社交界の花形という方法をもっと押し進めるのがおそらく正解だったサン=ルー。シャルリュスを越えることは決してできないサン=ルー。ただ、一つだけシャルリュスを凌駕している点が認めれ、それはどんな点かといえば「謙遜と傲慢との混じり合い」だと語り手はいう。さらにプルーストはそんなサン=ルーにわざわざ戦争戦術論に似た創作論を語らせる。
「『将軍というのは、なんらかの作品や本を書こうとしている作家と似ていて、その本自体が、こちらでは予想外の手立てをあらわにするかと思えば、あちらでは袋小路を提示するといった具合に、あらかじめ構想していた計画から作家を途方もなく逸らしてしまう。たとえば牽制攻撃にしても、それ自体かなり重要な地点においてしか敢行されないから、それがまるで予想外の成功を収めることもあれば、逆に主要作戦のほうは失敗に終わることもあると想定しておくべきだ。つまり牽制攻撃がそのまま主要作戦になることもある』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.194」岩波文庫 二〇一八年)
「本自体」が「あらかじめ構想していた計画から作家を途方もなく逸らしてしまう」のはどうしてだろう。逸れた場合、少なくともプルーストはどうするのか。逸れるや否や発生する「ずれ」へ乗り換える。ポイントが切り換えられそこへ乗り入れると同時に出現する新しい地平が今や「主要」である。さらに逸脱する。「主要」な地平はまた現われる。この作業は何度も執拗に繰り返される。すると遂に一体どれが「主要」な新地平なのかさっぱりわからなくなってくる。「主要」なテーマという近代的問題は舞台から消え失せてしまう。プルーストが演じて見せるのはそういうことであり、言い換えれば、近代は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて早くも主要なテーマの喪失へ加速しており、至るところで大量にひきめき合う諸々のエピソードを「並置」して見せるほかすでに有効性が認められず、しかし「並置」という方法へ切断するのならかつてない満面の廃墟へ向かう広々とした風景へ接続できるという事情について作品を通して見せつける。
サン=ルーを早々と戦死させてしまうプルーストだが、乗り越えがたいシャルリュスの「再演」しかできない後継者には「名誉の戦死」を与えて一刻も早く「死の本能」の実現に近いところへの場所移動を図る。だがもっと近いところ、例えば自殺は、当然ながら禁じられている。戦争が終わり戦地から帰還すれば、できる限りすみやかに労働へ置き換えられなくてはならない。そうでなくては商品流通が滞ってしまう。