二〇二三年国会議員選挙結果を受け、三浦雅士から引用してこう述べた。
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三浦雅士が指摘した「マルクス主義」への熱狂とドストエフスキー作品の登場人物の熱狂との極端なカーニヴァル性。日本を変えると言いたいのはわかる。変わらないといけない部分は多々あるとも思う。だが、何を、どうやって?三浦雅士はいう。「急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスとドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。ドストエフスキーがその小説において、マルクスの限界を刻印しようとして躍起になった理由である。青春の終焉とは、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉である」。
(1)「マルクス主義は宗教にすぎないとは、むろん、カール・ポパーのような論理実証主義者をはじめ、多くの思想家が述べていることである。それはキリスト教の最終形態にすぎない、と。だが、ベルジャーエフがいささか特異なのは、その背後に、ドストエフスキーの文学世界を潜ませているからだ。そしてまた、これもまた幻想にすぎないともいえようが、ロシアの風土をも潜ませているからだ。ロシア共産主義は本来的なマルクス主義なのではない、それは『ロシア民衆とプロレタリアートとの同一視、ロシア的メシア主義との同一視』によって成立した、さらにおぞましい宗教にほかならないのである。ベルジャーエフの、ときに神秘主義的にさえ見える思想を、ここで論じようというのではない。このような徹底したマルクス主義批判が、ドストエフスキーという先達の後を追うことによってはじめて達成されたという事実に注意を促したいのである。そして、ドストエフスキーもまたマルクスと同じように、いやそれ以上に、急進的かつ根源的であったという事実に注意を促したいのだ。指摘するまでもなく、たとえば『悪霊』は、ロシア共産主義のすべて、スターリニズムのすべてを前もって描き切っている。『カラマーゾフの兄弟』は、思想的な局面においてそれをさらに押し進めている。ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーからイワン・カラマーゾフへといたる人物像は、二十世紀を席巻したロシア共産主義の戯画以外の何ものでもない。おぞましい収容所列島の戯画以外の何ものでもない。戯画がはじめにあってその対象が後に実現するという転倒した事態には驚くほかないが、しかしよくよく考えてみれば少しも驚くべきことではない。ドストエフスキーは、急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスその人を自分自身のなかに飼っていたといっていいからである。ベルジャーエフは、『ドストエフスキーの世界観』のなかで、『ドストエフスキーの時代には、社会主義は主としてフランスにいちじるしかった。ドストエフスキーは、ドイツに発達した社会民主主義をまだ知らず、マルクス主義も知らなかった。だから彼の考察の多くは古くなっている』と述べている。あるいはそうかもしれない。だが、たとえば森和郎は『マルクスと悪霊』のなかで、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件で連座したニコライ・スペシネフを介してマルクスおよびマルクス主義に関しては熟知していたはずだと論じている。たとえば『悪霊』におけるインターナショナルへの度重なる言及を見ても、ドストエフスキーがマルクスを知っていなかったとはまず思えないが、事実関係はしかしここではさして重要ではない。知っているいないにかかわらず、ドストエフスキーは『ラディカルということは、ものごとを根本からつかむということである。だが人間にとっての根本は、人間そのものである』と書きつけたこの三歳年上のユダヤ人と、まさに根源的に似通っているというべきだからである。ドストエフスキーが『悪霊』のほぼ最後にルカ伝の『悪鬼に憑かれた豚』の挿話を引いているのは、表題の出所を暗示していることもあって有名だが、この小説にはほかにも聖書からの引用がある。ヨハネ黙示録の第三章第十四節から十七節にかけてである。『悪鬼に憑かれた豚』の話が引用されたと同じ『スチェパン氏の最後の放浪』の章に並べられているだけではない。『悪霊』の核心ともいうべき『スタヴローギンの告白』においても引かれているのである。二度にわたる引用はドストエフスキーの深いこだわりを示している。ラォデキヤに在る教会の使(つかひ)に書きおくれ。
『アァメンたる者、忠実なる真(まこと)なる証人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ、われ汝の行為(おこなひ)を知る、なんぢは冷(ひやや)かにもあらず熱(あつ)きにもあらず、我は寧(むし)ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、我なんぢを我が口より吐出(はきいだ)さん。(後略)』(日本聖書協会訳)この一節を聖書売りの女ソフィアが読んでくれたのに対して、スチェパンは『わたしは今までこの偉大な章を、少しも知らずにいましたよ!まったくですね、なま温いよりはむしろ冷たいほうがいい。単に生温かいよりは、むしろ冷たいほうがいいです!』(米川正夫訳)というのである。また、スタヴローギンは、自分の依頼に応えて暗唱してくれたチーホン僧正に、諳誦を断ち切るように『たくさんです』というのである。スタヴローギンの身にこの一節は染み透っていたのだ。染み透りすぎるほどに染み透り、もはや言語が身体と化していた。『たくさんです』という切断はその事実以外を示していない。そしてその父の世代のスチェパンは、この一節に気づいていなかったことに気づいて驚くのである。これこそが新しくはじまっている奇怪な事態の根本であることに気づいて驚くのだ。この言葉は、思想はただ急進的かつ根源的であることにおいて思想たりうるという事実を物語っている。極端でなければ思想ではない。そしてまた、文学ではない。スチェパンもスタヴローギンも明確にそう受け取っている。過激であること、急進的、根源的であることの重要性を認識することにおいて、ドストエフスキーはマルクスに等しい。『ロシア人は一ったんカトリックに移る以上、必ずジェズイットになる』とは小林秀雄が好んで引くムイシュキンの台詞だが、過激なのはロシア人ではない。ドストエフスキー自身である。それは『ドイツの根本は、これを根本から改革するのでなければ改革できない。ドイツ人の解放は人間の解放である』と語るマルクスが、ドイツ人についてではなく自分自身について語っているように響くのと、まさに同じである。この論理、いや、この情熱こそ、大学の解体は国家の解体でなければならないと断言する新左翼の思想の淵源であった。バフチンはドストエフスキーの小説の特徴をポリフォニーにあるとした。夥しい声が立ち上がり、交錯し合う小説である、と。だが、いうまでもない。それが可能なのはただ、過激な登場人物たち、急進的かつ根源的な登場人物たちが、口角泡を飛ばして語り合うそのことによってのみなのである。熱いものは端的に熱く、冷たいものは端的に冷たい。その両極が摑み合うように激論するそのことにおいてのみなのだ。急進と根源は、ポリフォニー小説の要件にほかならなかった。カーニヴァルの要件にほかならなかった。微温的なカーニヴァルはカーニヴァルではない。ドストエフスキーの小説に、青年ヘーゲル派のなかでもとりわけ激情家で自信家で毒舌家で有名だったマルクスが登場するのは、したがってまさに必然であった。マルクスはドストエフスキーの分身、もっとも重要な分身にほかならない。ドストエフスキーは、資本主義社会を分析するその鋭い刃を、自分自身に、また自分自身の党派に向けたマルクスである。その傲慢、その悪意、その策謀を、自分自身に向けたマルクスである。急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスとドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。ドストエフスキーがその小説において、マルクスの限界を刻印しようとして躍起になった理由である。青春の終焉とは、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉である」(三浦雅士「青春の終焉・P.465~470」講談社学術文庫 二〇一二年)
(2)「かつてマルクスはプロレタリアートを『失うものは何もない』階級として思い描いた。
『ヘーゲル法哲学批判』を読めば、プロレタリアートなどそれまで存在したこともなかったこと、ただ『失うものは何もない』という根源的な立場を確保するために必要とされた幻想にすぎなかったことがよく分かる。それは、人間を解放するためにこれから形成されなければならない階層だったのである。プロレタリアートは、マルクスをはじめとする青年ヘーゲル派の欲望にほかならなかった。『失うものは何もない』自分自身と重ね合わせることのできる、いってみれば、青春の甘美な夢にほかならなかった。
むろん、青春も、青年も、十八世紀が発明した観念にすぎない。対するに、『失うものは何もない』という根源的な意識は、青春とも、青年とも無関係に、はるかに古くから存在していたに違いないのである。失うものは何もない、生命以外にーーー絶望と希望が交錯し、また劇的に反転するこの地点は、死の意識とともに古いといわなければならない。すなわち人間とともに古いといわなければならない。
犬や猫は、たぶん、『失うものは何もない』などと思いはしないだろう。この意識は共同体の発生とともに古く、おそらくは共同体の基底を形成したに違いない。なぜならそれは共同体を脅かすほとんど唯一の地点だからであり、逆にいえば、共同体を変革しうる唯一の地点だからである。自殺の地点といってもいい。
知られているように、古来、子供が大人になるための通過儀礼においては、必ず擬似的な死が、そして再生が体験される。『失うものは何もない』という地点を通過する体験こそが、通過儀礼の要なのである。共同体の通過儀礼ともいうべき祭りもまた、『失うものは何もない』という地点を必ず通過する。
当然というほかないが、死と再生のあいだ、彼岸と此岸のあいだには、必ず『失うものは何もない』という地帯が横たわっている。さまざまな儀礼や儀式によって、人はそれを共同体の核心に組みこんだのだ。それこそが共同体の秘密にほかならなかった。
青春も、青年も、資本主義の勃興、市民社会の勃興とともに生じた集団概念であるとすれば、それはかつて通過儀礼として共同体の内部に組みこまれていた『失うものは何もない』というひとつの状態を、共同体の内部ではもはや支えきれなくなったという事実を示している。それはかつて共同体の通過儀礼のなかに含まれていたひとつの瞬間が、ひとつの持続として引き延ばされ、目に見える集団として共同体の外部にはじきだされたことを物語っている。すなわち、青春も青年も、はじめから『失うものは何もない』というこの根源的な地点の雰囲気を濃厚に帯びていた、いや、その代替物として登場してきたのだ。それは『失うものは何もない』という状態の象徴にほかならなかったのである。
したがって、『失うものは何もない』という形容を、たとえばプロレタリアートにこそふさわしいものであるなどと考えてはならないだろう。むしろ『失うものは何もない』という根源的な地点への憧憬が、また渇望が、プロレタリアートという概念を生んだのであって、その逆ではないからである。
『失うものは何もない』状態は、一般的にいって、決して望ましいものではない。青年は労働者と連帯しようとするが、労働者が『失うものは何もない』状態から、わずかにであれ『失うものが何かある』状態へ移行したとき、その連帯の必然は失われる。これが二十世紀の労働運動の歴史だったと述べてもいいほどだ。
青年は革命を好み、議会を嫌う。『失うものは何もない』状態は、労働者にとっては直接的な生活の困難にほかならなかったが、青年にとってはむしろ、思想の放恣なまでの自由、政治活動の過激なまでの自由を促す基本的条件だったのである。『失うものは何もない』状態は、労働者にとってではない、青年にとってこそ重要だったのだ。
『失うものは何もない』というこの意識は、死と隣接し、始原と隣接している。共同体は通過儀礼のなかにそれを組みこんだと述べたが、知られているように、階層として、階級として共同体のなかに組みこんだ場合もあった。さまざまな共同体、さらには国家において、『失うものは何もない』階層、階級が、あたかも共同体の秘密の核心として、それそのものを支えるべく形成されていたという事例は少なくない。その多くは宗教と深くかかわっていたのであって、ここにもまた根源的であることが急進的であることを誘発する土壌を見いだすことができる。
たとえば、宗教における原理主義がそうだ。洋の東西を問わず、『失うものは何もない』地点、そこにおいて世界が反転する地点は、むしろ宗教においてこそ威力を発揮したと見るべきだろう。日本においてはさしずめ親鸞の悪人正機説などがその典型だが、とりわけ西洋近代においてそうである。アメリカ合衆国は、さまざまな時点において、『失うものは何もない』ものたちの宗教的結束にほかならなかった。
青春も、青年も、資本主義の勃興、市民社会の勃興とともに生じた集団概念であると述べたが、『失うものは何もない』という意識は、青春や青年の特徴であるだけではなかった。この死と隣接し、始原と隣接している意識は、むしろ献身的な宗教家、また、情熱的な企業家の意識としてもあったに違いないのである。
マルクスは『命懸けの飛躍』という比喩を好んだがーーー一度はドイツにおけるプロレタリアートの形成の比喩として、また一度は、貨幣から商品への転換の比喩としてーーーそれこそ投機的精神にほかならない。『失うものは何もない』ものだけが『命懸けの飛躍』を敢行しうるのである。商業資本のみならず、産業資本においてさえ、失うものが膨大であればあるほど、企業家は逆に、『失うものは何もない』という意識に衝き動かされていたように思われる。青年の意識は、勃興期の資本主義の精神に背反してはいなかった。むしろ逆であった。
資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理によってのみ支えられたわけではない。いや、プロテスタンティズムの倫理の核心には『失うものは何もない』というこの根源的な意識が潜んでいたといったほうがいい」(三浦雅士「青春の終焉・P.484~488」講談社学術文庫 二〇一二年)
(3)「大江健三郎の『万延元年のフットボール』は、急進と根源という主題を真正面から扱って、その意味を深く掘り下げることに成功した小説だった、と述べた。そしてその姿勢を象徴するのが、語り手の蜜三郎の弟で、実質的な主人公といっていい鷹四の、『本当のことを云おうか』という台詞であるとも述べた。それはほとんどルカーチにとってのプロレタリアートに対応する、と。
いうまでもない。『本当のことを云おうか』という一語は、『失うものは何もない』という一語と等価なのだ。『もはや失うものは何もない。本当のことを云おうか。云えば、世界は根こそぎくつがえるだろう』。一語はそういう含みを持つ。
吉本隆明の詩に『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう』という一行がある。根源的かつ急進的な一行というほかない。詩集『転移のための十篇』の『廃人の歌』。前後の文脈を紹介する。
たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるからぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ
吉本隆明がマルクスから受け取ったものが、何よりもまず根源的かつ急進的な精神であったことが歴然としている。この『ごうまんな廃人』は、さながら、現代文明のなかに『傲岸不遜な面構え』で踏みこんでゆくソクラテスである。『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう』という一行は、『すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない』とも対応している。それこそ鷹四の精神の位相、自分一個の存在が全世界と対峙する位相である。
しかし、『万延元年のフットボール』において、ほとんど主旋律のように繰り返される言葉『本当のことを云おうか』の出典は、吉本隆明の詩ではない。谷川俊太郎の詩『鳥羽』からの引用である。詩集『旅』所収、『鳥羽1』。
何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ
本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い
この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!
谷川俊太郎もまた青春の詩人だが、叙情においてではない。根源的かつ急進的なその思想においてである。
詩人は、いまここにこのようにしてある生の自明性に深く傷ついている。深く傷つくことが人間であることなのだと直観している。これは抒情ではない。抒情の拒絶であり、拒絶する思想である。抒情ということでは、むしろ吉本隆明の詩のほうがはるかに抒情的である。思想ではなく、思想を生きようとするその姿勢が、悲愴なほどの情感にのせて歌われているからだ」(三浦雅士「青春の終焉・P.494~497」講談社学術文庫 二〇一二年)
(4)「おそらく、一九六〇年代の資本主義の変容に対応するその表現の素早さにおいて、手塚治虫の影響下に出発した一群の少女漫画家たちの右に出るものはいなかっただろう。やがて、一九八〇年代から九〇年代にかけて、その少女漫画にひたりきるようにして育った一群の小説家たちが登場しはじめる。物語も描き方も少女漫画の雰囲気を濃厚に漂わせた小説家たち、吉本ばなな、小川洋子から、篠原一にいたる小説家たちである。世紀転換期の文学を賑わしたのはこれらの作家たちだった。あたかもその予兆のように、一九七〇年代なかばから八〇年代にかけて、村上龍と村上春樹が登場していた。この二人の作家においても成長の神話はすでに破棄されていた。描かれているのは成長の物語ではなく、冒険の物語、遍歴の物語にほかならなかった。それがたやすく受け入れられた背景には、少女漫画の隆盛があったといっていい。とりわけ村上春樹においてそれは著しかった。村上春樹と吉本ばななの雰囲気は驚くほど似ている。村上春樹の影響が吉本ばななに及んだのではない。会話といい場面展開といい、村上春樹のなかにすでに少女漫画の特徴は明瞭だったのである。『ノルウェイの森』はさしずめその典型といっていい」(三浦雅士「青春の終焉・P.524」講談社学術文庫 二〇一二年)
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にもかかわらず日本の巨大マス-コミは詩人・谷川俊太郎についてその出発点から明白に内在していたラディカルな面を徹底的に削ぎ落とした上で新自由主義にとって痛くも痒くもない、いわゆる「平々凡々な」詩人の死として加工・変造して取り扱った。「追悼」とはまるで違う、むしろ「侮辱」に近く感じた読者視聴者が多数いたに違いないことは異論の余地がない。吉本隆明や中上健次に対する「侮辱」でもある。だがそれを容易に口に出せないような空気の全国的蔓延は今度どのような過程を経て日本沈没へ向かっていくのか、ヒントのひとつになり得るだろう。