白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ356

2024年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月二十二日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

リビングをうろうろするタマ。

 

廊下で涼しげに横になるタマ。

 

夕食後、何を思ったのかお気に入りのぬいぐるみを咥えてとっとと二階へ駆け上がっていった。

 

ぬいぐるみと遊んでくる、後ろ姿がそう言っている。

 

子どものように放ったらかしにしたりあちこち小まめに持ち運んだり、タマのぬいぐるみはタマのなんなのだろうと今日も物思いにふける飼い主だった。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エーメン・デューンズ。まだ見ぬ内面の深淵を惑溺して止まないクラゲのような「メリハリのなさ」や「美学の欠如」が顕著。ゆえに地球表面を覆い尽くす「(暴力的な)規律と(不可視の)管理と」に押し貫かれ疲れ果ててばかりのリスナーにとって、デジタル警察社会の中では多分にオルタナティヴな音楽として心地よく作用する。かといってありふれた「どんみり感」はなくむしろポップ。


Blog21・カートに乗った「老犬《と》散歩」

2024年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ダナ・ハラウェイはある種の犬に対してある種のずいぶん奇妙な「特権」を与えている。アジリティーというスポーツができること。「猟犬や牧羊犬や警察犬のようなプロフェショナルな犬」に与えられるような特権性。

 

またコンラート・ローレンツは「動物に見られる同種の個体間の攻撃行動を、たんなる本能的な攻撃から区別して、人間のスポーツと類比的な<儀式化>された暴力」として論じていることについて福尾匠は指摘する。

 

「まず、相手の種にかかわらず危機に対して攻撃行動で応じる本能が、まさに万人の万人に対する闘争である『自然状態』として、理念的な過去に想定される。しかし、さんご礁という高密度な環境にあっては、プランクトンから海藻から棘皮動物から魚類まで、多様な生物がひしめき合い、それぞれの生物のニッチが複雑に交差している。それは一匹の魚が特定の区画のなかで生き抜くことができる『ビオトープ』であると同時に、だからこそ、ニッチを同じくする同種の他の個体と距離を置くことが重要になる。そうして攻撃本能は同種の他の個体へと特殊化される。色彩は距離を隔てて同種どうしのを認識することに寄与し、色彩そのものが攻撃の代理として、示威的な『ポスター』として機能するようになる。熱帯魚に見られる豊かな色彩は、距離の要請の進化論的な帰結であり、こうして派手な色彩、縄張り意識、同種間の攻撃という三つの要素はひとつの『文明化』のストーリーのなかで組み合わせられることになる。無秩序な暴力とルールの下で行われるスポーツが、直接的な攻撃と色彩によるその間接化と類比的なものとなる」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.555』講談社 二〇二四年)

 

次に進む前にドゥルーズ&ガタリから引いておこう。

 

「だからわれわれは、《攻撃性を領土の基盤とする》ローレンツの考え方にしたがうことができないのだ。ローレンツによると、攻撃本能が同一種の内部に生まれ、同種の動物に向けられた瞬間から、攻撃本能の系統発生的進化によって領土が作られる。領土をもつ動物とは、同一種に属する他の個体に攻撃性を向ける動物のことである。それによって種は、一つの空間内に分配されるという選択的優位性を与えられ、この空間では一つ一つの個体、あるいは一つ一つの集団が自分の場を所有することになるのだ。危険な政治的響きをもつこの曖昧な主張は、正当な根拠を欠いていると思う。同一種の内部に生まれるとき、攻撃機能が新たな様相を呈するということは明白だ。しかし、このような機能の再組織化は、領土を前提とするのであって、決して領土を説明するものではない。領土の内側では、たとえば性行動にも、狩りにもかかわるさまざまな再組織化がおこなわれるばかりか、たとえば住居を築くなど、まったく新しい機能すら生まれてくるのだ。だが、そのような機能が組織され、創造されるのは、機能が《領土化》される場合にかぎられるのであって、その逆ではない。要因T、つまり領土化の要因facteur territoriarisant は、別のところに求めなければならない。それはまさにリズムやメロディーの<表現への生成変化>に、つまり固有の質(色彩、匂い、音、シルエットーーー)が出現するところに求められるべきなのだ。

 

こうした生成変化、こうした出現を、<芸術>と名づけることができるだろうか。それが可能なら、領土は芸術がもたらす効果だということになるだろう。芸術家は境界標を建て、指標をつくる最初の人間ということになるだろうーーー。集団あるいは個人の所有はそこに由来する。たとえ戦争や圧政が目的だったとしても、所有とは何よりもまず芸術的なものなのだ。芸術は何よりも《ポスター》、あるいは《立札》だからである。ローレンツが言うように、珊瑚礁の魚はポスターなのだ。表現的なものは、所有的なものに先行し、表現の質、あるいは表現の質料は、必然的に所有に向かい、《あること》よりも深いところに根ざした《もつこと》を形作る。それは、質が一個の主体に帰属することを意味するのではなく、質が一つの領土をかたどり、質をになったり、生産したりする主体にこの領土が帰属するということを意味するのだ。このような質はすなわち署名である。しかし、署名や固有名とは、すでに形成された主体の符号ではなく、みずから領域や領土を形成する符号である。署名は一個の人間を標示するものではなく、領域を形成する無根拠な行為である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.328~329」河出文庫 二〇一〇年)

 

こう述べる。

 

「ドゥルーズ&ガタリは『千のプラトー』でローレンツの議論にある『危険な政治的響き』を批判しているが、それは後者の、ホッブズ的な自然状態から文明化されたスポーツへという目的論的な図式に向けられたものだろう。ドゥルーズ&ガタリは動物の政治を《表現》との内在的な関係へと読み替える。熱帯魚のどぎつい色彩は表現であり、それによって表現されるのはその魚が所有する領土(テリトリー)である、と。『千のプラトー』において、動物の表現は人間の誕生を待たずに芸術を開始するものとして論じられている。それは本能を克服するスポーツを動物に見出すローレンツの身振りと一見似ているように思えるが、その意味するところはほとんど反対である。というのも、ローレンツにとって領土は機能の副産物であるのに対して、ドゥルーズ&ガタリにとっては領土こそがひとつの行動を特定の機能のもとに特殊化することを可能にするからだ。領土とは『淘汰圧』という言葉に見られるような種々の生物の利害関係が絡み合った<密>な空間性における<疎>の余地のことだ。そもそもあるとき一匹の魚にあらわれた際立った色彩という危なっかしい表現型が幾世代も保存されるのは、それが最初から機能をもっていたからなどではなくーーーそんなことは不可能だろうーーー淘汰圧のエアポケットのうちで《放っておかれた》からであり、あらゆる表現とは<疎>であることの表現である。特定の機能への特殊化はこの放棄地としての領土によって可能になるのであり、その逆ではない。

 

ローレンツにおける人間中心主義と結託した機能主義は<疎>の存在を認めず、野蛮な闘争もスポーティーな陣取り合戦もそうであるような、閉じた<密>な空間で繰り広げられるゼロサムゲームが話の前提に置かれている。しかしドゥルーズ&ガタリは、どれほど緊密にニッチが絡み合った環境においても存在しうる<疎>の発現として、領土=表現を与えている。だからこそ彼らは、外的状況や内的衝動によって発色する蛸におけるような<機能-環境>と、そのような内外の環境の様子とは関係なく彩られた熱帯魚における<表現-領土>のあいだに、権利上の差異を想定している。それはたんなる思弁ではなく、ローレンツの議論では説明不可能な、遺伝子の偶発的な変異によって現れる表現型が機能化されるまでのあいだ保存されるのはなぜかという問いへの彼らなりの応答であるだろう。その意味で表現とは《保存された偶然》なのだ」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.555~556』講談社 二〇二四年)

 

さらにドゥルーズ&ガタリは述べているが次の要約はなるほど便利。

 

「犬が空腹でもないのに狩りの身振りを反復し、羊を追い立てたりボールを取って戻ってくるのは、そうした行動が本来の=自然な(ナチュラル)狩りから剥離し、別の機能のもとで再組織化されたからだ。表現はこうした組み替え可能性を説明する」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.556』講談社 二〇二四年)

 

そこでハラウェイとローレンツとの二人ともが「見過ごし」ている点について福尾匠はこう述べる。

 

「ハラウェイの能力主義、そしてローレンツの機能主義において見過ごされているのは、動物のパントマイム師としての才覚であり、機能してもしなくてもよいものを持て余す鷹揚さである。彼女らがスポーツというトピックにおいて合流するのはその意味で納得できることだ」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.556』講談社 二〇二四年)

 

読者として実際に見ていて、ひとつの「問い」として考えていたのはここで取り上げられている「カートに乗った犬」と「散歩」についてである。スポーツとはおよそ縁のない境遇に立ち至った「老犬」の姿は世界中どこでも見かけられるわけで、「能力主義」とか「機能主義」とかで済ませてしまうわけにはいかない「犬《と》散歩」についての思想が語られる。

 

「散歩という領土化は第一に『領土』という言葉から通常想起されるような、排他的な区画を作ることではない。散歩における領土化はむしろ『近所』と呼んだほうが適当な空間性の構築であり、ここで近所とは、私有地のように面的に占有されるものではなく、むしろ、ある主体にとって馴染みのものと変わったものが識別可能なゾーンを指す。毎日近所を散歩することは、その篩(ふるい)のような空間性を手入れすることである。

 

第二に、やはり、カートに乗った散歩に顕著なように、必ずしもいわゆる『マーキング』をともなうものではない、領土化は自然-文化の区別が無効なゾーンで作動している。それはドゥルーズ&ガタリの言葉を借りれば、『機械状アレンジメント』であるだろう。それは主体と道具をともに巻き込んで形成されるひとつの『共生』ないし『合体』の形式であり、彼らはそれを人と馬の新たなかたちの結合を可能にしたあぶみという道具を例にして次のように説明する」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.557』講談社 二〇二四年)

 

ドゥルーズ&ガタリから。

 

「道具は、それらが可能にする、またそれらを可能にする混合との関連でしか存在しない。あぶみは、人間-馬の新しい結合をもたらし、それがまた同時に新しい武器と、新しい道具をもたらす。道具は<自然-社会>の機械状アレンジメントを定義する共生や合体と切り離すことができない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫 二〇一〇年)

 

その上でこう続く。

 

「道具は機械状アレンジメントから切り離して理解することができない。あぶみを理解するということは、あぶみを可能にした、そしてあぶみによって可能になったアレンジメントとしての<自然-社会>を理解することであり、手綱や鞍などのほかの道具、あるいは人間が騎乗することによってなされる機能との関係性において理解することである。

 

ここで重要なのはまず、諸々の道具はアレンジメントに内在していること、そして道具の機能はアレンジメントが決定するのであり、その逆ではないということだ。これをカートに乗った犬の話に敷衍すると、カートは散歩というアレンジメントに埋め込まれており、その道具としての価値はアレンジメントの形態に依存しているということになる。

 

われわれが避けるべきだと考えたのは、まさにこのような、犬-人間関係への道具の埋め込み・依存によるサイボーグ化という事実にすべてを還元してしまうことであった。しかし、ドゥルーズ&ガタリの機械状アレンジメント/道具に関する議論の興味深いところはむしろ、アレンジメントに対して道具を派生的なものとみなすことによって、道具の独立性をーーーそれを錯覚として批判する身振りを通してーーー認めてしまっていることだ。つまり彼らの議論には、アレンジメントへの道具の埋め込み・依存という事実と、前者からの後者の剥離という擬制の二重性が刻まれている。人間も動物も道具も等しく巻き込まれているような<自然-社会>という事実と、その事実のいち当事者である人間からの眺めにおいては道具が『たんなる道具』であることのあいだに、われわれが求める倫理のヒントがあるように思われる」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.557~558』講談社 二〇二四年)

 

さらに別の方向から道具と人間とのネットワークについて。ハイデガーのいう「道具連関」。「存在と時間」から。

 

「われわれは用具的なものを性格づけながらすでにそれの空間性に際会していたというのは、どうしてであるか。われわれは《身近かな》用具的存在者という言い方をしていた。それは、そのときどきにほかのものよりさきに最初に出会う存在者というだけでなく、同時に、『近いところにある』存在者という意味である。日常的配慮の用に具わっている存在者には、《近さ》という性格がある。よくみると、この道具の近さということは、それの存在を表現している『用具性』という用語のなかにも、すでに示唆されている。用具的なものとは、『手もとに具わっている』存在者のことである。それには、それぞれことなる近さがあるが、それぞれの近さは、間隔の測定によってたしかめられるものではなく、配視的な意味で『勘定に入れる』操作や使用の境涯で規整されるのである。配慮にそなわる配視は、このようなありさまで近くにある道具を、同時に、それがいつでも手に入れられる見当(方向)についても定めている。道具が、見当のついた近さにあるということは、それがどこかしらに客体的に存在して空間のなかに位置をもっているというだけのことではなくて、道具として本質上、一定の場所に備えつけられ、納められ、あるいは組み立てられ、整頓されているということを意味するのである。道具はその《場所》におさまっているか、さもなければ『散らかって』いる。そしてこのことも、任意の空間的位置にたんに出没しているということからは、原理的に区別して考えなければならない。それぞれの場所は、《~するためにある》この道具の場所として、環境的に存在する道具立ての連関のなかの互いに配当されあった場所の全体をもとにして規定される。このような場所とその多様な相とを、事物がどこにでも客体的に存在する任意な場所として解釈してはならない。場所は、ある道具が『そこに《適当する》』とか『あそこに《適当する》』という意味での特定の場所柄である。それぞれの場所柄への適当性は、手もとにある存在者の道具的性格に対応し、すなわち、あるひとまとまりの道具立て全体への趣向的所属性に対応するものである。そして、その道具全体との場所柄的な適当性の根底には、さらにそれの可能性の条件として、全般的な『所属』があって、道具連関はこの『所属』の内部でひとまとまりの場所を当てがわれるのである。このように道具として適当する場所柄の全体は、配慮的交渉においてあらかじめ配視的に眼に収められているが、この所属全体を、われわれは《方面》となづけておく。

 

『~の方面に』ということは、たんに『~の方向に』ということだけではなく、同時に、その方向にあるものごとの界隈に、ということである。方向性と遠近ーーー近さはこの遠近のひとつの様態にほかならないーーーによって構成される場所は、はじめからある方面に向けられ、かつこの方面の内部で互いに向きあわされている。配視的に見通しのきく道具全体性のなかで、さまざまな場所柄を配置したり見つけたりすることが可能になるためには、そのまえになにか方面というようなものが発見されていることが必要である。このように、用具的なものの占めるさまざまな場所が方面的に見当(方向)のつくものであることが、環境的に身近かに出会うさまざまな存在者にそなわる『身の廻り』的性格、『われわれの周囲』ということをなしているのである。まず、可能的な位置の三次元的多様性が与えられていて、それらが客体的事物によってうずめられる、というようなことは、決してない。このような空間の三次元性は、用具的なものの空間性のなかにまだ包みこまれている。『上の方』とは『天井に』ということであり、『下の方』とは『床に』ということであり、『うしろに』とは『扉のところに』である。どの『どこ』も、すべて日常的交渉の往来によって発見され、配視的に解意されているのであって、静観的な空間測定において確認され記載されたものではないのである。

 

さまざまな方面は、客体的事物が寄りあつまってはじめてできるのではなく、個々の場所においていつもすでに現前して具わっている。そしてこれらの場所そのものは、配慮の配視において用具的存在者に当てがわれ、あるいは見つけられる。ふだんから用に具わっていて、配視的な世界=内=存在がはじめから計算に入れているものは、このために固有の場所をもっている。それが所在する場所は、配慮の計算に入れられ、そのほかの用具的存在者を顧慮して定められている。たとえば太陽は、その光と温かさが日用に供せられているので、それが施すものの利用可能性の移りかわりをもとにして、配視的に発見されたいくつかの顕著な場所をもっている。日の出、真昼、日没、真夜中がそれである。このように移りかわりながらもたえず一様に存在している用具的なものが占める場所は、それらに含まれている方面の著しい『指標』になる。これらの四方位は、まだ決して地理学的意味のものである必要はないが、さまざまな場所で占められうるさまざまな方面を立ち入って形どっていくためにあらかじめ必要な『所属』を規定しているのである。たとえば、家には日のあたる南側と、風雨を防ぐ北側がある。これらを念頭において『間』どりがきめられており、さらにそれぞれの『間』のなかでは、各々の『間』の道具的性格に応じて室内の『調度』が配置されている。たとえば教会や墓地は、日の出と日没ーーー誕生と死の方面ーーーに合わせて設計されている。現存在は、これらの方面から、世界の内でのおのれ自身のひとごとならぬ存在について規定されているのである。おのれ自身の存在においてこの存在そのものに関わらせられている現存在の配慮は、それぞれの意味で決定的な趣向が帰着する方面を、あらかじめ発見しているのである。さまざまな方面の先行的発見は、用具的存在者がわれわれに出会ってくるものとして《それ》を見越して明け渡されているところの趣向全体性によっても規定されているわけである。

 

われわれはまえに、用具的存在者の存在が目立たなさという性格を帯びているということを指摘しておいたが、それぞれの方面の先行的な現前性は、それよりもなお根源的な意味で、《目立たない親しみの性格》をそなえている。それがそれとして目につくのは、ただ、用具的存在者の配視的発見のなかで、くわしくいえば配慮の欠如的様態のなかで、目立ってくるというありさまにおいてである。なにかが《その》場所に見当らないときに、その場所の所属する方面がはじめて表立ってそれとして知られるようになる、ということはしばしばあることである。配視的な世界=内=存在において道具全体の空間性として発見されている空間は、もともとその道具全体の場所として、それぞれの存在者に固有のものなのである。たんなる空間というようなものは、まだ蔽われている。空間は、さまざまな場所へ散在させられている。けれども、この空間性には、空間的に存在する用具的なものの世界適合的な趣向全体性によって、固有の統一性がそなわっているのである。なんらかの空間がはじめに与えられていて、そのなかへ『環境世界』というものが仕組まれるのではない。そうではなくて、環境世界の特殊的な世界性が、配視的に配当されるさまざまな場所のそのつどの全体性という趣向的連関を、その有意義性において分節するのである。それぞれの世界が、それに所属する空間のそのつどの空間性を発見する。それの環境的空間のなかで用具的なものに際会することが存在的にいつでも可能であるのは、現存在がその世界=内=存在という点からみて『空間的』であるからにほかならない」(ハイデッガー「存在と時間・上・P.228~232」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

この辺りの議論でドゥルーズ&ガタリとハイデガーとは奇妙に似通っている。だが福尾匠が言おうとしているのはいずれの議論にも含まれていること、「道具が着脱可能(デタッチャブル)で付帯的(アクセサリー)である」ということである。

 

次の二点に目を通しておきたい。

 

(1)「道具や財に対しては、諸身体の機械状アレンジメントが優位にあり、言語や単語に対しては、言表行為の集団的アレンジメントが優位にある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.191」河出文庫 二〇一〇年)

 

(2)「ホフマンスタールは、というよりもむしろチャンドス卿は、断末魔の苦悶に喘ぐ『ねずみの群れ』を前にして、何かに魅入られたような状態に陥る。そして彼の内面で、彼を貫き、ぐらついた自我の隙間をすりぬけて『ねずみの魂が非情な運命に牙をむく』のだ。これは憐憫の情ではなく、《自然に反する融即》である。そのとき彼の心に奇妙な命令が生まれる。書くのをやめるか、それともねずみのように書くか、そのどちらかを選べというのだ。作家がれっきとした魔術師たるうるのは、書くことが一個の生成変化であり、ねずみへの生成変化、昆虫への生成変化、狼への生成変化など、作家への生成変化とは異なる不可思議な生成変化が書く行為を貫いているからだ。なぜそうなるのか、理由をはっきりさせておかなければなるまい。作家の自殺は、その多くがこうした自然に反する《融即》によって、自然に反する婚姻によって説明される。作家が魔術師たりうるのは、作家が、権利上の責任を負うべき唯一の個体群として、動物を生きているからだ。ドイツの前ロマン主義作家モーリッツは、死んでいく子牛に対して責任を感じるのではなく、子牛が死ぬ光景を前にして、この子牛が信じがたいほど明確な大自然の実感を伝えてくれるからこそ、自分の責任を痛感する。つまり《情動》である。なぜかというと、情動とは個人的な感情ではなく、一個の独立した性格でもなく、群れの力能を実現することにほかならないからだ。しかもそれが自我を刺激し、自我のゆらぎを引き起こす。ほんの一瞬とはいえ、個人を人類から引き離し、齧歯目の動物さながらにパンをひっかくようにしむけたり、猫族特有の黄色い目を生じさせたりする、そんな動物的シークエンスの荒々しさを体験したことのない者がいるだろうか?」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.163~164」河出文庫 二〇一〇年)

 

とすればこう言うことは可能だろう。「カートに乗った老犬たち」とともに暮らす世界中の「人間の責任」とは何か。

 

「カートに乗せられた犬の移動を散歩と呼ぶためには、道具の着脱可能・付帯的なありかたが確保されなければならないのだった。人間はともに生き、ともにサイボーグ化してきたーーー種としての、個体としてのーーー歴史を共有する犬に対して、それでも君は犬で、いまカートに乗っているのはたまたまのことで、これはいつもの散歩なのだと言う責任がある。つまりこれは、権利の問題ではなく責任の問題である。権利は普遍的に付与されるものであり、責任は主体的に引き受けるものである。言い換えれば、権利には他者がいないが、責任はつねに他者関係において発生する。そしてこの場合、他者とは人間にとっての犬であり、引き受けるべき責任とは、道具の着脱可能・付帯的なありかたを《言う》こと。もっと強く言えば、君はサイボーグではなく、これは散歩だと《ウソをつく》ことである。

 

なぜか。犬を道具の世界に引き入れ、また、名前をつけ言葉の世界に引き入れたのは、人間だからである。いや、機械状アレンジメントという事実においてはそうした非対称性すら霧消するだろう。しかしだからこそ<言う>ことが問題なのだ。

 

くしくもドゥルーズ&ガタリは機械状アレンジメントと相互前提的に働く『言表行為の集団的アレンジメント』の二元性によって人間社会の存在論を描き出していた。そして彼らは、物書きは死にゆく動物を前にして、ある『責任』の情動に撃たれると書いていたのだった。このふたつのことは、道具の着脱可能性を<言う>ことによって、人間と動物の非対称性を引き受ける倫理を指し示している」(福尾匠「言葉と物(9)」『群像・7・P.559』講談社 二〇二四年)

 

そして話は前後するけれども。

 

「犬がたんなる犬であり散歩がたんなる散歩であることを、ある種の擬制(フィクション)として生きる権利が、われわれにも犬にも(?)あるのではないか」

 

考えてみる価値というのは今やどの人間も「テクノロジーに支援された人間」=「サイボーグ」であることを免れることはできない事情と同時に発生する。しかしなお人間は犬(主体)とカート(道具あるいはテクノロジー)と散歩とを分離して捉えうることは可能かということを言葉の問題として捉えることはできるだろう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて830

2024年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

失望するだろうと思っていたら本当に失望した

 

的中した

 

昨日の首相の記者会見

 

著しく目減りする年金

 

いっそう激しい苦痛が低所得者層や中小零細事業者に襲いかかる

 

秋になれば「一時金」を出すつもりだと

 

金額や算出方法の提示はひとつもない

 

財源はまるで不透明

 

結局「一時金」はさらなる増税から、ということなのだろう

 

原発は国策で猛進するし

 

万博もリニアも国策

 

一度国策化されたものは国家が破綻してもなお相続される不思議この上ない日本

 

真っ暗な未来が具体的、そしてちゃくちゃくと用意されている国の下で、子どもたちや高齢者たちをどうしようというのだろう

 

銃後へ、原発へ、しかし星条旗は永遠だろうか

 

いうまでもなく必ずしもそうとは限らない

 

GDPはますます転げ落ち、、、

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。