白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ380

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十一月十三日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

さっきタマ見たんだけど布団の上に毛布が置いてあった。

 

うん。この辺は山が近くて夜は冷える。

 

山って居間から見えてるお山さん?

 

そうだよ。遮るものがないから風がまともにひゅうって降りてくる。去年は婆さんがいたから居間のエアコンを付けててタマも暖かかっただろう。今度の年末年始はそうもいかない。電気代が怪物化した。

 

電気って化けて出るの?

 

電気が直接化けるわけないよ。一旦お金に置き換えるだろ?でないと買えないんだけど、この売買ってのがくせものでね。ちなみにお前さんは保護猫なんだけど譲渡会経由じゃなく流通に乗ることもなく知り合いからひょいとこの家にやって来た。そのまま居着いたから転売も知らない身なんだ。

 

転売がどうかしたの?

 

だからね、お前さんは一度もお金に化けたことがないって話なんだけど、言いたいのは、ほら最近テレビでやってるだろ。宇宙開発って。

 

やってる、タマ知ってる。

 

宇宙開発って言う時の宇宙は猫が見上げる単純素朴な空だけの意味じゃない。

 

むむ。

 

あれはね、不動産物件開発戦争でもある。いまのガザでやってるわざとらしい穴ぼこ不動産化戦争ってあるだろ?なるべく派手に無惨にやって見せれば見せるほどお金になる。未来の空もことと次第によっちゃ、ああなる。月なんて人間が到達した瞬間にどこぞの国旗を突き立てて見せるのが人間って生き物だからさ。

 

うさぎさんはどうなっちゃうの?

 

どうなるんだろうね。ともかく今のお月見は見納めが近いかもしれない。代わりに昼夜を問わず空でビカビカ火花が炸裂する。それが新しいお月見になるかもね。で、人はそれをうっとり見上げながら足元のことを忘れそうになるんだ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ダイアレクト。外出時はシャットアウトしたくても否応なく聴こえてくる音楽で溢れかえっているが、それを嫌がる人も多いので、そうなると外出先によってはただ単にアンビエント風の音楽を流しておけば無難だろうみたいな場所が増えてきた。そういう時はアンビエントならアンビエントでその出発点に立ち戻ってみればいいのではと思わせてくれる。う~ん、なるほど。


Blog21・日本リベラル個人主義の敗北、そして沈黙

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

資本主義リアリズムに「道徳的批判」を向けてもむしろ逆効果。予告どおり述べてみる。その前に「ストレスの私有化」とは何か。

 

「私が『ストレスの私有化』あるいは『一般的な心理的私有化』と呼んでいるプロセスがあります。例えば、あなたはマイホームをもつことができるのですが、外の公共空間がひどく荒廃しているなかで、マイホームは癒しと避難の場となります。そうしているうちに、私たちが関わりを持てるような公共空間は消えていく、これが問題なのです。これもまた、現状に代わるオルタナティヴがないという感覚のとても大きな原因となっています」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.38」ele-king books 二〇二四年)

 

「そうしているうちに、私たちが関わりを持てるような公共空間は消えていく、これが問題なのです。これもまた、現状に代わるオルタナティヴがないという感覚のとても大きな原因」

 

というわけだがこの種の逆説はマーク・フィッシャーが言う前からほんの一部とはいえ日本でも繰り返し指摘されてきた。大学在学中だったから一九八〇年代後半のこと。一九九〇年代に入るといよいよ本格的な民営化の暴風雨が吹き荒れた。その後、マス-コミに登場してきたのは「強欲資本主義はいけない」というリベラル系専門家の「的外れ」コメント。テレビニュースでもしばしば流れた。

 

思ったものだ。資本主義はそもそも強欲なものだ。しかも資本主義はシステムなのであってどこか「特定可能な顔」を持っているわけではいささかもないと。次の箇所でフィッシャーはその辺りにフォーカスしている。

 

「強欲とか、そういうカテゴリーだけで話し合ってもダメです。資本主義リアリズムには、ある種のホッブズ主義が埋め込まれています。資本主義リアリズムのひとつの側面は『それが世のなかのあり方だよ』という考え方で、そこには『人間は本来、競争的な存在なんだ』ということも含意されています。もし欲が蔓延しているとか、『銀行が倒産したのは強欲な銀行家のせいだろう』というような考えを通じて資本主義を批判しても、それは資本主義リアリズムを弱体化させるのではなく、むしろ資本主義リアリズムの肥やしになってしまうのです。そういった諦めや冷笑主義がそもそも資本主義リアリズムに付随する後景の一部であるという意味で、そうした批判は資本主義リアリズムに飲み込まれるだけです。それに、的外れな批判でもあると思います。

 

後期資本主義の問題は、資本家の欲深さではありません。マルクス主義的な分析と倫理的な分析の違いがここにあるのです。マルクス主義的な分析はシステムに焦点を当てており、組織の形態が中心的な問題となります。資本主義がよくないのは、CEOたちがことさら悪人だからではないでしょう。その逆です。CEOの立場にある人は誰でも、CEOという立場が要求する振る舞いをするでしょう。そういう振る舞いを生み出すのは、システム上の圧力にすぎません。ここでひとつの問題となるのは、私たちは体系的な傾向をみているということです。このような非人称的なシステムに対して『もっと責任感を持ちなさい』というような、日常生活に適用されるカテゴリーを当てはめるのは時代錯誤であり、一種の通俗心理学的なことです。つまり、私たちが直面している問題の規模は、倫理的なものへの注目によって見えにくくなってしまうということです」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.39~40」ele-king books 二〇二四年)

 

日常生活に適用される倫理的な問題というカテゴリーで言えば、例えば差別的言動の大量増殖が上げられるだろう。そんな当たり前の気遣い次元でいいとすればどんな嘘っぱちでもポーズのひとつくらい取って見せかける政治家が日本だけでもわんさといる。問題は「道徳的倫理的批判」をそのまま資本主義批判として妥当させようとすると逆に問われないといけない問題が極めて曖昧になってしまうという点。

 

身近な例を上げてみたい。例えばヒップホップ。イギリスやアメリカのヒップホップには特徴的な強味があるわけだが、それは何かというと「階級」というものが付き纏って離れない点で顕著だろうと思われる。ところが日本ではせっかく歌詞があるにもかかわらずいともあっさり安全牌ばかり取り上げてきた結果敗北へ向けて加速しつつある。システム自体は「特定の顔」を持たない資本主義ネットワークだけれども巨大資本はその光景を見下ろしてけらけら嘲笑う。


Blog21・嗤う資本と「思い込み」

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

資本主義の他に方法はないという「思い込み」。マーク・フィッシャーはいう。

 

「例えば教師たちは、ビジネスから輸入された自己監視手続きや自己評価手続きを要求されるようになったのですが、こうした手続きには、奇妙な主観的否認がつきまとうものです。ビジネス用語やビジネス的手法を押しつけることに抵抗を感じるマネジャーたちは、それでも労働者や教師たちにこう話しかけるでしょう。『君たちにこのやり方に納得する必要はないけれども、これは今の時代が求めるやり方なんだ。それに合わせる以外、方法はないのだ』と。このようにして、ビジネスの現場から入ってきた慣習や言語に従うしかないという感覚は、『代替案がない』という感覚のなかで鍵となる要素なのではないかと思います。『これが今のやり方なので、その他に道はない』という感覚のことですね」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.37~38」ele-king books 二〇二四年)

 

資本主義リアリズムというのは「『代替案がない』という感覚」だと。この「感覚」に過ぎないものを大変多くの人々があたかも「自明の真理」であるかのごとく信じて疑っていない。少し前に小説についてこう書いた。

 

「読者としてはそれらの同類に「真正面から取り組んだ意欲作」というキャッチコピーを見かけない日はないと半ば辟易しているわけだが、そういうキャッチコピーに常につきまとう隠蔽機能というものがある。

 

意欲的に取り組む姿勢がどうこうということではなくて「真正面」という言葉の中にある「真」というものに「嫌疑をかけてみる」ということから撤退し出した。だいたいでしか言えないとしても一九九〇年代一杯を通して大変多くの小説がそれをやらなくなった、手放してしまったという印象がとても強い違和感としてわだかまっている」

 

さて今の日本の教育機関、とりわけ大学経営。大学法改革はあまりにも大きな暴挙に思えるわけだが、しかしビジネス用語を用いればいとも容易にそんなことができてしまえるのかという驚きだけでなく多くの人々が何がしかの違和感を覚えながらもさほど目立った反応を示したとは言い難い状態を呈していたのは不可解この上ない。

 

有力大学が巨大軍需産業界とその世界的ネットワークへ積極参入するということ。私物化されれば何が起こるか。ところが当事者たち自身は「『代替案がない』という感覚」に陥ったまま日に日に抜け出せなくなっていく事態の進行について逆に心の底から湧き上がってくる官能を隠すことができない。

 

かといってこの状況を道徳的な見地から批判してみても資本主義リアリズムにとっては痛くも痒くもない。むしろ道徳的批判なら持ってこいだと思ってなおさら大笑いをこらえきれずにいる。どうしてか?次はそれについての述べたいとおもう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて974

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

昨日子供バンド「ちゃんばらロックンロール」のことを話していたら今朝方、そうだ「ロンリー・ナイト」とか「朝」とかもコピーしたのを思い出した。ライブハウス主軸の初期の頃だなあ。大ホールでやるのは向いてないしいわゆる「おいしいフレーズ」を必ずサビに散りばめるポップスではさらにない。

 

明るめの曲が多い子供バンドなのだが「ロンリー・ナイト」とか「朝」とかはマイナー調ということ以上に歌詞が暗かった。その暗さがいいのである。ハード・ロックといっても歌詞は今でいう「不登校」とか「朝起きられない憂鬱」とか「学校ってなんとも違和感」とかを取り上げていた。一方高校時代、そんなの聴いてるやつは「暗い」やつだとぶつぶつこぼしているやつがいた。

 

それから半年ほどした頃。たまたま友達に誘われて子供バンドのライブを見に行ったら、どういうわけか「暗い」と言って憚らなかったそいつがちょっと離れたところにいるのを見かけた。こちらには気づかず仕舞いでステージを見ていたようだが「暗い」といって却下し馬鹿にしていた曲にもしっかり耳を傾けていた。

 

気が変わったのかそれともあえて「暗い」とばっさり言いきってしまいたい個人的な事情がそもそもあったのかもしれない。もし家庭の事情とかならおいそれと訊ねられるようなものでは全然ないわけだが。

 

初期のライブはほぼ同時期にメジャーシーンに躍り出てきた幾多のメタルロック・バンドとは大きな違いがあって女性の割合の多さが目立っていた。メタルでなくてもまだまだ男性からの支持が圧倒的だったRCサクセションにはちょっと近寄りがたいものを感じていた少しナイーヴな十代中心の女性層で、どこを切り取ってみても当たり障りのない歌謡曲に幻滅していた人々だったのだろうと今も思い返すことがある。

 

「生きづらさ」という言葉が定着してきたのはつい最近のこと。あまりにも遅い、遅すぎる日本。てくてくでいいから少しでも生きていこうとしていた人々のことなんて四〇年も無視し続けてきたくせに今頃になって「取り組む」なんて気取るなよ。