延び、ソヴィエト壊滅(かいめつ)後の世界を再建しなければなりません、と手紙の主はいうのであった。平常時においては娯楽も必要でしょうが、非常時には、作家は社会に寄生する無用物であり、障害児はさらにそうでしょう。実際の話、作家と障害児とで、核戦争後の世界を再建できるでしょうか?家一軒、建てられないのではないでしょうか?無力感を持つ者は敗北主義におちいります。そのような者たちが、ソヴィエト独裁ファシズムとの、絶対に避けることのできぬ核対決に日々献身している、自由陣営の働き手に向けて悪性を放つのですか。これ以上世に害毒を流さぬよう、貴君の障害児とともに、自殺とはいわぬまでも沈黙なさってはいかがでしょう?

 

僕がこの手紙の書き手の論理を、正当に押し返しえぬと思ったのではなかった。むしろ手紙の論理そのものはやがて意識から離れて、核戦争後よく生き延びえたとして、僕がイーヨーと二人、迫ってくる黒い雨を避けるための仮小屋を建てようとする、というイメージが固着していたわけなのだ」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.212~213」講談社文芸文庫 二〇〇七年)

 

福祉作業所建設反対問題をめぐる有名なシーン。ヤングケアラー<イーヨー>の言葉はオブラートに包まれて見えはするが、そのじつ<切れば血の出る>生々しいものだ。

 

「バスに乗ってから、イーヨーにあの女性たちからどういうことを聞かれたのかと質(たず)ねたが、かれはなお険(けわ)しい顔つきで黙ったままである。その僕に、同じバスに乗り込んできていたさきの母親が、乗り合わせている人びいとみなに聴き耳をたてさせるほどの語調で説明した。ーーーあの人らは自分のマンション脇に福祉作業所ができるので、反対しておるとですよ。そこで今日はこちらまで偵察に来たとですよ。ずっと工事妨害はするし、子供の遊び場を奪うなと新聞に投書をするし、この間は、金を一千万円出す、身障者のヴォランティア活動もする、とまでいいだして、本当に馬鹿にしとるとですよ。マンションの脇に作業所を建てさえしなければ、そうしたことをしてくれるとです。私らの子供を汚ないもののように見ておるとですよ。

 

帰宅して、僕にあわせ妻から問いかけられても、この日三人の女たちがなにをたずねたのかをイーヨーは決していわなかった。あの三人が、福祉作業所に反対する運動のなかからやって来ていたのであるのかどうかも、さだかではなかったのである。四、五日たって、夕暮のテレヴィ・ニュースをイーヨーともども家族で見ていると、問題の建設現場が映し出された。作業再開ということで、マンション側の運動のメムバーに急を告げる鐘が鳴らされ、主婦たちが非常階段を駈けおりてくる。子供らも加えて金網ごしに市の作業員へ抗議する彼女らの顔つき、躰(からだ)つき、身のこなし、みなに滲(にじ)み出ている、ある高さの生活水準。それらはイーヨーに作業所前で話しかけたスエードのコートと皮ブーツの女性たちの、ふだん着姿というふうにも感じられたのだが。当のイーヨーはアナウンスを聞いて、ーーー《あーっ、作業所建設に反対ですか!これは、困りました!》といっている。そこでもう一度、この間作業所の前で三人の女の人たちからなにを聞かれたのかと、あるいはなにをいわれたのかと、きみは怒るか困るかしてじっとうつむいていたじゃないか、と質ねると、ーーー《もういいよ!止めましょう!》とイーヨーは強くいって顔をそむけてしまったのだ。おなじテレヴィを見て、妻もやはり微妙に僕の視線をさけるふうにしながら、次のようにいっていた。ーーー私らの子を汚ないもののように見ていると、若いお母さんがいわれたそうだけれども、私は、この人たちがなにか恐ろしいものに攻めてこられると感じているように思う、と妻はいったのだが。Yさんが使われる言葉でいえば、恐ろしいものに自分らの生活が『侵犯』されると、マンションの人たちは感じているように思うわ」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.254~256」講談社文芸文庫 二〇〇七年)

 

大江健三郎自身、生まれてくる息子が障害児だとわかった時、自分の中にある<優生思想>に気づかなかったわけではない。ノーベル文学賞受賞記念講演の中でこう語った。

 

「広島に太田川という川があります。大きい川です。死者を弔うためにそこに燈籠を流します。水に浮かぶ紙と木のランターンに火をともして。あのように大きい死者が出た場所ですから、じつに多くの人たちがそれを流します。私も燈籠をひとつ手に入れて、それに弔うべき名前を書いた。『光』という私の子供の名前を書いたのです。その時、まだ子供は病院の特児室で生きていたのです」(大江健三郎「あいまいな日本の私・P.28」岩波新書 一九九五年)

 

言い換えれば「殺そう」とした。その是非を問うているわけではない。大江健三郎みずから、かつて自分自身の中に<優生思想>が根を張っていたことを告白したのである。