白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ345

2024年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月十一日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

早朝午前四時。

 

目を覚ますとタマがぬいぐるみを咥えて飼い主の寝床へとことこやって来る。

 

よくあるんだけど、いつもたまたま出くわしたように見えるんだよね、なぜか。

 

ぬいぐるみの中にはちりんちりんと極微な音のする鈴のようなものが入っているためその音で目覚めるのかも知れない。

 

タマがぬいぐるみを咥えてせっせとあちこち運んでいるときはいつもその極微なちりんちりんを鳴らせながら移動する。

 

飼い主が子どもの頃は夏限定でかき氷の屋台がちりんちりんを鳴らしていた。

 

タマの場合は春夏秋冬ちりんちり~ん。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ベス・ギボンズ。マッシヴ・アタックが切り開いた地平は新しく聴こえたけれども、だからといって「ブリストル・サウンド」というカテゴリーに過剰にこだわる必要性をもはや感じなくなっている。「人生百年時代」という不可解きわまるキャッチコピーを真に受けてあれがいるこれもいると有り金全部持っていかれて野垂れ死ぬことがわかりきっている新自由主義に覆い尽くされた世界で、玉石混交に輪をかけて馬鹿げた狂乱時代を横目に通り過ぎたベス・ギボンズの今作ははっきり言ってイギリスのフォークソングとでも形容したい。何度も繰り返される独特のギターはややもすればジミー・ペイジがいかにパクリの才能に長けていたかという場外のエピソードまで思い起こさせて面白い。


Blog21・差別殺人パラダイス

2024年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ジュディス・バトラーの名はすでに世界的に有名。だがバトラーの著作について拒絶反応を示した人々は「ジェンダー/セクシャリティ」の専門家の中にもいたし今なおいる。なぜ拒絶なのか。まったくおかしな話である。

 

ある「規範」。ここでは「性別二元論に根を持つ言葉/あり方しか用意されていない社会」。つい最近までのほとんど世界のすべて、ということになるだろう。その中では存在することができない「ある種のアイデンティティ」がある。例えば「ノンバイナリー」がそうだ。反動的に巻き起こった拒絶反応はノンバイナリーの存在が不在でありそもそも「見えない」し、そのように不可視化された社会的諸条件の中でしか生きてこなかった人々がどれほど多いかを露呈させるものだった。

 

バトラーはいう。

 

「バトラーはこうも言っていた。なすべき課題とは新しい可能性を愛でることではなく、《すでに》文化の領域に存在しながら不可能とされていた可能性を記述し直していくことなのだと」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.202』講談社 二〇二四年)

 

「性別二元論に根を持つ言葉/あり方しか用意されていない社会」の中で育まれたこれまでの文化について。「なすべき課題とは新しい可能性を愛でることではなく、《すでに》文化の領域に存在しながら不可能とされていた可能性を記述し直していくこと」だ。

 

不可視化され拒絶されてきた生であるがゆえに、今現在「《すでに》文化の領域に存在」しているのは明らかであり、世界中のほとんど誰の手にでもありそうな言葉(例えば聖書、テレビの御用コメンテーターのおしゃべり、短絡的ベストセラーなど)を読み直す作業を通して可視化することは十分可能だろう。

 

バトラーでなくても今このような世界に満ち溢れている「規範の暴力」を明るみに出すことは、ある程度「こつ」のような技術はいるかもしれないが、さほど難解ではないだろうし気付きがあればむしろ簡単にできるようになるに違いない。

 

水上文はバトラーの論考を引き継ぎつつ「悲嘆可能性」について簡潔に述べている。喪に服することで政治的に承認される人々とは逆に「見えない」ものとして存在しないとされる人々がいる。

 

「正体不明なまま猛威を振るったエイズは、当時のアメリカ社会においてゲイ男性の病とされ、公的に対処されず、人々はいわば政治的に見殺しにされた。同性愛は異性愛規範のうちで『不可能』なものとされ、したがってその生は顧みられず、死は公的な喪の対象とはならなかった。ゲイがどれほど死のうとも『見えない』ものとして振る舞うマジョリティを前にして、声を上げなければ待つのは死のみという状況に追い込まれたことこそ、クィア・アクティヴィズムの誕生の発端である。そしてこの時、喪に服することは政治的行為に他ならなかった。なぜならそれは、悼むべき死として承認されていないものを承認するよう、その死を悼み尊重するよう、すなわちその死を看過する社会そのものの変容を、求める行為だからである。

 

誰の死は公的に悼まれ、誰の死は喪失を承認することさえ拒まれているのか」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.204』講談社 二〇二四年)

 

イスラエル極右政権によるパレスチナ人へのジェノサイド(大量虐殺)、また韓国で起きたトランス女性の死についてトランス差別を煽り立てていた人物の嘲笑に満ちた投稿についても触れる。

 

「今なおイスラエルによるパレスチナ人の虐殺を私たちが止められていない、この事実こそが、悲嘆可能性がいかに不平等であるかを物語っているのだ。あるいは近年とりわけ激化するトランス差別においても明白である。トランス排除を訴えるクク・チへは、トランス女性のピョン・ヒスが遺体となって発見され、自死した可能性があると報道された日に『一人の男が死んだね』と投稿したのだ。《暴力とは何か》をこれほど雄弁に物語るものはない。どんな生が喪失されたのかさえ承認することを拒む、これほど暴力的なことは他にない。不平等はただ制度的な取り扱いの差といったものにのみ表れるのではなく、その生をひとつの生として承認しないという態度に表れる。だからバトラーは、社会的不平等に抗う闘争はまた、悲嘆可能性の格差に抗う闘争である必要があると言う。ある生がひとつの生として承認されること、喪われたら悼まれるべきものとして取り扱われることは、世界がその生を悼むべきものとして取り扱われることは、世界がその生を維持するよう、その生に未来が拓かれるよう求めることなのだから」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.205』講談社 二〇二四年)

 

追悼するにはその死が不在では追悼のしようもない。当たり前のことだが「喪に服することは政治的行為に他ならなかった。なぜならそれは、悼むべき死として承認されていないものを承認するよう、その死を悼み尊重するよう、すなわちその死を看過する社会そのものの変容を、求める行為だからである」。

 

さらに今なお残る実態。

 

「悲嘆可能性の格差」

 

一方に壮大な追悼があり、もう一方に「喪失を承認することさえ拒まれている」死がある。そして壮大な追悼はその壮大さゆえにしばしば数々の政府の不都合な失敗を長々と覆い隠すツールとして何度も利用される。

 

「見えない」ことにされている、あるいはされてきた、ともすればこれからも「見えない」ことにされていくかもしれない人々の生。それらを可視化し承認し続けていくためにどこでどのように間違ってきたかの読み直しに取り組み「規範の暴力」を根絶し変容させていくことはいつだって可能だと教えてくれる。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて819

2024年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

なるべくひとつの部屋で

 

食事はもちろん

 

読書なんて当然食事ができる場所があるならそこで

 

贅沢は敵だ状態

 

とほほな暮らしでも当分つづくだろうし

 

日本の場合

 

回復基調というものからはおそらく永遠にほど遠く感じる

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。