二〇二四年十一月二十九日(金)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
精神障害関連の事務手続きのため市役所周辺へ出たついでに琵琶湖疏水の紅葉を見てきた。
帰宅するとタマがお出迎え。
タマね、お利口に待ってたよ。
自分で言うかな。
言ってみただけ。で、紅葉はどうだった?
うん。疏水の辺りは昔からごり推し感のないごく普通の並木なんだ。落ち着いて眺めていられる。もっともそこまで行けない人たちも近所を散歩すれば秋に色づいた木々が幾らでも見られる。早朝のリハビリで琵琶湖畔まで行って帰ってくるだけで気分が整うってのは近くで暮らしていれば誰でも知ってる。
タマも二階の窓から見て知ってるよ。
でも惜しい事態が加速してる。例えば季節の移ろいひとつ取っても通勤通学の人々が公共交通機関から見える窓外の景色や通学路の移り変わりにほとんど反応しなくなってしまったことだね。人間の端末機械化が不可逆的なほど進行してる。
また端末の話なの?
いや、その前に大事なことがある。今なお琵琶湖疏水は昔ながらに楚々としたもんで、ほら紅葉だ、ほらスマホで撮れ、端末使わないと時代遅れでいじめられても自己責任の泣き寝入りでますます白い目で見られるだけだぜ?っていうような偏向報道にはならないし偏向報道に向かない作りなのさ、元々ね。そんなくらいが適度というか心身ともに少しはリラックスになる。
そんなもんですか。
飼い主の実家は円山公園、祇園、宮川町、鴨川、南座、清水寺とかに取り囲まれた春夏秋冬もういい加減にしてくれというしかないところにあって、春の桜なんてそれこそ「盛り盛り」でなんだか不気味に思えてくるわけ。毎朝ね。で高校時代は大津市の私立に行ったのさ。するとローカルなチンチン電車なんだけどちらほら見える四季の景色がなんとも奥ゆかしくて精神的な避難場所になった。その三年間でギターもめきめき上達したんだ。読書もね。大都市とは距離を置いたのんびりした場所に心を置く時間を持つことができたから、余計なことは考えず気ままに趣味を身に付けることができたわけ。
でもそれじゃあのんびりし過ぎてしまわない?
大学受験のことだね。でも受験だけに限って言えば所詮技術なんで本来的な学問とはほとんど関係ない。技術だから最後の夏休みと秋の学期が始まって一ヶ月くらいほぼそればかりに取り組むだろ?すぐ後の模試の結果みたら関西の有名私立合格圏内に十分入れるようになってた。息抜きにギター弾いて本も読みながら。それが飼い主にとっての「ながら勉強」。
むむ~。あ、でも昨日テレビ見てたら兵庫県で「盛り」がどうしたこうしたと言ってたのタマ見たよ。さっき飼い主は「盛り盛り」ってのは不気味な気がするってのとなんか関係あるの?
この前SFC構想の話したよね?ウィキペディア見たらさ、SFCは実質的に「慶応SFC」のことを指すとか載ってて驚いたんだけど。でも実は慶應大学だけの話じゃ全然ない。SFCはただ単に地名の頭文字を付けただけで実際は世界中の有力大学と提携した大規模ネットワークのことであってね、端末を利用して世界中をソフトな仕方で「洗脳」を「洗脳」と思わせない緩やかな「洗脳」を施しちまってすべてのデータを動員しつつ世界的常時管理網を構築しようという競争から始まった。旧西側旧東側の枠組みが終わりそうな頃から本格化したから常に臨戦態勢に置かれる。さらに日本はどこまでもアメリカの下請けに甘んじないといけないからいつも脱落するほかない指定席に釘付けされてる。だから日本のSFCネットワークは米中の有力大学を始めとする巨大な一環のひとつに位置付けられていくばかりでどれほど大金を投じてもその成果は常に米中への滅私奉公を経てそのおこぼれを頂戴するしかないシステムなんだな。だからタマがテレビを見て兵庫県とか言い出したから、そんなのもはや周回遅れもいいところだって意味で二、三日前にアメリカ州知事とハメット”Red Harvest”の話をしたわけ。
はあ、そんなもんですか。
情報宣伝ストラテジーでいう「盛り」もそうなんだけど「盛り」って言葉が公人と関係の深い民間事業関係者の口から出たところでアレルギー的拒絶反応がどばどば出てこない日本の有権者はもうどうかしちゃってると思わなくちゃ。ついで言っとくと春の桜が「盛り盛り」なのを見ると無気味だってフレーズを見たのは高校時代で恐ろしく古い小説なんだけど古井由吉「櫛の火」だったと思う、確か。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ロイ・ハーグローヴ。”Habana”と同時期に録音された未発表アルバムらしい。”Habana”は出世作になったわけだが当時のジャズのお手本的な感じで持ち上げられた印象。しかし今回の未発表作品集はより一層カリビアンな風味。ラテン・ジャズというひと言では括りきれないファンク系やちょっと懐かしめのアフロ・キューバン系も含め広く味わい深い。