白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ383

2024年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十一月十六日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

お昼にまたタマが昨日のように部屋のドアを開けようドアノブをガチャガチャさせながら甘えた声を上げるので開けて入れてやる。OA機器に使う細いコードを噛みちぎると危険だし買い換えると恐ろしくお金がかかるため小まめに気を付けながら部屋でうろうろするのを見ていると、どうも特定の書籍類に限って鼻を突っ込み覗き込み匂いをふんふん嗅いで時々不思議そうに立ち止まっている。

 

どんな本か。差し当たり六冊ほど。

 

(1)家庭画報特選「名碗に学ぶ茶碗のめきき」(世界文化社 一九八九年)

 

(2)クロワッサン「最高の陶磁器、ガラスに出会える全国美術館48」(マガジンハウス 一九九一年)

 

(3)家庭画報編「茶室と露路」(世界文化社 一九九四年)

 

(4)別冊太陽「能」(平凡社 一九七八年)

 

(5)ニーチェ「ツァラトゥストラ」(中公文庫 一九七三年)

 

(6)ニーチェ「生成の無垢(下)」(ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

あとは音楽雑誌でほぼいつもページを開きっぱなしにして置いているところ。マイケル・シェンカー、イングヴェイ・マルムスティーン、チャーリー・パーカーなど。

 

タマさん、どれが良かった?

 

というか、飼い主は椅子に腰掛けたままなのに何であっちに置いてある本とか本の切り抜きとかから飼い主の匂いがしてくるのって思う。

 

何度も触ってると移るもんだよ匂いは。

 

でもタマね、うんちとかおしっこした時は必ず匂いを消すよう心がけてるよ。なんでかって言うと匂いを残したままだと危険だからさ。

 

本とか切り抜きとかに移った匂いはうんちでもおしっこでもないよ。

 

じゃあ縄張りっていうの?マーキングってやつかな。

 

結果的にそういうことになっちゃってるのかも知れない。

 

だったらさ、飼い主が言ってる中東戦争の爆撃見ててどうにも腑に落ちないんだ。穴ぼこだらけにしてるのはわざとうんちとかおしっこをぶっかけて強烈な悪臭をそのまんま放置して縄張りだって言ったらそれで正しいって認められるわけ?

 

近いかもね。まあ今回のガザについてはもろにやっちゃってるみたいでわかりやすいと言えばわかりやすい。言ったもの勝ちやったもの勝ちの強姦主義を今なお信仰してるって世界中に向けて大声で宣言してるに等しいわけだし。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ダイアレクト。外出時はシャットアウトしたくても否応なく聴こえてくる音楽で溢れかえっているが、それを嫌がる人も多いので、そうなると外出先によってはただ単にアンビエント風の音楽を流しておけば無難だろうみたいな場所が増えてきた。そういう時はアンビエントならアンビエントでその出発点に立ち戻ってみればいいのではと思わせてくれる。う~ん、なるほど。

今日ももうひとつ。Jiselle。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。

 


Blog21・子どもは思う、「変だなあ」

2024年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

自明性の崩壊。その感覚を覚えたのはいつ頃のことかというと物心ついてしばらく経った三歳くらいの時。ちょうど言葉の習得課程に入る頃と言い換えることができるかとおもう。自明性の崩壊からの復帰の仕方についてはどうか。周囲で常に立ち働いている枠組みとの関係再構築へ取り掛かればいいというわけだがこれまた言語習得課程に入る時期と並行して身に付けてきたように思える。

 

雑賀恵子は自明性の崩壊について「途絶え」と呼んでこういう。

 

「そんな途絶えが、突然くる。山中くんのように、手に負えない事態に振り回されることはないのだけれども、そのような空隙に入ってしまうことが怖くて、私は、家から出かけたり、人と喋ったり、ご飯を食べたり、そんなことをいろいろしながら、日常に必死になって縋りついているのかもしれない」(雑賀恵子「駐車場にて」『群像・12・P.129』講談社 二〇二四年)

 

ここで大事なのは「途絶え」た瞬間、異なる世界がある、それも複数ある、ということに気づいてしまうことなのではとの思いがしょっちゅうする。幼少期は特にそれが激しく他愛ない会話ひとつ取ってみても途中で言葉が途絶えてしまい何だか妙な「間」が空いたりするとそれはそれは恐ろしい不安に陥ったものだ。いつもならそこへ置かれることになっている言葉がなぜか容易にやって来ない。自明性の崩壊というのはそれに近いだろう。だからかも知れないが後に覚えた「シニフィアン/シニフィエ」の繋がりは何ら必然的なものでなく逆に恣意的なものだというソシュールの発見がすんなり頭の中に入ってきた。

 

「シニフィアン/シニフィエ」の繋がりは必然的なものでない。とすればこの世界をぎゅうぎゅう詰めに拘束してやまない世界から何度でも脱却して異なる世界をこれまた何度でも創設することができるのではないか。そんなふうな言葉のやりとりができるようになった時すでに大学生になってしまっていて鬱々とした日々が限りなく惰性に近く続いていくことになっていたのだった。

 

変な「癒し」へ一時避難するという方法もあるにはある。この種の「癒し」のどこが「変」なのか。超大国ならどの国家でも陥っているように一時的な「癒し/休息」を与えられた労働者階級はすでに半分はもう壊れている心身を一時的な「癒し/休息」の消費を通してどうにか元に戻ったかのような状態へ復帰させ、またしても一時的な「癒し/休息」を必要とする心身の状態へ逆復帰してしまうという逆説を死ぬまで反復しなければならないところがあからさまなまでに「変」だというほかない。そしてこれまたいつものように資本主義というシステム自体の政治的焦点化は先送りあるいは棚上げされていくばかり。

 

ヨーロッパで台頭する極右ナショナリズムについて考えていたら、まあ当たり前的にこんな話になってしまった。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて977

2024年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

ドアーズのファンであれディープパープルのファンであれどちらのファンも納得させてしかも知らない人なら両方ともアルバムの一、二枚は買って持っておいてもいいかなあと思わせレコード会社を喜ばせてくれるパロディってそうない。適度な仕上がりのものならこんな感じ。

でもポップスやロックやアニメのテーマ的な楽曲の作曲というのは今じゃあ難解な理論を知らなくても簡単にできてしまえる。むしろ理論が逆に縛りになることも少なくない。だから増えてきた。こうすりゃこんな曲がすぐできる、あっという間にできる、こんな効果を付け加えたいならこうするってだけのなら。魔法みたいに。

 

とはいうものの、何だか違う、本当に演りたいことはもうちょっと違う、となると頭の使い方自体を切り換えないといつまで経っても一定の枠組みの外を発見することはできそうにない。