ヤングケアラーという言葉が広がりを見せてきたのはここ数年にも満たない。
村上靖彦「多元的な宇宙のはざまで」(『ユリイカ・大江健三郎・P.379~392』青土社 二〇二三年)から。
村上靖彦が大江作品を通して抽出するヤングケアラーとはどのような存在か。それは最初期作品発表時点ですでに登場している。次の場面では作曲家Dを気づかう<幽霊>として出現する。
「かれは自分の右腕を肩から水平にのばし、それで輪をつくり、その輪のいくらか上のあたりを懐(なつ)かしげに深ぶかと覗きこんでいるのだった」(大江健三郎「空の怪物アグイー・P.177~178」新潮文庫 一九七二年)
また別の作品では、ある種の勘違いを起こしつつ父の足を気づかう。
「ーーーイーヨー、足、大丈夫だよ、痛風じゃないからね、大丈夫だよ、と僕は息子がつぶやいているほどの声音でいった。すると息子は、まぶしそうではあるがすでに僕の出発前のかれの眼にもどってこちらを見あげ、ーーー《ああ、大丈夫ですか、善い足ですねえ!本当に、立派な足です!》といったのである」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.24」講談社文芸文庫 二〇〇七年)
障害児としての自分の死についての意識がいつも頭から離れないがゆえに逆説的にほとばしる次のような<死への>言葉が湧き出てもくる。
「ーーーイーヨー、だめでしょう、そういうことをしていては!と妻がいう。私たちが死んでしまった後は、妹と弟の世話にならなければならないのよ。いまみたいなことをしていたら、みんなから嫌われてしまうわ。そうなったらどうするの?私たちが死んでしまった後、どうやって暮らすの?
僕は、ある悔いの思いにおいて納得した。そうだ、このようにしてわれわれは、息子に死の課題を提出しつづけていたのだ、それも幾度となく繰りかえして、とーーーところがこの日、息子はわれわれの定まり文句に対して、まったく新しい応答を示したのだった。《ーーー大丈夫ですよ!僕は死ぬから!僕はすぐに死にますから、大丈夫ですよ!》」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.24」講談社文芸文庫 二〇〇七年)
周囲の無理解は常にある。匿名の脅迫者からの言葉に対して父は障害児イーヨーとの関係に逆に未来を見出す。
「ーーー国家、社会に責任を持つ者らはアメリカ、ヨーロッパ、日本を問わず、巨大核シェルターにたてこもって核戦争を生き延び、ソヴィエト壊滅(かいめつ)後の世界を再建しなければなりません、と手紙の主はいうのであった。平常時においては娯楽も必要でしょうが、非常時には、作家は社会に寄生する無用物であり、障害児はさらにそうでしょう。実際の話、作家と障害児とで、核戦争後の世界を再建できるでしょうか?家一軒、建てられないのではないでしょうか?無力感を持つ者は敗北主義におちいります。そのような者たちが、ソヴィエト独裁ファシズムとの、絶対に避けることのできぬ核対決に日々献身している、自由陣営の働き手に向けて悪性を放つのですか。これ以上世に害毒を流さぬよう、貴君の障害児とともに、自殺とはいわぬまでも沈黙なさってはいかがでしょう?
僕がこの手紙の書き手の論理を、正当に押し返しえぬと思ったのではなかった。むしろ手紙の論理そのものはやがて意識から離れて、核戦争後よく生き延びえたとして、僕がイーヨーと二人、迫ってくる黒い雨を避けるための仮小屋を建てようとする、というイメージが固着していたわけなのだ」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.212~213」講談社文芸文庫 二〇〇七年)
福祉作業所建設反対問題をめぐる有名なシーン。ヤングケアラー<イーヨー>の言葉はオブラートに包まれて見えはするが、そのじつ<切れば血の出る>生々しいものだ。
「バスに乗ってから、イーヨーにあの女性たちからどういうことを聞かれたのかと質(たず)ねたが、かれはなお険(けわ)しい顔つきで黙ったままである。その僕に、同じバスに乗り込んできていたさきの母親が、乗り合わせている人びいとみなに聴き耳をたてさせるほどの語調で説明した。ーーーあの人らは自分のマンション脇に福祉作業所ができるので、反対しておるとですよ。そこで今日はこちらまで偵察に来たとですよ。ずっと工事妨害はするし、子供の遊び場を奪うなと新聞に投書をするし、この間は、金を一千万円出す、身障者のヴォランティア活動もする、とまでいいだして、本当に馬鹿にしとるとですよ。マンションの脇に作業所を建てさえしなければ、そうしたことをしてくれるとです。私らの子供を汚ないもののように見ておるとですよ。
帰宅して、僕にあわせ妻から問いかけられても、この日三人の女たちがなにをたずねたのかをイーヨーは決していわなかった。あの三人が、福祉作業所に反対する運動のなかからやって来ていたのであるのかどうかも、さだかではなかったのである。四、五日たって、夕暮のテレヴィ・ニュースをイーヨーともども家族で見ていると、問題の建設現場が映し出された。作業再開ということで、マンション側の運動のメムバーに急を告げる鐘が鳴らされ、主婦たちが非常階段を駈けおりてくる。子供らも加えて金網ごしに市の作業員へ抗議する彼女らの顔つき、躰(からだ)つき、身のこなし、みなに滲(にじ)み出ている、ある高さの生活水準。それらはイーヨーに作業所前で話しかけたスエードのコートと皮ブーツの女性たちの、ふだん着姿というふうにも感じられたのだが。当のイーヨーはアナウンスを聞いて、ーーー《あーっ、作業所建設に反対ですか!これは、困りました!》といっている。そこでもう一度、この間作業所の前で三人の女の人たちからなにを聞かれたのかと、あるいはなにをいわれたのかと、きみは怒るか困るかしてじっとうつむいていたじゃないか、と質ねると、ーーー《もういいよ!止めましょう!》とイーヨーは強くいって顔をそむけてしまったのだ。おなじテレヴィを見て、妻もやはり微妙に僕の視線をさけるふうにしながら、次のようにいっていた。ーーー私らの子を汚ないもののように見ていると、若いお母さんがいわれたそうだけれども、私は、この人たちがなにか恐ろしいものに攻めてこられると感じているように思う、と妻はいったのだが。Yさんが使われる言葉でいえば、恐ろしいものに自分らの生活が『侵犯』されると、マンションの人たちは感じているように思うわ」(大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ・P.254~256」講談社文芸文庫 二〇〇七年)
大江健三郎自身、生まれてくる息子が障害児だとわかった時、自分の中にある<優生思想>に気づかなかったわけではない。ノーベル文学賞受賞記念講演の中でこう語った。
「広島に太田川という川があります。大きい川です。死者を弔うためにそこに燈籠を流します。水に浮かぶ紙と木のランターンに火をともして。あのように大きい死者が出た場所ですから、じつに多くの人たちがそれを流します。私も燈籠をひとつ手に入れて、それに弔うべき名前を書いた。『光』という私の子供の名前を書いたのです。その時、まだ子供は病院の特児室で生きていたのです」(大江健三郎「あいまいな日本の私・P.28」岩波新書 一九九五年)
言い換えれば「殺そう」とした。その是非を問うているわけではない。大江健三郎みずから、かつて自分自身の中に<優生思想>が根を張っていたことを告白したのである。