白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ353

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月十九日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

シャワーを済ませてドアを開けるとタマが横になって飼い主を待っていた。

 

今日はずいぶんお腹をさすってやったつもりだがまださすり足りないのだろうか。

 

ただ単に横になって待っているだけでなくお気に入りのぬいぐるみがそばに置いてある。

 

ぬいぐるみを投げて一緒に走って遊んでほしいって?

 

それはしかしタマさん、午後九時過ぎにどたばたは無理だよ。

 

それはそうと二代目タマは勝手にドアノブを開けたりすることは棚に上げて人間の手の器用さを警戒しているらしい。

 

だからお腹をさすってほしい時は手ではなく足の裏で軽くさすさす。それが安心で気持ちもいいようだ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エーメン・デューンズ。まだ見ぬ内面の深淵へ惑溺して止まないクラゲのような「メリハリのなさ」や「美学の欠如」が顕著。ゆえに地球表面を覆い尽くす「(暴力的な)規律と(不可視の)管理と」に押し貫かれ疲れ果ててばかりのリスナーにとって、デジタル警察社会の中では多分にオルタナティヴな音楽として心地よく作用する。かといってありふれた「どんみり感」はなくむしろポップ。


Blog21・「過労死等防止対策推進法」成立二十年

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月二十日で「過労死等防止対策推進法」成立から二十年を迎える。

 

それを思うと次の大江健三郎の言葉は途方もなく重大かつ多層的な意味を帯びて見えてくる。

 

「ーーーもう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ」(大江健三郎「取り替え子・P.376」講談社文庫 二〇〇四年)

 

この「まだ生まれて来ない者たち」が、新しい人々という意味で生まれてきたとして、ほどなく直面する世界は今なお過労死を促進する諸条件に満ちている。

 

大江健三郎「取り替え子」で吾良あるいは吾良役の人物(モデル=伊丹十三)が古義人あるいは古義人役の人物(モデル=大江健三郎)にこう語りかける。二人してランボー「地獄の季節」について語り合った時の回想が元になっている。

 

「あらためてそれで『別れ』を読んでみると、おれのいったことは、その後のおれたちの生涯によって実証されている。まったくね、痛ましいほどだよ。

 

あの書きだしのフレーズを、きみが好きだったことは知ってたよ。おれも同じことを口に出した。しかしあの時すでに、おれはあまり立派な未来像を思い描いていたのじゃなかった。そしてそれも、ランボオの書いていることに導かれて、というわけなんだから、思えば可憐じゃないか?それはこういうふうだったのさ。

 

<秋だ。澱(よど)んだ霧のなかで育(はぐく)まれてきた私たちの小舟は、悲惨の港へ、炎と泥によごれた空がひろがる巨大な都会へと、舳先(へさき)を向ける>というんだね。

 

それに続けて、都会での<また、こんな自分の姿も思い浮かぶ>というだろう?<泥とペストに皮膚を蝕(むしば)まれ、頭髪と脇(わき)の下には蛆虫(うじむし)がたかり、心臓にはもっと肥った蛆虫がむらがっていて、年齢もわからなければ感情もないひとびとの間に、長ながと横たわっているーーー私はそこで死んでしまったかも知れないのだーーー>

 

これはじつに正確かつ具体的な、未来の予想だと、おれは保証するよ。きみのことは知らないが、とまあここではそういっておこう!おれ自身の近未来像を思えば、まったくドンピシャリだ。遅かれ早かれ、おれは、高い所から跳び降りて墜落死をとげるだろう。それはなにより確実な方法だ。《途中で思いとどまる》わけにはゆかないからね。落下の途中でフィルムの逆廻しのような後戻りの浮上をしたり、スチール写真化して、一点にとどまったりはできない。《空間的ためらい傷》などというものは、そもそもありえないんだ。

 

そしておれの肉体が、カフカの甲虫になって男のようにソファの下でひっそり死ねたとしたら(覚えているかい、おれはあれが《あぶら》虫だという解釈を示していただろう?ゴキブリなどという忌(いま)わしい言葉はなかった時代でさ)、そして誰も発見しなかったとしたらーーーそんなことをこの都心のビルの路地を見おろして夢想もするんだが、ドスンと落ちた肉体がそこいらにたてかけてある段ボールの山の下に潜るかしてさ。その上で、この詩のいうように《傷んでくる》のであれば、まったく《おれはそのように死んでしまうことになるはずなんだ》。

 

のみならず、次のフレーズにいたるとね、おれはやはり自分の作った映画のことを思うんだよ。<私はあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した。新しい花、新しい星、新しい肉体、新しい言語を、編み出そうと試みた。超自然の力を手に入れたとも信じた>

 

古義人のことをね、決まり文句で嘲弄するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術指向のバカだとさ。しかし、おれはそう思わないんだ。きみの書いているものをふくんで、あらゆる文学が、むしろあらゆる芸術が、根本のところでキッチュだ、と長らく小説を書いてきたきみが承知してしないはずはないからね。そうしてみれば、おれの作った、お客の入りのすこぶるいい映画をね、おれ自身、もとよりキッチュな光暈(こううん)をまといつかせてやってきた。《おれはあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した》とホラを吹いたとして、きみは笑わないのじゃないか?

 

きみもまた、小説家として、《新しい花、新しい星、新しい言語を、編み出そうと試みた》、といいたい時があるだろう?このところ、古義人の小説には、《超自然の力》がチラホラするようだしさ。ともかくも十六、七からの友達だ、この程度には、お互いのやってきたことを認めあってもいいのじゃないか?おれたちふたりの、ここだけの話ということでもあるんだしさ。

 

さて、これからランボオはこういうんだ。<仕様がない!私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない!芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ>

 

<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ>

 

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるんよ。古義人、きみもそうじゃないか?おれたちのような職業の人間にしてみればーーーキッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に至るほかはないじゃないか!」(大江健三郎「取り替え子・P.281~284」講談社文庫 二〇〇四年)

 

冷め過ぎる見方のような気がしなくもない。しかしおそらく、ランボーの言う意味では、その通りというほかないのかもしれない。

 

「きみもそうじゃないか?おれたちのような職業の人間にしてみればーーーキッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間」

 

寺山修司や唐十郎からすれば似ても似つかない。かといってエンタメに徹しているようには見えない。ほとんど売れない映画を意識的に撮ってもいる。障害者が前面に出てくる作品などは売れるはずもないが撮っている。対象が障害者だからという理由だけではなく、いわゆる「日本文化」への問いという根深い偏見への執拗な問題意識があるのだろう。吾良は「いわゆる『芸術映画』『前衛映画』的な手法」を嫌っていた。一方「ありきたりの映画の作り方から《はみ》出す技法」も用いている。どちらかの間を取ったとも思われず、ただ単に「幅広い」というのとも違うように思える。仕方がない場合、世間はしばしば手っ取り早く、例えば「伊丹映画」という枠組みをとっとと設けて囲い込んでしまう悪い癖が捨てられない。

 

そこで千樫の心の動きは大変重要だろう。

 

「千樫は、自分の生涯の『物語』を思い起すようにして、センダックの絵本とかれについての本を少しずつ読み進めていた。日を重ねるうち、自分の『物語』と絵本のアイダの物語が、深くまじわっていながら、あきらかに《逸れて》しまうところがあるのにも気付いた。《逸れて》しまって、ついには別物になってしまう、というのではない。《逸れて》しまうことで、両者をつないでいる意味がかえって深まるようでもあったのだ。

 

古義人が『小説の方法』として書いたなかにーーーそれを新書版に書きなおしたり、教育テレビで連続して話したりもしたーーー『ズレをふくんだ繰り返し』という考え方があって、千樫はそれを面白く感じていた。とくに小説の語り(ナラティヴ)の展開において時間の進行と重なる時、ズレには特別な意味が現われる、と古義人は分析していた」(大江健三郎「取り替え子・P.368」講談社文庫 二〇〇四年)

 

千樫が<女性だということ以上に>まだまだ「過労死」が問題になってくるほかないのは、いわゆる「日本文化」へ問いかけ続けた大江作品の射程から、日本自身がこっそり逃げ去り忘れ去ることをますます逆に不可能にして立ち塞がっている証左のように思えてならない。

 

さらに就職氷河期世代の「現在の働き方」についてマス-コミは一体どこの何を報道しているのか、実際との乖離の激しさを指摘しておかねばならない。現場でずっと非正規雇用を強いられている労働者は言うまでもなく「正社員」でさえ<間近で見れば>いつ倒れてもおかしくない現場が山ほどある。政治もマス-コミもなぜそこには触れようとしないのか。逆にタブーばかりどんどん作ってしまうのだろう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて827

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

いつもの肩こりがいつもよりひどい

 

昨日は早く寝た

 

おかげで少しは電気代節約

 

けれども慢性的肩こりは怪我の元

 

治さなくてはいけない

 

しかしあちこちの巨大既得権益にまみれてがんじがらめになっている自業自得的なマス-コミと政府とでは

 

何一つできないだろう

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。