文学・思想を含め情報過多と叫ばれているわりには、なぜか日本で往々にして無視されたり無関心で冷淡、ときには冷笑的で横柄かつ差別的な態度さえ向けられがちなのが「すぐ近くの韓国や香港や台湾」の思想家や小説家。
ところが硬直した日本の戦後観念とは逆に東アジア諸地域で「戦後」は今や「現在進行形」の「量子状態」にあると福嶋亮大は指摘する。そしてこのぐつぐつぐらぐらと運動中の量子状態へ「接続する」ことで日本の「戦後」を固定化させず「揺らぎを与え」ようと提案している。
「戦後に関わる思考は、日本ではすっかり単調で硬直したパターンに陥っている。しかし、東アジアの戦争・戦後の評価は、今なお可塑的で、状況次第で変化する余地がある。日本の言論人はたいてい、この現在進行形の『歴史修正』に関心をもたない。そのことが日本の戦後論をこわばらせ、貧しくしているのではないか。
ゆえに、私の提案は簡単である。日本人の戦後の評価手法を、東アジアの量子状態の戦後と接続すること。戦後の歴史を一国で固定するのではなく、そこに比較を通じた揺らぎを与えること。要するに、《戦後の方程式を高次化すること》。そう考えるとき、大岡昇平ら戦後文学のもつ『二重意識』は、日本の重要な思想資源として、改めて評価されてよいのではないか。絶対に伝わらないことこそを、絶対に伝えなければならないーーーこの戦後文学の命題はすでに量子的な問題を含んでいたのだから」(福嶋亮大「量子化する<戦後>の認識」『群像・7・P.196〜197』講談社 二〇二四年)
もっともな話だ。韓国、香港、台湾、ベトナム、タイ、フィリピン、ミャンマー、インドネシアなどなど、について日本は何を知っているというのか。韓国ひとつ取ってみてもほんのときたま流行するエンタメやそこそこ名のある文学賞とかで有名になった場合に限って、「わあ~」、と殺到してもう終わり。あるいはこれら諸地域の「通」とか「専門家」や「専門家の友人知人」と呼ばれる人々の持つ情報や演説を一方的に聞かされてこれまた終わり。それでは幾つかの専門書や小説家の作品に二、三年くらい取り組んでから何か言うという基礎的姿勢がまず取れない。ますます日本は近隣諸地域から孤立していく。
そもそも東アジア諸地域で「量子状態」にある議論や思想や小説からして手に入りにくい。個人的な立場でいえば低所得者層だと読みたい小説や思想書があってもほとんど文庫化を待たずして消えていくかさもなければおそろしく高価なのでいずれにしても手に入らない。
それはそれとして。
「大岡昇平ら戦後文学のもつ『二重意識』は、日本の重要な思想資源として、改めて評価されてよいのではないか」
この「二重意識」が理解されたことが果たしてこれまであったのか。読み解こうとする試みは何度もあったようにおもう。しかしどんな「逆説」だったのか。思い出してみるのは全然わるくないだろう。
「戦後文学とは、日本人にとって前代未聞の戦争の体験を戦後社会に持ち帰ろうとする試みであり、しかもそのコミュニケーションが必ず失敗に終わることもあわせて伝えようとする逆説的な運動であった」(福嶋亮大「量子化する<戦後>の認識」『群像・7・P.192』講談社 二〇二四年)
大岡昇平「野火」を上げてこう述べられている。
「戦場の兵士の状況を厳密に認識しようとする大岡昇平の『野火』が、戦後の精神病院の場面で終わるところに、まさにこのパラドックスが凝縮されている。
もとより、戦争を引き起こしたシステムは個人を超えたところで作動する。大岡はこのマクロなシステムの作動を、あくまでミクロな『私』の『証言』として記述した。ここに、形而上学的でありながら、同時に徹底して個体的であるという戦後文学特有の『二重意識』が成立する」(福嶋亮大「量子化する<戦後>の認識」『群像・7・P.192』講談社 二〇二四年)
語彙について「高次化」とするのが妥当かどうかはわからない。けれども硬直し行き詰まり感ばかり漂う日本の言論に「揺らぎを与えること」の重要さはよくわかるのである。