白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ362

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月二十八日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

ここ最近プラスチックの玩具で遊ぶことが減ってきた。

 

ところが今日は歯ブラシの包みを途中まで剥がした半分プラスチック、半分紙のものを与えてみると珍しく思ったのかしきりに突ついたり噛んでみたり追い回してみたりと気分転換になったようだ。

 

そのあとしばらくして見たらタマがケージに入ってケージの中から歯ブラシの包みをケージの中へ引き込もうとしている。

 

ケージにはこれまでタマが遊んできて今はほぼ放置されたままの玩具が幾つか置いてある。

 

その中に入れて保管しておくつもりなのかなあ。

 

今やケージはタマの玩具の小さな博物館の様相を呈してきた。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジョン・ケイル。とても長いキャリアだがずっと周縁音楽的な取り扱われ方をしていた。わかるようでわからないような音楽。いわゆるアート・ロックにカテゴライズされているようだ。しかし個人的にアート・ロックのことを知ったのはジョン・ケイルからではなく中学生の頃に聴いたロキシー・ミュージック。なかでも一九七〇年代初期にブランアン・イーノがブライアン・フェリーと組んでいた頃の音がなんとも言えない新空間を広げて見せていたようにおもえる。ただ世評はイーノとフェリーとが繰り広げる音についてとにかく暗いとか退廃的だとか平気で言い放っていた。かなり迷惑な誹謗中傷であり世間というのはいつも無駄に騒々しいなあと鬱々していた。


Blog21・ロスト・ジェネレーションとヘンリー・ジェイムズ「資本主義的文体」

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

フィッツジェラルドやヘミングウェイ、ドス・パソスといったアメリカの「ロースト・ジェネレーション」と呼ばれた作家たちが鋭敏に感じ取っていた感覚。「資本主義の成功による『獲得』が頂点に達しつつあるとき、成功者たちが『喪失』を感じているという逆説」。

 

大澤真幸はヘンリー・ジェイムズ作品に見られる「資本主義的文体」に注目する。

 

「ジェイムズは、心的行動を動詞によって記述せず、名詞によって表現する傾向がある、というのだ。たとえば“John observed X“は“John’s observation was X“へと、“John apparently decided that p“はJohn’s decision appeared to be p“へと変形される。同じことは、心的状態を表す形容詞、事物の性質を表現する形容詞に関しても生じている。たとえば、“Kate displays graceful gaiety(ケイトは優雅な陽気さを発揮した)は、“Kate displays grace of gaiety(ケイトは陽気の優雅を発揮した)“と表現される。

 

するとどんな効果が出るのか。通常は、人物が心的に行動し、心的な性質を帯びる、と記述される。しかし、心的行動や心的状態が名詞化されたときには、その行動や状態そのものが、触知はできない抽象的な事物として存在しておりーーーたとえば『観察 observation』そのもの、『決定 decision』そのもの、『優雅 grace』そのものが事物のように存在しておりーーー、人物はその担い手であり、またそれが発現する場所のようなものとして表現されることになる。

 

このどこが資本主義的なのか?どの点が資本主義的な変容と結びついているのか?スラヴォイ・ジジェクが述べていることだが、ヘーゲルの観念論へのマルクス主義の批判を知っている者ならば、あるいは『資本論』における商品論に通じている者ならば、心的状態・心的行動の名詞化に、資本主義においてとりわけ発達する『物象化』を見ないわけにはいかない。物象化とは、本来は『関係』であるものを、あるいは関係のうちに生起する『過程』を、事物のように表象することである。

 

物象化はどうして生ずるのか。その原因は、一般的価値形態としての貨幣の浸透にともなう商品・貨幣の物神化にある。連載第百四十九回(3、4節)で述べたことを確認しておこう。資本主義的な市場において、われわれはーーーつまり人間はーーー人間同士の関係をめぐって物神崇拝からは解放される。われわれは、自由で合理的な醒めた功利主義者であるという自己意識をもつ。が、このとき、モノ(商品)たちが物神崇拝を始める。モノ(商品)たちが、貨幣を神とする信仰の虜になっている。私は『迷信』や『神秘化』からは自由だと思っているが、モノの方がーーーいわば勝手にーーー信じている(かのような事態が出現する)のだ。

 

これは、名詞によって支持される(抽象的な)事物のごとき心的行動・心的状態がエージェントとなっているーーー『観察』そのものや『優雅』そのものが主体のようにふるまっているーーー、(後期)ジェイムズの作品世界のようではあるまいか。つまり、『心理の名詞化』は、商品・貨幣の物神化が浸透した社会の状態に敏感に反応した文体である。ここで注意すべきことは、このような書き方を、『イデオロギー的転倒』として批判するのは、不当だということだ。なるほど、これは、確かに一種の幻想ではある。ただ、『私は合理的な功利主義者だ』として、商品の物神性を見ない人は、むしろ二重の幻想の中にいたことを思い起こすべきである。自分はそこから解放されているかのように感じている物神崇拝が、商品たちのあいだの社会関係の中に再現しているのを直視することは、(物神崇拝からの)完全な解放にとっては通過しなくてはならない一歩である。ジェイムズの文体は、彼が、資本主義的な物神崇拝に取り込まれてしまっていたというより、むしろ、その冷静な観察者であったことを示している。ーーーつまり、ジェイムズは、内容にふさわしい文体を選んでいるのだ。内容とは、資本主義化が道徳的な生活にもたらした(破壊的)影響である」(大澤真幸「<世界史>の哲学(157)」『群像・7・P.613~614』講談社 二〇二四年)

 

例えばジェイムズ「鳩の翼」の結末部分についてジジェクの分析を参照しつつこう述べる。贈与とは何か。

 

「すばらしいハッピーエンドだーーーというわけにはいかない。少し反省してみればすぐにわかることだ。このような状況で、人は遺産を喜んで受け取ることができるだろうか。絶対にできない。もし受け取ったら、一生、深い罪の意識に苦しむことになるだろう。

 

贈与は、受け取る者にとってよいこと、喜ばしいことだと思われている。だが、贈与は一般に、受け手に負債の感覚をもたらす。そうであるがゆえにときに、受け取ることができない贈与というものがある。そもそも、受け手側に拒絶されることを前提にして申し出される贈与というものがある。われわれはときに、『そこまでしていただくわけにはまいりません』などと断られることを最初から想定したうえで、相手に贈与や援助を申し出ることがある。どんな贈与が、受け取ることができないのか。受け手にとってあまりに『過分』と感じさせる恩恵がある贈与、あるいは、与え手の犠牲が過剰に大きいとーーー受け手の観点からーーー思われる贈与、そのような贈与を、受け手側は受け入れることができない。このようなときには、贈与そのものがもたらす恩恵に比して、贈与を通じて生じる負債があまりにも大きいからである」(大澤真幸「<世界史>の哲学(157)」『群像・7・P.619』講談社 二〇二四年)

 

贈与のパラドクスが出現した。その奇妙で<ねじれた>帰結についてより詳しい論述がある。

 

「先ほど、ミリーの遺贈は、受け手として指定された側が拒絶するほかない贈与、拒絶されることが想定されている贈与だ、と述べた。だが、このケースは実は、普通の『拒絶されることが想定されている贈与』とは異なっている。つまり、贈与の申し出を受けた側が、その贈与を受け取りを拒否したとしても、それが『道徳的な正解』とはならないのだ。どうしてか?

 

ケイトの立場にいる私が、ミリーの遺産の受け取りを拒否したとしよう。どうして、素直にそれを受け入れることができないのか。どうして、それをミリーの友情がもたらした幸運として受け入れることができないのか。それは、私が、罪深きことをしてしまったからであろう。つまり、私が、ミリーを騙してその資産を手に入れるべく画策していたからだ。したがって、《遺産の拒絶は、私が罪を犯していた、ということの遡及的な承認であり、それ以上のものにはならない》。言い換えれば、遺産の拒絶によって私は道徳的に正しいものになるわけでは《ない》。ただ私の罪、私の悪が消えないものとして刻印されるだけだ。

 

それゆえ、まとめると次のようになる。可能な選択肢は二つある。ミリーの遺産を受け取ること/拒絶すること。その《どちらも道徳的に正しいものにはならない》のだ。どちらも悪く、どちらも永遠の罪を刻印する。デンシャーの浅はかさは、ミリーからの遺贈の申し出を拒否すれば、自分たちが善人に戻ることができる、と思っている点にある。だが、遺贈の拒否によって善人に回帰できるわけではない。まさにその拒否こそが、罪を承認し、登録する所作だからだ」(大澤真幸「<世界史>の哲学(157)」『群像・7・P.621』講談社 二〇二四年)

 

フィッツジェラルドやヘミングウェイらが見舞われた激しい混乱の後の「虚無感あるいは喪失感」。ヘンリー・ジェイムズの後期作品群が発表された頃にようやくフィッツジェラルドたちが登場してきた。「失われた世代」とジェイムズとは同時代人ではない。半世紀ほども前すでにジェイムズによる「資本主義的文体」は準備されていた。だからといってヘンリー・ジェイムズは預言者ではない。ジェイムズの態度は率直である。

 

「つまり、ジェイムズは、内容にふさわしい文体を選んでいるのだ。内容とは、資本主義化が道徳的な生活にもたらした(破壊的)影響である」

 

この点に重心を移動させてみる必要があるだろう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて836

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

家計のやりくりばかりに頭を使う日々から

 

当分の間は抜けられそうにない

 

抜け切ったとしても

 

今度は新しいやりくりに心を砕かねばならないシステムが決定しているらしい

 

おそらくその次も

 

またその次も

 

そうなることがわかっていながらなぜか支持されてきた嘘だらけの政治

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。