(1)「少し目を離すと母は縁日の金魚を手掴みで食べていた 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.430』講談社 二〇二四年)
選者が述べているとおり認知症、もう少し広く取れば何らかの精神障害を背負うことになったのかも知れないなあという印象を受ける。今回のテーマは「ホラー」。なのでホラーという形式を借りて何を伝えたいのか、伝えたいことがあるとすればどのようにしてなのだろうと思って読む。今作もそうなのだが以前の歌を見ても一貫してほの見えるものがある。
「ひらがなの<ん>になるように抱えてた膝をシーツの海で解いた 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第7回)」『群像・1・P.160』講談社 二〇二四年)
「歯ごたえのない食事です 風船を手放してする真昼のキスは 常田瑛子」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.543』講談社 二〇二四年)
例えば「歯ごたえの」の歌では選評の最後に「切なさ」と書かれている。だとしたら個々のケースで大変微妙に異なる感覚なのでおいそれと文字通り「切ない」を持ってくるわけにはいかなくなってくる。その意味では言葉遣いにとても気を配る詠み手に思える。
それはそれとして自己客観化の距離がいつも同じでもはや固定化されているのではと感じる。ところが音楽の世界でしばしば言われるようにステレオタイプ化はもうたくさんだけれども逆にそう簡単にころころ変わっていては二流三流もいいところという逆説があって、作者の場合はころころ変わらないところに持ち味が出ているというか、そんなふうに接するような読ませ方に妙味がある。
(2)「僕だけがうしろを向いて僕以外僕を見ている集合写真」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.431』講談社 二〇二四年)
現実世界がもはやフィクショナルなホラーを超えてしまっている現在、この種の悪夢的記憶は素朴ではあるものの、残り続けていくかも知れない。写真を撮るというのはある種の「簒奪」でもある。被写体からその主体性を有無も言わせず奪い去ってしまう行為へいつでもなり得る。そう考えると「僕以外僕を見ている集合」というフレーズは「僕以外僕を見ている/白い目で見ている/実はまるで見ていない集合」というふうに不気味過ぎる疎外感を与える効果があり、ホラーで言えばそこが魅力かもしれない。
(3)「落ちているセミを蹴飛ばし下校する生きていたなら特点は倍 早坂つぐみ」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.434』講談社 二〇二四年)
選者が最後のほうで言っている「主体ひとりで黙々と”セミを蹴飛ばし”ている可能性も全然あって、そちらのほうがより恐ろしく」のイメージで受け取った。そうでなかったらどうしてあえて「ホラー」でなければならないのかという必然性をあまり感じないと思ったから。
(4)「あと一度うるさくしたら死にます、と隣家のドアに張り紙がある 木下龍也」(木下龍也「群像短歌部(第16回)」『群像・12・P.436』講談社 二〇二四年)
選者の歌。折原一作品の帯のキャッチコピーかと思った。なんでだろうと読んでいくと「恐怖の舞台を家に絞ってみた」とある。そこで腑に落ちたというわけ。
なお「群像短歌部」が書籍になって発売されるらしい。タイトルは「すごい短歌部」。発売に合わせたトークイベントも開催予定とあるのだが、できればあんまりおしゃべり上手でない人々の言葉も拾ってもらえればと願ってやまない。