白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ376

2024年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十一月九日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

さっき飼い主の妻が新聞紙を千切りにしてタマの猫砂を作ってくれてたよ。

 

うちで賄えるものはうちで賄うしかないからね。新聞紙の千切りってのは貧乏人の知恵のひとつとしてはなかなか上手い発想。でも実は妻が考えたんじゃなくて人から教えてもらったんだ。

 

そうなの?鼻歌まじりで何だか楽勝って感じだった。

 

鼻歌?

 

てめえがやれよ~、って。

 

井上園子ね。二度も三度もリピートして見てたようだけど。

 

女性の気持ちを代弁してくれてるとかなんとか言ってた。

 

まあね、大阪の会社員時代にそりゃあひどい目に遭わされてるから。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。コッペ。前作のリミックス・ヴァージョンなのだが前作はジャズのスタンダード・ナンバーが多かった。コッペと親交の深いアーティストたちがそれをリミックスしたらどうなるか。日本のマス-コミではなぜかますます全盛期の焼き直し的繰り返しばかり計画されていそうな下品この上ない「感動ポルノ」とはまるで無縁の世界でぷかぷか浮かびながら過ごす時間はいいものだ。


Blog21・ない裾を分けてみる

2024年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

すべてではないだろうと思うのだが最近の日本のヒップホップを聴いていると常に何かしらの疑惑から逃れることができない。大きなきっかけは東京五輪。CMでほいほい流れてきて驚いた。

 

数々の不正にしてもマス-コミは後出しばかり。それが日本の伝統文化。あるいはお家芸と言ったほうが的を得ているかも知れない。

 

ほとほと嫌になることが度重なる。マーク・フィッシャーにシンパシーを感じるのはそういう時だ。

 

(1)「もし『カウンター・カルチャーが新自由主義を生み出した』のならば、カウンター・カルチャーは存在しないほうがよかったのではないか?だが、実際には、正反対の主張のほうにより説得力があるように思われる。つまり、六〇年代以降の左派の挫折は、それがカウンター・カルチャーが解き放った夢想を否定したこと、あるいは、その夢想に関わろうとしなかったことのほうに深い関係があるのではないか、ということである。新右派がこれら新たな思潮を乗っとり、義務的個人主義(mandatory individualisation)と過重労働のプロジェクトに組み込んだことに、不可避なものは何もなかった。

 

仮にカウンター・カルチャーが、望める最善の結果ではなく、足元のおぼつかない初めの一歩に過ぎなかったとすればどうだろう。そして仮に、新自由主義の成功が資本主義の必然性の証ではなく、自由になりえたかもしれない社会の亡霊がそれに突きつける脅威の程度をあらわすものだとすれば、どうだろう?」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.222」ele-king books 二〇二四年)

 

(2)「一九七〇年代の再読を通じて、『六〇年代が新自由主義を生み出した』という単純な物語をはるかに超える形で、新自由主義の反革命にあった大胆な知性、獰猛なエネルギー、そして臨機応変な想像力を理解することが可能になる。資本主義リアリズムの確立は、ただ単に古い情勢の復元ではなかった。というのも、新自由主義が押し進めた義務的個人主義は新しい形の個人主義であり、六〇年代にまくしたてられた様々な集団性へ抗う形で定義された個人主義であったからだ。この新しい個人主義は、それらの集団性を凌駕し、忘れさせるために設計されたものである。それゆえに、これら集団性の諸形態を再び思い起こすことは、追憶の行為というよりも《忘却を取り消すこと》を意味し、自由になりえたかもしれない世界の亡霊を再び呼び覚ます逆・悪魔祓い(counter-exorcism)なのである」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.223~224」ele-king books 二〇二四年)

 

鬱々たる日々。

 

ところが、ーーー見つけた。

 

今朝方。

 

まだ予告編だけらしい。

韓国のオルタナティヴ(Alternative)ということで「K-ALT」(”カルト”)。

 

確信犯的ネーミングのきわどいチープさがタイミング的にもいい。

 

一日でも寿命が延びた気がするのはただ単なる気のせいに過ぎないのだろうか。


Blog21・「群像短歌部」感想(2024.11.9)

2024年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

(1)「少し目を離すと母は縁日の金魚を手掴みで食べていた 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.430』講談社 二〇二四年)

 

選者が述べているとおり認知症、もう少し広く取れば何らかの精神障害を背負うことになったのかも知れないなあという印象を受ける。今回のテーマは「ホラー」。なのでホラーという形式を借りて何を伝えたいのか、伝えたいことがあるとすればどのようにしてなのだろうと思って読む。今作もそうなのだが以前の歌を見ても一貫してほの見えるものがある。

 

「ひらがなの<ん>になるように抱えてた膝をシーツの海で解いた 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第7回)」『群像・1・P.160』講談社 二〇二四年)

 

「歯ごたえのない食事です 風船を手放してする真昼のキスは 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.543』講談社 二〇二四年)

 

例えば「歯ごたえの」の歌では選評の最後に「切なさ」と書かれている。だとしたら個々のケースで大変微妙に異なる感覚なのでおいそれと文字通り「切ない」を持ってくるわけにはいかなくなってくる。その意味では言葉遣いにとても気を配る詠み手に思える。

 

それはそれとして自己客観化の距離がいつも同じでもはや固定化されているのではと感じる。ところが音楽の世界でしばしば言われるようにステレオタイプ化はもうたくさんだけれども逆にそう簡単にころころ変わっていては二流三流もいいところという逆説があって、作者の場合はころころ変わらないところに持ち味が出ているというか、そんなふうに接するような読ませ方に妙味がある。

 

(2)「僕だけがうしろを向いて僕以外僕を見ている集合写真」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.431』講談社 二〇二四年)

 

現実世界がもはやフィクショナルなホラーを超えてしまっている現在、この種の悪夢的記憶は素朴ではあるものの、残り続けていくかも知れない。写真を撮るというのはある種の「簒奪」でもある。被写体からその主体性を有無も言わせず奪い去ってしまう行為へいつでもなり得る。そう考えると「僕以外僕を見ている集合」というフレーズは「僕以外僕を見ている/白い目で見ている/実はまるで見ていない集合」というふうに不気味過ぎる疎外感を与える効果があり、ホラーで言えばそこが魅力かもしれない。

 

(3)「落ちているセミを蹴飛ばし下校する生きていたなら特点は倍 早坂つぐみ」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.434』講談社 二〇二四年)

 

選者が最後のほうで言っている「主体ひとりで黙々と”セミを蹴飛ばし”ている可能性も全然あって、そちらのほうがより恐ろしく」のイメージで受け取った。そうでなかったらどうしてあえて「ホラー」でなければならないのかという必然性をあまり感じないと思ったから。

 

(4)「あと一度うるさくしたら死にます、と隣家のドアに張り紙がある 木下龍也」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.436』講談社 二〇二四年)

 

選者の歌。折原一作品の帯のキャッチコピーかと思った。なんでだろうと読んでいくと「恐怖の舞台を家に絞ってみた」とある。そこで腑に落ちたというわけ。

 

なお「群像短歌部」が書籍になって発売されるらしい。タイトルは「すごい短歌部」。発売に合わせたトークイベントも開催予定とあるのだが、できればあんまりおしゃべり上手でない人々の言葉も拾ってもらえればと願ってやまない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて970

2024年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

ギターのエクササイズ。ジャズのフレージング/アドリブを活用する。

 

(1)チャーリー・パーカー「BILLIE’S BOUNCE」から0:50~1:15付近。前半はもろにブルースなフレーズの連発。特にロックやブルースしかやって来ていない場合うっかり手癖でチョーキングしてしまいそうになるかも。ここでチョークや大きなヴィブラートはあえて禁じてスライドでこなすとパーカーのニュアンスに近づく。とはいえどうしてもヴィブラートをかけたくなる時は出てくるわけで、そういう時はどうするかというと、ひとつの指(できれば人差指だけ、中指だけ、薬指だけ、小指だけ)で半音だけを瞬速に何度か往復させる。すると左手移動のエクササイズになるわけで特に面倒くさがりな人にはお薦め。自身がうつ病を抱えているだけになおさらそう心がけるようにしている。でも無理はいけない。特にうつ病歴が短い人の場合、どこからが無理でどこまでが無理でないかという感覚がなかなかつかめないだろうから。わかってくるとその日の体調に合わせてエクササイズに組み込むのが良いかと。後半の二小節は単なる速弾き。

 

(2)チャーリー・パーカー「BILLIE’S BOUNCE」から1:16~1:22付近。少なくとも三つのポジションが考えられる箇所。どのポジションを用いるにしてもスウィープでこなすとパーカーというかサックスのニュアンスに近づく。

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。