ジュディス・バトラーの名はすでに世界的に有名。だがバトラーの著作について拒絶反応を示した人々は「ジェンダー/セクシャリティ」の専門家の中にもいたし今なおいる。なぜ拒絶なのか。まったくおかしな話である。
ある「規範」。ここでは「性別二元論に根を持つ言葉/あり方しか用意されていない社会」。つい最近までのほとんど世界のすべて、ということになるだろう。その中では存在することができない「ある種のアイデンティティ」がある。例えば「ノンバイナリー」がそうだ。反動的に巻き起こった拒絶反応はノンバイナリーの存在が不在でありそもそも「見えない」し、そのように不可視化された社会的諸条件の中でしか生きてこなかった人々がどれほど多いかを露呈させるものだった。
バトラーはいう。
「バトラーはこうも言っていた。なすべき課題とは新しい可能性を愛でることではなく、《すでに》文化の領域に存在しながら不可能とされていた可能性を記述し直していくことなのだと」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.202』講談社 二〇二四年)
「性別二元論に根を持つ言葉/あり方しか用意されていない社会」の中で育まれたこれまでの文化について。「なすべき課題とは新しい可能性を愛でることではなく、《すでに》文化の領域に存在しながら不可能とされていた可能性を記述し直していくこと」だ。
不可視化され拒絶されてきた生であるがゆえに、今現在「《すでに》文化の領域に存在」しているのは明らかであり、世界中のほとんど誰の手にでもありそうな言葉(例えば聖書、テレビの御用コメンテーターのおしゃべり、短絡的ベストセラーなど)を読み直す作業を通して可視化することは十分可能だろう。
バトラーでなくても今このような世界に満ち溢れている「規範の暴力」を明るみに出すことは、ある程度「こつ」のような技術はいるかもしれないが、さほど難解ではないだろうし気付きがあればむしろ簡単にできるようになるに違いない。
水上文はバトラーの論考を引き継ぎつつ「悲嘆可能性」について簡潔に述べている。喪に服することで政治的に承認される人々とは逆に「見えない」ものとして存在しないとされる人々がいる。
「正体不明なまま猛威を振るったエイズは、当時のアメリカ社会においてゲイ男性の病とされ、公的に対処されず、人々はいわば政治的に見殺しにされた。同性愛は異性愛規範のうちで『不可能』なものとされ、したがってその生は顧みられず、死は公的な喪の対象とはならなかった。ゲイがどれほど死のうとも『見えない』ものとして振る舞うマジョリティを前にして、声を上げなければ待つのは死のみという状況に追い込まれたことこそ、クィア・アクティヴィズムの誕生の発端である。そしてこの時、喪に服することは政治的行為に他ならなかった。なぜならそれは、悼むべき死として承認されていないものを承認するよう、その死を悼み尊重するよう、すなわちその死を看過する社会そのものの変容を、求める行為だからである。
誰の死は公的に悼まれ、誰の死は喪失を承認することさえ拒まれているのか」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.204』講談社 二〇二四年)
イスラエル極右政権によるパレスチナ人へのジェノサイド(大量虐殺)、また韓国で起きたトランス女性の死についてトランス差別を煽り立てていた人物の嘲笑に満ちた投稿についても触れる。
「今なおイスラエルによるパレスチナ人の虐殺を私たちが止められていない、この事実こそが、悲嘆可能性がいかに不平等であるかを物語っているのだ。あるいは近年とりわけ激化するトランス差別においても明白である。トランス排除を訴えるクク・チへは、トランス女性のピョン・ヒスが遺体となって発見され、自死した可能性があると報道された日に『一人の男が死んだね』と投稿したのだ。《暴力とは何か》をこれほど雄弁に物語るものはない。どんな生が喪失されたのかさえ承認することを拒む、これほど暴力的なことは他にない。不平等はただ制度的な取り扱いの差といったものにのみ表れるのではなく、その生をひとつの生として承認しないという態度に表れる。だからバトラーは、社会的不平等に抗う闘争はまた、悲嘆可能性の格差に抗う闘争である必要があると言う。ある生がひとつの生として承認されること、喪われたら悼まれるべきものとして取り扱われることは、世界がその生を悼むべきものとして取り扱われることは、世界がその生を維持するよう、その生に未来が拓かれるよう求めることなのだから」(水上文「批評と倫理」『群像・7・P.205』講談社 二〇二四年)
追悼するにはその死が不在では追悼のしようもない。当たり前のことだが「喪に服することは政治的行為に他ならなかった。なぜならそれは、悼むべき死として承認されていないものを承認するよう、その死を悼み尊重するよう、すなわちその死を看過する社会そのものの変容を、求める行為だからである」。
さらに今なお残る実態。
「悲嘆可能性の格差」
一方に壮大な追悼があり、もう一方に「喪失を承認することさえ拒まれている」死がある。そして壮大な追悼はその壮大さゆえにしばしば数々の政府の不都合な失敗を長々と覆い隠すツールとして何度も利用される。
「見えない」ことにされている、あるいはされてきた、ともすればこれからも「見えない」ことにされていくかもしれない人々の生。それらを可視化し承認し続けていくためにどこでどのように間違ってきたかの読み直しに取り組み「規範の暴力」を根絶し変容させていくことはいつだって可能だと教えてくれる。