早いもので二〇二四年も半年が過ぎた。
ちまたではアナーキズム関連の書籍出版が盛んなようだ。
それは多分そうなるだろうと思っていた。
個人的には予言や宗教はまったく信じない立場でありながらも十分に想定内の予言的事態が現実化したに過ぎないようにおもえる。
すでに十二年くらい前、その兆候はちらほら見られた。
大型書店へ行くとプルードンに関する書籍が何だかよくわからないながらも思いついたかのように入っていたりした。
今度は今年四月にクロポトキンの書籍「相互扶助論」が新しい翻訳で出版されたらしい。
なぜだろうと訳知り顔でわざわざ問いかけなくともグローバルな新自由主義が世界を覆い尽くそうとしているばかりかますます覆い尽くしていくまさにそのタイミングでマルクスではなくアナーキストの諸著作が顧みられるのは何も理由がないわけでは決してないしただ単なる流行で終わるようなものでもないだろう。
グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明」は異例のヒットとなっているようだが、そこで重点が置かれているのはクロポトキンのいう「相互扶助」という概念である。
たとえば誰でも知っているモヘンジョダロについて。ほとんど誰も知らないことが書かれている。
「モヘンジョダロでは、都市の滅亡するおよそ二〇〇年前にすでに、大沐浴場が荒廃していたことがわかっていいる。工房施設や一般住宅が、市街区域を越えて城塞区域やまさに大沐浴場跡にまで広がっているのである。市街区域のなかには、まるで宮殿のような寸法の建築物とその脇に付属する工芸品の工房がみられる。この『もうひとつの』モヘンジョダロは、何世代にもわたって存在し、都市の(この時期までに数百年もの歴史を有していた)ヒエラルキーをなにか別のものに変えようとする自覚的なプロジェクトを表現しているようにみえるーーー考古学者たちはその別のものがなんであるかをいまだに考えあぐねているのだが」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.369」光文社 二〇二三年)
さらに余り知られていないが注目されてはいる中国の陶寺遺跡について。紀元前二〇〇〇年頃に「崩壊」したとされる遺跡。このときの「崩壊」とはどのような変化をいうのか。
「これは、崩壊というよりも、厳格な階級制度が廃止されたあとに、むしろ繁栄を謳歌した時代であるようにみえるのだ。宮殿が破壊されたあと、人びとはホッブス的な『万人の万人に対する戦争』に陥ることなく、シンプルにみずからの生活を前向きに送っていた。おそらく、かれらの目に、あたらしい社会は、より公平な地域自治システムと映っていたのではないか」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.373」光文社 二〇二三年)
アナーキズムは何もかもぶち壊してしまうのがいいと言っているわけではない。グレーバー+ウェングロウの言葉を借りれば「暴力(または主権)の統制、知(情報)の統制、カリスマ的政治」による独裁制の拒否として幾多の試練/実験を繰り返し蓄積してきた極めて地味な集合的知恵とヴィジョンとの組み換え組み合わせへと身を開き、さらにそれらを刷新していこうとする態度の重要性へ架橋するのがアナーキーを特徴づける。
バッド・トリップとしての新自由主義を相対化し隅々まで舐めるように検証するための装置としてグレーバー+ウェングロウが引っ張り出したというだけに過ぎないわけではないだろう。かつてクロポトキンが言った「相互扶助」という概念はむしろ新しく読み直されることを望んでいるようにおもえるのである。
といっても新訳クロポトキン「相互扶助論」は日々の生活の都合上まだ手に入っていないのだがーーー。