小峰ひずみは議会での「戦術論」に焦点をあてる。
安倍元首相が取り込み駆使して見せていた「戦術」はテレビ視聴者の目には明らかだった。端的に言って「お笑い」。少し絞り込んでいえば「嘲笑とその渦」。マス-コミの多くもそれにどんどん乗っていた。
議場で「お笑い」が出現する際の構造というものは昔からあった。安倍政権の問題は戦術としての「お笑い」であり、ゆえに「保守派を代表する安倍がリベラル派と《どのような敵対関係を形作ろうとしたか》が問われなければならない」。
「重要なのは、その政治家が《どのような戦術を用いたか》を問うことである。彼の答弁はその議場での雰囲気も含めて、《戦術》として分析されねばならない。つまり、ほんとうは何が敵なのか、ほんとうは誰が敵なのかーーーネトウヨ?農協?日本会議?統一教会?B層?商業右翼?ーーーを問うのではなく、それら保守派を代表する安倍がリベラル派と《どのような敵対関係を形作ろうとしたか》が問われなければならないのだ、安倍が『いじり』という戦術を駆使していたということ、また、いまも国会議事堂で保守派とリベラル派、右派と左派を問わず議員たちがそれを駆使しうる状況にあるということを認識してはじめて、私たちがどのような戦術に直面していたか、私たちがどのような議会を擁しているか、私たちがどのような対抗戦術を練ることができるか、それらの一端を示すことができる」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.124』講談社 二〇二四年)
加藤典洋の評論はほとんど知らないが「失言と癋見(べしみ)」からの引用はなるほど大いに参照されるべきだろうとおもう。
「第一の『共感の円』は保守派の共同性であり、『反感の円』はリベラル(革新)派の共同性である。その外の他者とは中国大陸や朝鮮半島の住民といった『他者』の共同性である。加藤によれば、失言は『《笑いにおけるのと同様》』に、共同性が前提として口にされる。笑いが根本的に内輪ウケであるのと同様に、保守派の『失言』も内輪ウケを狙ったものであり、その外に内輪ウケを『笑えない』リベラル派がいる。さらにその外にいる外国人には、そもそも何が面白いのかわからない。
その上で、加藤は『前言撤回』した閣僚が『私腹をこやせばそれでいいのだ、といった古典的な形で政治的に堕落しているのではな』いとし、むしろ、『このありうべき政治家像を彼もまた信じているばかりか、自分がこれを裏切る頽廃した政治家だなどとはゆめにも思っていない、という形で、退廃しているのである』と問題の所在を語る。《政治発言の『前言撤回』が恥ずべきことだとされていないことを問わなければならない》。このような『頽廃』を支えるのは共感を前提とした『共同性』であり、逆にこの『頽廃』によって廃棄されるのは、相手の言葉が相手の考えていることであるという前提に立って議論し合う公共性である。政治家が批判に応えて自らの発言を守らず『前言撤回』し、にもかかわらず『よくぞいってくれた』という共感によって迎えられるならば、対話や議論は成り立たない。成り立つ必要もない。これは日本社会に公共性が成り立っていないのと同義である」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.142』講談社 二〇二四年)
「頽廃」の詳しい定義はいろいろあるだろう。しかしますます悪質化していく事態を積極的であれ消極的であれ推進することを容認する態度まで含まれることは確かに思える。
津村喬や谷川雁らが注目した「見ぶり」の政治学とでもいうべき思想を紹介したあと、こう述べる。
「お笑い芸人がテレビを通して人々の身ぶりを『演技指導』する社会では、『市民』は『庶民』とともに笑いに奉仕することになる。《規範も逸脱もその逸脱への批判も自らに奉仕させるお笑いは、規範や批判を可能にする『超越的な権限』さえも己れに従属させるがゆえに、いまもなお芸術や文学や政治の世界で進行しつつある『見えない文化大革命』の強力な先兵である》」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.155』講談社 二〇二四年)
もはや「ユーモア」というだけでは片付けられない事態に陥ってしまっている。安倍晋三銃撃事件後も引き続いている「お笑い(嘲笑)戦術」は日本の風景にすっかり溶け込んだ以上に政治的レベルのモデルとして刷新されてさえいる。
田中美律と竹中労とがシンポジウムの議論で同席した時のこと。小峰ひずみが引っ張ってきた次の引用はいまなお有効だろう。
「話の打ち切りを具体的に実践したのが、ウーマンリブの象徴的な活動家である田中美律である。田中は自身の著書である『いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』で次のような場面を描いている。あるシンポジウムで田中は評論家の竹中労と壇上に座っていた。その竹中が『日本の中産階級の女と韓国の娼婦を対比させつつ、日本の女の、まあ云ってみれば生きざまの軽さみたいなことを詰(な)じった』のだ。それに対して、会場にいたウーマンリブの活動家が『自分をどこにおいてそれを云うのか』と竹中に迫る。田中もリブ活動家の声を『非論理的』だったと言う。『しかし』と彼女は続ける。
しかし、あたしにはその女の子たちが、己れの存在をもって語ろうとしている、その声にならない声が聞えていた。『女・子供の云うことには耳をかさぬ』。竹中労さんがそう云い放った時、彼のことばに迎合してまき起った嘲笑を聞きつつ、あたしは身が震えた。
このような竹中に対して、田中は『竹中さん、あなたはその大きな声で女たちを圧するが、自分が大きな声で語れるという中に、男の歴史性を感じませんか?』と言うが、その田中の発言は再び『会場の嘲笑』を呼んだ。そのような『会場の嘲笑』に対して、田中は次のような《見ぶりを突き付ける》
『いま笑った人々は、あたりを見回してみなさい、こんな<止揚と拡散>などというバカげた題の討論会に来ている者の、その大部分は男じゃないか。女の参加者がなに故こうも少いか、あんたたちは考えたことがあるのか』。一瞬、あたりが静まった。あたしはこれ以上の長居は無用だった。わかってもらおうと思うは乞食の心。誰よりも己れ自身につぶやいて、あたしは席をたったのであったーーー。
田中のこの身ぶりは嘲笑による男社会の再現前化(=表象)への抗議だった。ここで田中がウーマンリブの活動家たちを『非論理的』だとしたことは偶然ではない。彼女は同書から『手際よくわかりやすく話せない』『書けない』という自らの『非論理』性を主題にあげている。己れの経験を描く言葉が奪われていることーーーpriveーーーから始めているのだ。その退席は『奪われている』ことによって採用された身ぶりである。逆に言えば、それは《見ぶり(スタイル)にならざるをえない》のだ。言葉を奪われていることは、ともすれば嘲笑の的になる。田中の言葉は奪われている。ゆえに、笑われる。しかし、笑われるリスクを引き受けるがゆえに、既存の価値観を転覆する力を持っている」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.155〜156』講談社 二〇二四年)
さらに江原由美子が行った「分析」の有効性についてこうある。
「《研究者である江原は『からかい』に対して『からかい』の分析をもって応えたのだ》。江原は週刊誌においてウーマンリブやセクハラ事件がどのように報道されているかを丁寧に分析する。そして、その語彙選択にどのような攻撃意図があるかをつまびらかにする。《江原は戦術を公で議論した》。週刊誌をはじめとしたマスコミの卑劣な手法を大声で批判してみせた。それは市民主義の前提を、土台をつくるために必要な観客側の態度である。このような市民主義を可能にする戦術の分析を大衆化することーーーいわば、戦術論の大衆化ーーーは、それ自体が『からかい』に対する有力な対抗戦術のひとつになりうる。では、その分析は何によって一般化されるか。
《スローガン》だ。社会運動の最も基本的な戦術である。スローガンは、自分たちが《どのような》聴衆であり、《どのような》観客であり、《どのような》敵対者なのかを示す技術である。私たちは『アベ政治を許さない』というお気持ち表明的なスローガンではなく、安倍の戦術についての《的を絞った》スローガンーーー本稿に照らし合わせれば『安倍の戦術(アベノイジリ)を許さない』とでもいったーーーを打ち出すべきではなかっただろうか」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.160』講談社 二〇二四年)
それでは揶揄に対して揶揄で返すことになるのでは?という反論があるに違いない。小峰ひずみは「罵倒語の優劣」ということを論じながら「戦術への罵倒」はまるで違うと説明している。スペースの割にはかなり丁寧な説明でもある。
さて今の有力な政治政党、特にリベラルを自称する人々の間でも急速に蔓延している「マーケティング戦略」について。批判されてしかるべき点。
「いま、多くの論客が戦術論の観点を欠落させ、保守派がどのような戦術を繰り出したかを問わずに、『リベラル派はどのようにすれば支持者を広げることができるか』『リベラル派はどうすれば選挙で勝てるか』というマーケティング中心の《戦略論》を語ってばかりいる。政治と経済を混同してはならない。『そのスタイルでは支持が得られない』というありがちなリベラル派批判は、保守派の戦術の分析をほとんど行わないため、片手落ちである。当然のことだが、相手と政治的に対立している場においては、自分がどのようなふるまいをするかは、相手がどのようなふるまいをするかに依拠する。これは政治運動をする上でのキホンのキである。この最低限の観点さえ欠いた現代日本の議論水準では、議会制民主主義を守ることなど到底できないだろう。むろん、相手と対峙する場はそのまま相手との対話の場にも変貌しうる。その夢を捨ててはならない。ただし、対話(議論)は『対話(議論)せよ』というルールを定めて成立するものではない。むしろ、対話は(それが可能だとすれば)、たゆまぬ努力によって維持される対称的な力関係の下にはじめて成り立つ営みなのだ。ゆえに、政治活動の現場においては、多彩な戦術の採用をためらわない集団だけが、敵と対話しうるのである」(小峰ひずみ「議会戦術論」『群像・7・P.162〜163』講談社 二〇二四年)
「私たちは『アベ政治を許さない』というお気持ち表明的なスローガンではなく、安倍の戦術についての《的を絞った》スローガン」というのはなるほどと思える。率直に言って「『アベ政治を許さない』というお気持ち表明的なスローガン」は現代日本の保守派にとって痛くも痒くもないただ単なる「音」でしかない。「声」以前として輪をかけて猛烈な嘲笑の渦に叩き込まれるほかない。
痛くも痒くもないスローガンでしか一致できずにやってきた反対派は、ここまで低下した投票率の中ではもはや消え去ることがわかりきっている「風前の灯火」にしか見えてこない。
反対派はいつも準備が遅い、というのはもう三十五年くらい前からしばしば指摘されてきた。また「お笑い(嘲笑)戦術」が堂々と大当たりできた(その間に幾つもの政治的経済的理由から何人もの自殺者を出した)理由として「ネトウヨ?農協?日本会議?統一教会?B層?商業右翼?ーーー」の不気味な力が不穏な圧力として働いていたことも無視できないだろうとおもう。
それはそうと読んでいておもった。加藤典洋の評論の有名なものは文庫化されている。これから少しずつ買い揃えていくとしても何年かかるかわからないというこの事情は一体どこからやってくるのだろうと。物価高はむしろ延長されていくのではという疑念が渦巻くのだ。