リッチャンは問いかける。「どうツジツマ合わせるの?」。大江健三郎はいつだって「ツジツマ」が合わないことを知っている。「ツジツマ」の合わなさ。文字通り漱石作品の至るところで書き込まれている。漱石が言わんとしていたことはそれこそ<「ツジツマ」の合わなさ・すっかり片付くことは一つもない>ということなのでは、と漱石作品を反復して見せる。大江は漱石作品が初期からずっと言ってきたこと、言わんとしてきたことを、わざわざリッチャンの側から、女性の側から、反復させる。
「ーーーきみはそのきっかけと『明治の精神』のことを、どうツジツマ合わせるの?とリッチャンの女子高生は追求しました。自分が裏切って傷つけた友達は、自殺してしまった。その罪の意識が『先生』には付きまとっているのでしょう?しかし、それだけでは自殺しなかった。《私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心し》たといって、自分を執行猶予してたのでしょう?それが、とうとう猶予期間は終ったと決める、死ぬ時が来たと《覚悟》する。そして『明治の精神』が滅びたからだ、『明治の精神』に殉死するんだというのでしょう?どうしてここに『明治の精神』が出て来るの?この『明治の精神』の登場、自然ですか?それまではずっと、友達を裏切る前だって後だって、『明治の精神』なんて気にしてなかったじゃないの?なにをいまさら、『明治の精神』を持ち出すの?ただシンプルに、《死んだ気で生きて行こう》という気持がもうなくなった、自殺することにしました、という方が自然じゃない?
一体『明治の精神』って、なんですか?『先生』は《死んだ積で生きて行かうと決心し》ていて、《時々外界の刺戟で躍り上が》った心も、《恐ろしい力が何処からか出て来て》、その《心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにする》のでしょう?この力が『明治の精神』なの?それとは正反対の力?いや違う、単純なことをいうな、明治維新からの国造りの時期を生きて来た者らが共有してるものだ、というの?こんな自分ひとりの罪の意識で社会から閉じてた人が、バリバリの明治社会の一員だった者らの、『明治の精神』とどうつながってるの?
ーーーそれがわからないのは、きみが女だからだ!とカクさんが前に出て叫びました。
これが『スケ&カク』コンビの致命的な失点でした。たちまち『スケ&カク』は二人とも『死んだ犬』の総攻撃にさらされました」(大江健三郎「水死・P.236~238」講談社文庫 二〇一二年)
『スケ&カク』コンビの致命的な失点。なぜ失敗するのだろう。リッチャンは「ツジツマ」が合わないことを実によく心得ている。『スケ&カク』コンビの理論を押し進めて行けば行くほど「ツジツマ」の合わなさが露出する。漱石作品はほぼ最初期からすでに「ツジツマ」の合わなさを炙り出すことに主眼が置かれているように思えるわけだが、それでもなお「明治の精神」にこだわって無理やり「ツジツマ」を合わせようとすると「それがわからないのは、きみが女だからだ!」という発言が何か一つの解答ででもあるかのように転がり出てくることが、漱石作品の中ではしばしばある。しょっちゅうある。リッチャンがわざとらしく仕掛けた罠は漱石の問いと重複して見える。
書簡に出てくる「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神」で文学へ向かえば、どこかで必ず近代の罠にひっかかるほかない。漱石は一度イギリスへ渡り日本を外部から眺めた。「死ぬか生きるか」という単純素朴な近代的対立構造を押し進めて行けば行くほど「ツジツマ」の合わなさがますます浮き彫りになってくることに気づいた漱石は「命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神」を文学というフィクションの場へ持ち込めば、それが上手くいけば、近代的対立構造が実のところ「ツジツマ」の合わなさばかり出現させてはばからない罠にほかならないと見て取ったのだろう。そしてほかならぬ漱石自身の内部にも近代的対立構造がすでに内在化されてしまっていることも見て取っていたに違いない。漱石作品にストーリーらしきストーリーが一つもないと言われるのは漱石自身が鼻からストーリーを排除・切断していることから出てくる必然であって、ストーリーらしきストーリーが一つもないのは、<「ツジツマ」の合わなさ・すっかり片付くことは一つもない>近代と取り組んだからである。
逆にストーリーのある文学ならイギリス留学以前も以後も嫌というほど大量に接していて、なぜ漱石が帰国後わざわざ二番煎じ三番煎じしなくてはならないのか、ますます「ツジツマ」が合わなくなるではないか。ところがその方法ばかりでは読者が付いてきてくれそうにない。そういう気持ちもあっただろう。だから多少の読者サービスは埋め込んでいる。
大江健三郎がリッチャンに取り上げさせている部分。
「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後(あと)に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)かろうと調戯(からか)いました」(夏目漱石「こころ・P.265」新潮文庫 一九五七年)
何が言いたいのだろう。不意打ちは「妻」という場所から突然やって来た。大江の後期作品をみると大江健三郎という名前の下でずっと抑圧されてきた家族ら(おんな、こども、障害者たち)から逆襲される大江もどきの登場人物の戸惑いが延々演じられていく。