白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ363

2024年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月二十九日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

日陰で風通しがいいからか午後は玄関の上がり框付近でのびのびすやすや。

 

季節柄仕方ないでしょう、タマはうっすら目を開けてそういう。

 

明日はもっと暑くなるらしいよタマ。

 

むむ、そのときはうんと涼しいところを探すしかないなあ、タマとしては。

 

今日はそこでいいの?

 

我慢できそう。

 

二階はどう?

 

午後の日差しによりけりってとこかな。

 

雨らしいよ。

 

蒸し暑いというわけですか、お腹がすくかもしれません。

 

お腹の減り具合と何か関係あるの、タマ?。

 

猫に限らないとおもいますよ、蒸し暑い時って人間もなんだかんだって食べるじゃないですか。

 

、、、だね、、。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジョン・ケイル。とても長いキャリアだがずっと周縁音楽的な取り扱われ方をしていた。わかるようでわからないような音楽。いわゆるアート・ロックにカテゴライズされているようだ。しかし個人的にアート・ロックのことを知ったのはジョン・ケイルからではなく中学生の頃に聴いたロキシー・ミュージック。なかでも一九七〇年代初期にブランアン・イーノがブライアン・フェリーと組んでいた頃の音がなんとも言えない新空間を広げて見せていたようにおもえる。ただ世評はイーノとフェリーとが繰り広げる音についてとにかく暗いとか退廃的だとか平気で言い放っていた。かなり迷惑な誹謗中傷であり世間というのはいつも無駄に騒々しいなあと鬱々していた。


Blog21・「笑い」あるいは「解体の共有」

2024年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

次の箇所へ来るまでラストの「オチ」が全然わからなかった。

 

「掛け軸には『喫茶去』とある。『茶、喫すべし』と呼んで、お茶を召し上がれ、との意味だそうだ。本来は禅僧が、お茶を飲んで目を覚まして来い、飲んだらとっとと修行に戻りなさい、というニュアンスで用いられていたという。最前の先生のお話を聞いてから改めて掛け軸を見ると、最初はただの漢字三文字であった『喫茶去』が、私に何かを伝えているような気がしてくる。先生は私が落語家だと知っていて今回の茶席を設けてくれているのだ。何かおもてなしの仕掛けがあるはずだと見回すうちに、お菓子の胡桃柚餅子に目が留まった」(立川小春志「ストーリーワイズ(1)」『群像・7・P.247』講談社 二〇二四年)

 

多分そうに違いないと思っていたら確かに「正解」したので心のどこかでほっとしたような気になった。

 

なぜ正解/誤解にこだわったのか。というのも落語というより普段からのミステリの読み過ぎがそうさせてしまうのかも知れない。だからもし外していたらきっと落ち込んでいただろう。

 

「以心伝心」という言葉も出てくる。けれどもすんなり「以心伝心」してしまうとかえって面白くない。

 

例えば単純な「別れ話」がそうだ。口に出さなくても次の台詞そのまた次の台詞があらかじめ決まってでもいるステレオタイプのように順序立てて繰り出される。疲れる。もはや沈黙で十分になってくる。

 

その逆にユーモアはベイトソンのいうような構造を取るのだろう。

 

「2《ユーモア》。ユーモアとは、思考や関係の奥に秘められたテーマの探索に関わるものであるようだ。その際、異なった論理レベル、または異なったコミュニケーション・モードをひとつに圧縮したメッセージを用いるというのが、ユーモアの方法である。比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられるとき、または字句通りの意味のはずだったものに突然比喩としての意味が生じるとき、ひとつの発見が起こる。このときーーーすなわちコミュニケーション様式のラベルづけが解体し、再統合されるときーーーがユーモアの沸き上がる瞬間だといえる。笑いを呼ぶ『オチ』の台詞というのは、応々にして、それまでメッセージを特定のモードに帰属させていたシグナル(コレハ字句通リノ言葉ダ、コレハ空想ダ、等)の裏をかいて、それを別様に解釈することを迫る。つまり笑わせる言葉というのは、それまでモードの分類に携わっていた高次の論理階型のメッセージを、なんらかのモードの《中に》引き入れる、という奇妙なはたらきをするのである」(ベイトソン「精神分裂病の理論化に向けて」『精神の生態学・P.290~291』新思索社 二〇〇〇年)

 

この場合の「以心伝心」は異なった論理レベルにある言葉の二重性が「駄洒落」として共有されるケース。しかしなぜその瞬間、人間は笑うのだろう。

 

ある規範の枠組みが不意に解体されまったく別の意味へ合体されるや人間は笑う。日常的枠組みからの解体こそが笑いの条件のひとつであるに違いない。とすれば枠組みは決して絶対的ではなく逆にしばしば解体されているのではないだろうか、とおもうのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて837

2024年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

夜中は雨で電気代を節約

 

しかしこれからが問題だ

 

とにかく近年の夏というのは

 

夏が終われば間をおかず冬だしなあ

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。