白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ73

2023年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年七月二十七日(木)。

 

深夜(午前三時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

朝食(午前五時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

夕食(午後六時)。ヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)七十粒摂取。

 

食事を終えるたびに足元へ近づいてきて遊びの催促。今日は昼食後が一番よく走り回った。昼寝の時間もまあまあ取れているようだ。

 

新聞を広げるとその上に乗ってきてなかなか読ませてくれない。せっせとひとり遊びし始める。それはそれで構わないと思うのはなぜだろう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて494

2023年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の入院に伴う多方面からの電話待ち。

 

午前五時。

 

読書ばかりでは退屈なので久しぶりにベートーヴェンのピアノソナタ第一番を聴く。聴き出すとほかの楽曲も聴きたくなる。

 

週末までの食材は揃っているか、冷蔵庫の中を覗き込む。メニューを思い浮かべてみる。猫が足元へ近づいてきてこちらを見上げる。朝刊と手に戻ると猫は窓際に置いた椅子の上で横になってくつろいでいる。

 

ベートーヴェンの楽曲では弦楽四重奏が好みなのだが、今度はあらためてピアノソナタを聴き直してみようという気持ちが動く。とはいえ「強い気持ち」とか「強いメンタル」とかで聴こうとするとたちまち何一つ聴こえなくなってしまうベートーヴェンの繊細さ(当り前)に触れるという意味で。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・街路の動き/名前の動き

2023年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

運よく生き残り活動する名前。「これが街路の動きである、名前の動きである」とはどういうことだろう。

 

「パリは活動的な都市、つねに動いている都市として語られてきた。だが、この町において、都市構造が持つ生命力に劣らず重要なのは、街路や広場、あるいは劇場の名前にひそむ抑止しがたい力である。こうした名前はいくら場所が変化しても残り続ける。ルイ=フィリップの時代にはまだブールヴァール・デュ・タンプルに立ち並んでいたあの小劇場が次々と取り壊されてはあらためて他の地区(カルチェ)にーーー市区(シュタットタイル)という言葉を使うのは気が進まないーーー出現するということが何度あったろうか。数世紀前に街路ができたときの地主の名前が、今日でもまだ街路の名前として残っているケースがなんと多くあることか。『水の城』(シャトー・ドー)というもうとっくの昔になくなってしまった噴水の名前が、今日でもパリのあちこちの区に名残りを留めている。有名な居酒屋でさえもそれなりのやり方で、市内におけるささやかな不滅性を確保してきた。《ロシェ・ド・カンカル》、《ヴェフール》、《トロワ・フレール・プロヴァンソー〔プロヴァンスの三人兄弟〕》のような文学史上不滅の酒場は言うまでもない。というのもある名前が、たとえばヴァテルとかリシュといった名前が食通のあいだに浸透するや、パリ中が郊外にいたるまで小ヴァテルや小リシュで溢れかえるのである。これが街路の動きである、名前の動きである。そして、こうした名前はしばしばおたがいにずれながら交差するのである」(ベンヤミン「パサージュ論3・P.355~356」岩波文庫 二〇二一年)

 

終わりの一節、「こうした名前はしばしばおたがいにずれながら交差する」。二〇〇〇年くらいの日本ではコンビニがそうだった。今では、とりわけ中規模の地方都市では、以前のコンビニをしのぐ勢いとまではいかないが、高齢者向け各種リハビリ施設が似たような景観を提供している。その斜め向かいにコンビニがあったりする。

 

あるいはコンビニの名前が見えるので入ろうとするとそこは裏口である。正面へ回るとそこはスーパーになっていて今やコンビニなのかスーパーなのか、どこに境界線があったのかそれとももうなくなったのか、なくなったとしたら何がなくなったのかもはや識別不可能だ。


Blog21・なぜか創作論

2023年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

社交界の花形という方法をもっと押し進めるのがおそらく正解だったサン=ルー。シャルリュスを越えることは決してできないサン=ルー。ただ、一つだけシャルリュスを凌駕している点が認めれ、それはどんな点かといえば「謙遜と傲慢との混じり合い」だと語り手はいう。さらにプルーストはそんなサン=ルーにわざわざ戦争戦術論に似た創作論を語らせる。

 

「『将軍というのは、なんらかの作品や本を書こうとしている作家と似ていて、その本自体が、こちらでは予想外の手立てをあらわにするかと思えば、あちらでは袋小路を提示するといった具合に、あらかじめ構想していた計画から作家を途方もなく逸らしてしまう。たとえば牽制攻撃にしても、それ自体かなり重要な地点においてしか敢行されないから、それがまるで予想外の成功を収めることもあれば、逆に主要作戦のほうは失敗に終わることもあると想定しておくべきだ。つまり牽制攻撃がそのまま主要作戦になることもある』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.194」岩波文庫 二〇一八年)

 

「本自体」が「あらかじめ構想していた計画から作家を途方もなく逸らしてしまう」のはどうしてだろう。逸れた場合、少なくともプルーストはどうするのか。逸れるや否や発生する「ずれ」へ乗り換える。ポイントが切り換えられそこへ乗り入れると同時に出現する新しい地平が今や「主要」である。さらに逸脱する。「主要」な地平はまた現われる。この作業は何度も執拗に繰り返される。すると遂に一体どれが「主要」な新地平なのかさっぱりわからなくなってくる。「主要」なテーマという近代的問題は舞台から消え失せてしまう。プルーストが演じて見せるのはそういうことであり、言い換えれば、近代は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて早くも主要なテーマの喪失へ加速しており、至るところで大量にひきめき合う諸々のエピソードを「並置」して見せるほかすでに有効性が認められず、しかし「並置」という方法へ切断するのならかつてない満面の廃墟へ向かう広々とした風景へ接続できるという事情について作品を通して見せつける。

 

サン=ルーを早々と戦死させてしまうプルーストだが、乗り越えがたいシャルリュスの「再演」しかできない後継者には「名誉の戦死」を与えて一刻も早く「死の本能」の実現に近いところへの場所移動を図る。だがもっと近いところ、例えば自殺は、当然ながら禁じられている。戦争が終わり戦地から帰還すれば、できる限りすみやかに労働へ置き換えられなくてはならない。そうでなくては商品流通が滞ってしまう。